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二十一 浅草デート

 浅草観光といえば、まずは観世音(かんぜおん)様である。  煉瓦(れんが)造りの商店が並みたつ仲見世(なかみせ)通りで、大提灯をかたどった人形焼を買ったり、射的で遊んだりしながら、志千(しち)たちは本堂に向かった。  店先など、至るところに鮮やかな黄や白、赤の造花が飾られているのが目につく。 「そこらじゅうに菊があると思ったら、今日は重陽(ちょうよう)の節句か。浅草寺じゃ十月に菊供養の行事ってのがあるんだってさ」  東京案内の冊子を読みあげながら、百夜(ももや)にいった。  旧暦では本日の九月九日にあたるが、通常、今の時期に菊は咲いていない。  新暦になって浅草寺の行事も十月に変更されたのだと案内に書いてあった。  見世物のために通年花を咲かせている鶴月座(かくげつざ)の栽培所が特殊なのである。  しかも今年は残暑が厳しく、なかなか秋らしくならない。夕方は冷えそうなので一応羽織を着てきたが、午前でも日差しが強く、少し汗ばむくらいだ。 「菊供養? なにをするんだ?」 「家から持ってきた菊と引き換えに、祈祷された菊を持ち帰る。そんで、乾燥させて眠るとき枕にいれる」  と、志千は冊子に記載された説明をそのまま読む。 「で?」 「頭痛が治ったりするらしい」 「ふうん……?」  百夜はいまいち釈然としない顔で首を(かし)げている。牡丹荘には仏壇も神棚も置かれていないため、ぴんとこないようだ。 「まあ、要は長寿のご利益だよ。撮影所でも恵比寿天や弁財天を(まつ)ってあるだろ。あれは商売繁盛と音楽の神様」 「神とか仏とか、いろいろいるんだな」 「地元にいたときは、有名な歌舞伎役者なんかも通ってる天満宮に毎年家族で行ってたんだけどさ。牛の石像があって、撫でるとその場所が治るっていわれてんだ」 「牛を撫でると治る? なぜだ?」 「はは、そうだよな。俺もわかんね」  真剣に不思議がっている表情は微笑ましい。  好きな相手と出かけるのは志千もはじめてで、不安もあったが存外楽しそうに話を聞いてくれている。  瓢箪(ひょうたん)池のほとりを歩き、日がもっとも高くなる時刻にあわせて十二階へと向かった。  目と鼻の先に住んでいながら、互いに初めて訪れる場所だ。  塔を見あげた百夜は、 「想像していたより、さびれている」  と、素っ気ない感想を述べた。 「そうだな。日本一の展望塔だっていうから、俺ももっと賑わってるもんだと思ってた」  入り口の周辺を見渡しても、思いのほか人は少ない。  凌雲閣(りょううんかく)が観光名所として盛えていたのは、開業して最初の数年だけだったらしい。  はがれた煉瓦(れんが)、故障の絶えないエレベーター、さらにはふもとに私娼街ができた影響で治安が悪化したのも一因となり、近年はすっかり不人気スポットへ落ちぶれてしまったのだという。  近くの劇場や活動館にはそれなりに人もいるが、十二階にのぼろうという客は少ないようだ。 「窓から眺めているうちは、もっと特別な存在に見えていたんだが……べつに、怖がるほどじゃなかったんだな」 「がっかりした?」 「いいや。どちらかというと、安心した。建物は朽ちるし、どんなに栄えていても飽きられる。おれが見ていた塔の景色は毎日変わらなかったから、もしかすると外では時間が進んでいないんじゃないかと思っていたんだ。そうじゃないとわかってよかった」  帽子の上から頭をぽんぽんと叩き、 「じゃ、今にも壊れそうなエレベーターにも乗ってみるか?」 「それはいやだ」  提案してみたが、全力で拒否された。  各階ごとの商店をのぞき、写真や絵を飾った薄暗い石階段をのぼっていく。  土産屋を冷やかしつつ十階までたどり着くと、そこから上は木造となっている。 「おーい、百夜、大丈夫か?」 「なんで、そんなに元気なんだ、貴様は……」 「俺は普段から鍛えてんだよ。おとなしくエレベーターを使っときゃよかったのに」 「馬鹿いうな。あんなガタガタ揺れそうなものに乗ってたまるか」  息を切らしている百夜の手を引いて、最後の螺旋階段を一段ずつあがった。  暗い階段から外にでると、尖塔の屋根がついた最上階にでた。青草色の欄干(らんかん)に囲われた八角形の展望台だ。 「おー、こりゃすげえ」  急にあらわれた空の明るさに思わず目を細める。  晴れ渡っているおかげで、遠くまでくっきりとよく見えた。  百夜は高所があまり得意ではないらしく、足を踏みだすのを尻込みしていた。 「怖い?」 「……少し」  この青年は基本的に怖がりなのだ。  だからこそすぐに威嚇するのだが、今はそんなところも可愛く思える。  人がいないのをいいことに手を握ったままにしていると、おそるおそる欄干までついてきた。 「ほら、空から見下ろす帝都。家も人もちっちゃくて、玩具みたいだよな」  百夜は目の前に広がっている風景を、食い入るように眺めていた。 「あれは海?」  と、品川方面を指さして志千に訊く。 「そう。点々と浮かんでるのが徳川時代につくられた台場」 「行ったことあるか?」 「品川はないなぁ。でも、俺の地元は港街だから、海はすぐそこなんだ」  いつか横浜にも一緒に行こうと伝えると、百夜は顔を(ほころ)ばせて笑った。  まさに、花がひらくかの如くだ。  普段はせいぜい鼻先で(あざけ)るような笑みしかしない青年が、こんなに柔らかく笑えたのかと驚く。  頂上に吹く風が絹糸のような髪を舞いあがらせ、太陽から降り注ぐ放射状の光が背後に集まり、まるで一枚の絵画みたいだった。  見惚(みと)れるあまり、鼓動が激しく波打った。  もっと他人にも見せればいいのにと思いつつも、自分だけに向けていてほしいような、矛盾した感情が胸中を支配する。  ──いいや、今だけは独り占めしよう。  いつかは誰の前でも自然に笑えるようになればいい。  そう願う気持ちに嘘はないが、この瞬間は自分だけのものだ。  ついつい景色ではなく隣の青年に見入っていると、百夜が突然瞳を大きく見開いた。 「あ……」 「どうした?」 「この風景、見覚えがある。夢かと思っていたが、ここだったのか。おれは以前にも十二階にのぼったことがあるような気がする」  自身の記憶を探りながら、ぽつりぽつりと話しはじめた。 「現役だった頃の母は仕事が忙しくて、家を空ける日もよくあった。ひとりきりの時間はいくらでもあったのに、おれは一度も外にでようとしたことはなかったんだ」 「逃げようとは、考えなかったのか?」 「そんな思考はなかった。知らない世界が怖かったし、人に姿を見せるなという言いつけを破ったら、このまま母が帰ってこないんじゃないかと恐ろしくて、震えながら待っていただけだ」  母親としての残菊の話を聞くたび、苦々しい感情が沸いてくる。  どうにか抑えて続きを待った。 「蝶子がまだいなくて、残菊が舞台を下ろされた前後だから十年ほど前か。母がしばらく家に帰ってこない時期があった。ひと月か、ふた月か……とにかく、あんなに長く家を空けたのは初めてだった。そのあいだに面倒を見にきてくれていた桜蒔先生が、一度だけ連れだしてくれたんだ。巨大な空と、遠い街並み……あまりに現実離れしていて夢だと思いこんでいたが、あの日に見たのはこの風景だ」  桜蒔の思考は志千にもよくわからない。  ただ、広い世界を見せてあげたかったのかもしれない。 「おれより体力がないくせに、ここまでのぼるのは大変だったろうな。まだ子どもだったからずっと大泣きしていて、先生は困った顔をしていた」  と、百夜は懐かしそうにつぶやいた。  一度でも外に連れだしたのは、せめてもの行動だったのだろうか。  志千はこれっきりで終わるつもりはない。  百夜が望むなら、何度でも、どこへでも連れていきたいと思う。  風が強くなってきて声が遠ざかる。  青年の体を引き寄せ、耳元で尋ねた。 「百夜、楽しい? 勝手にいろいろと着せたり、人混みを連れまわしたりして、嫌じゃなかったか?」  百夜はうつむいて、途切れがちに答えた。 「志千にされたことのほとんどは嫌じゃなかった……から、そんなに気を遣わなくていい」 「ほんとに?」 「ほとんどだからな。調子にのるなよ」  ずっと『貴様』か『弁士』だっただけに、名を呼ばれたときの破壊力はすごい。  自分の気持ちを自覚してからというもの、百夜のなんでもない一言や一挙一動で心がざわめくようになった。  色恋沙汰など、他人事の空騒ぎとしか思えなかったのに。  たった一人の青年に、こうもあっさりと陥落(かんらく)してしまったのだから世話はない。 「こないだのは、どっちに入ってる?」  あのときのように耳から頬にかけて指でなぞり、『こないだ』がなにを指すのか示した。 「それは……」  百夜の表情は変わらないが、わずかに頬が赤い。色白なせいで染まるとわかりやすい。 「その質問に答えるのは、ほとんどに入っていない嫌なほうだ」 「あ、はぐらかされた」  あの日は強引に唇を重ねてしまったが、あまり焦らされると胸が張り裂けてしまいそうになる。  どうしても自分を受け入れてほしくてたまらない。 「それより、勝手に触るなといってるだろう。近すぎる。はなれろ」  志千の体を押し返し、耳まで赤くしたまま、さっさと階段を下りていってしまった。

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