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【番外編】百夜と寿家㈥

 その煙草は、独特の甘ったるい香りがする。  撮影のときに何度も嗅がされ、うんざりしていたのを百夜(ももや)はようやく思いだした。 「僕は……彼の恋人でした。もう昔の話ですが」 「え」  志千(しち)の兄である九弥(かずや)から突然の打ち明け話をされ、驚いて言葉を失ってしまった。  そのあいだに、様々な感情が駆けめぐる。  相手は女形(おやま)などの線が細くて中性的な若い男にすぐ手をつけることで有名な俳優だ。  目の前の九弥を見て納得しつつ、自分もその好みとやらの範疇に入っていたのがわかって、微妙に不愉快な気持ちになる。    百夜は人と関わった経験の少なさから、空気を読むのが得意ではないのだが──  その俳優に手をだされそうになったことは、間違いなくこの場で伝えないほうがいい。そのくらいは理解できた。  さらに、志千にも兄の秘密を漏らすべきではないだろう。ただでさえ映画のポスターに載った顔を見るだけで、舌打ちしかねない勢いで毛嫌いしているのだ。  知れば複雑な心境どころではないに違いないし、勝手に喋っていい内容でもない。  一気にいろいろと抱え込むはめになって、頭が沸騰しそうになってきた。  しかたがないので、一旦自分たちのことは切り離して考え、割り切ることにする。 「その俳優とは、どうして別れたんだ?」 「僕が、長男だったからですよ。ちゃんとした妻を(めと)って、家を背負わなければならない立場だったからです」 「あ……」  志千がよく口にしている「気楽な次男だから大丈夫」という言葉は、ただ百夜の心を軽くするために言っているのだと思っていた。  だが、世間では実際にそういう仕組みになっているようだ。  次男だから大丈夫ということは、つまり長男なら大丈夫ではないのか?  自分が幸せだから、その裏で犠牲になっている者なんて目に入らなかった。  なにかもが都合よく、うまくまとまるわけがない。どこかにしわ寄せがくる。 「…………そうだったのか。悪いことをした」 「百夜君、もしかして、しょんぼりしてます?」 「……少し」 「僕が長男だからというだけで、好きな相手と別れるのを強いられて、自分たちの幸せはその犠牲の上に成り立っている……とか考えました?」 「……違うのか?」 「ふっ」  九弥は花でも愛でているような美しい所作で、口元を隠して笑う。 「ふふふ、意外と世間知らずというか、純粋で騙されやすそうですね。悪い大人に誘われても、ついていってはいけませんよ?」 「今、おれは騙されているのか?」  よくわからず首をかしげていると、九弥は指のあいだで燃え落ちるのみになっていた煙草を庭石で消した。 「きみ、物事に無関心そうに見えるけれど、他人の痛みは敏感に察するんですね。これまで、きみ自身がつらい思いをたくさんしてきたのでしょうか」  そして、吸い殻を塵紙(ちりがみ)で包みながら、話を続けた。 「騙したというほどではないですが、あえて意地悪な言い方をしました。きみが罪悪感を抱くような」 「……どうして」 「やっかみかもしれません。あいつは……志千は、兄の僕から見ても恰好良くて、昔から自慢の弟なんです。頼りがいがあって、ハンサムで、自由で、自分の欲しいものにまっすぐ手を伸ばす。僕も好きな相手と並んで、堂々と歩ければよかった」  九弥は畳んだ紙を両手で挟んで残り香を吸い、ぽつりと語りだす。  (くだん)の俳優と出会ったのは十年も前で、相手が横濱での巡業中に、寿呉服店へ立ち寄ったのがきっかけだという。  何度も隠れて会っていたが、そのとき祖父の下で見習いをしていた九弥は、人目や家のことを気にして及び腰になっていた。  最後の日、一緒に帝都に来てほしいと言われ、汽車の切符を渡された。  だが、九弥が停車場に行くことはなく、発車時刻は過ぎ──ふたりの関係は、それきりとなった。   「短い恋でしたよ。彼は当時、人を好きになるのは僕がはじめてだと言っていました。俳優として名を知られるようになりましたし、今はもうそんな苦い記憶は忘れて、美人女優と付き合ったりして浮名を流しているかもしれませんね」  そこまで聞いた百夜は、ひとりで頭を抱えたい気分になった。  ──あの俳優の好みを見る限り、ものすごく面影を追っているような気がするのだが。  だが、九弥はすでに妻帯者だ。  今日聞いたことは、なにもかも自分の胸だけにしまっておくほうがいい気がする。   「……人の心はどうしてこんなに難しいんだ。好きか嫌いか、それだけじゃとても片付けられない。脳が破裂しそうだ」 「惑わせてすみませんでした。この話は、本当にただの意地悪なんです。彼を選ぼうと思えば、選べた。そうしなかったのは僕自身です。だから、きみはなにも気にしなくていいんですよ。志千だったら、たとえ跡取りだったとしても絶対に家よりきみを選んだと思いませんか?」  今でさえ認めてもらえなかったら絶縁すると宣言しているのだから、それは間違いない。 「だが、次男だったらそもそも天秤にかけなくてもいいから、やっぱり犠牲になっているんじゃ……」 「長男であることを、利と取るかどうかですね。逆に考えてみてください。もし志千が商家を継ぎたいと希望したとしても、諦めてもらうしかないんです。僕がいる以上、次男にはその権利がないのだから。すべての資産をたったひとりの子が継ぐ、それが現代の家長制度です。あいつが手にしているのはそれと引き換えの自由。どちらも欲しがったら、僕のほうがただの我儘だ」 「ちゃんとした家に生まれるというのも、大変だな……」  実家の問題に関しては志千がのほほんとお気楽にしているものだから、なにも知らなかった。  本人はもとから活動弁士になりたがっていたのだし、悩んでいた節は見られない。  志千がそうやって自由でいられるよう、そのぶん長兄が家のことを一手に引き受けてきたのではないだろうか。 「ふふふ、本当に反対じゃなくてよかったですよ。僕は商売が好きだし、損得勘定をして折合いをつけて生きていく性格で、志千はそうじゃない。おかげで我が家は平和です」 「妹の見合いの件は、どうするんだ?」 「妹たちには、僕たちよりもっと権利も自由もありません。せめて望まない結婚ならさせたくない。志千を呼んだのは妹ではなく、親の説得のためです。ふたりともあいつには甘いんだから」  九弥は立ちあがり、着物の裾をはたいた。 「さて、きみに風邪を引かせたら弟に怒られそうですし、そろそろ入りましょうか」  そして、冬の月を見あげ──なにげなく百夜に尋ねる。 「彼、元気にしていましたか?」 「……よく知らないが、たぶん元気だと思う」  少なくとも、百夜にちょっかいをかけてくるくらいには元気そうである。 「もう、つらくはないのか?」 「ええ。叶わなかった恋だから記憶に残るんです。もしあのとき帝都についていっていたら、案外すぐに喧嘩別れして、二度と思いださなかったかもしれませんし」  たしかにそうだと笑えば、振り向いて微笑みを返してくる。 「僕、じつは煙草は吸いません。商品ににおいがつきますから。ごくたまにこの香りを嗅いで、彼を思いだす。ただ……それだけですよ」  百夜が腰を起こすと、外の様子を見にいっていた志千がちょうど戻ってきた。 「あれ、兄貴、いつ帰ったんだ?」 「蔵に寄っていたので、正門ではなく裏からまわってきました。入れ違ったみたいですね」 「なんで百夜とふたりきり?」 「他愛のない雑談をしていただけですよ。ねえ、百夜君?」  そう振られて頷いたが、志千は眉を寄せて若干嫌そうな表情をした。 「うちの兄貴、おとなしそうな顔してけっこう食わせもんだから。気をつけろよ」 「知っている。身にしみた」  その答えに、ますます警戒を強めて問い詰める。 「……百夜になんもしてねえだろうな?」 「まあまあ、幸せそうな弟の大事なひとをからかって遊ぶくらい、いいじゃないですか」 「せめて俺に直接してくれよ……」  うなだれる志千の背後には、もうひとつ人影があった。 「で、そちらの少年は?」 「あー、うちの周りをうろうろしてた不審者」 「ちが……不審者じゃなくて、これを渡したかっただけです……」  まだ十六、七くらいと思しき少年は、しどろもどろになりながら白い封筒を握りしめていた。  表には丁寧な文字で『寿みな様』と宛名が書いてある。 「なんだ、みなのやつ、交際相手がいたから見合いを嫌がってたのか。親にもそう言やあいいのに。うちはそこまで堅い家でもねえしさぁ」 「交際なんて、そんな。ときどき文を交換しているだけです……」  母屋からみなを呼んできて、若いふたりが向かい合った。 「渡す勇気がでなくて、こんなに夜遅い時間まであたりをうろついてしまって……ごめん……」 「い、いえ。じつはあたしもちょうどあなたに手紙を書いていて、その」  がちがちと緊張したまま、目を合わせられずにお互い地面に視線を落としている。    みなが見合いを拒否したとき、志千を引き合いにだした理由がわかった。  顔そのものが似ているわけではないが、背が高くてきりっとした目鼻立ちがなんとなく同じ系統だ。  兄が憧れの基準になっているのもそうだろうし、頭の片隅にこの少年がいて思わず口走ったのだろう。 「なんか、淡くてまぶしいな……。学生か?」 「いえ、劇団で見習いを」 「あ〜……役者の卵ね……。それで言いだせなかったのか」  娘を安定した商家に嫁がせたいという、母親の意向とは真逆である。  どうすっかなー、と志千は頬を掻いている。  そこへ黙って見守っていた九弥がでてきて、みなに言った。 「みな、父さんと母さんには自分たちで伝えなさい」 「でも……」 「大丈夫、両親は言い返せやしませんよ。なにしろ家業を放棄して芸能の道を目指した父と、役者をやっていた父が好きで周囲の反対を押し切って結婚した母なんですから。その事実を陳列すればいいだけです」 「陳列て」  志千の横入りは流し、若いふたりに言い含める。 「自分たちでどうしたいのか考えて、ちゃんと伝えられるなら、後押しはします。僕だけではなく志千も味方をすれば、必ず折れるでしょう」  すぐに結婚がどうのという話になるかはともかく、見合いを止めてもらうために、みなと少年は屋敷に入っていった。  あとに残された兄と弟が、やれやれと息をつく。 「俺が言えた立場じゃねえけど、妹となると心配になるよなー。役者でちゃんと食わせてやれんのかって」 「まあ、もし彼が夢に破れても、そのときはうちの店で雇いますので。成功して芝居関係の伝手を増やしてくれれば御の字ですし」 「ほんと、商人は計算高えな……」  くすっと笑いながら、今度は百夜たちのほうを向く。 「志千と百夜君、もしきみたちがいずれ売れなくなって、食いっぱぐれたとしても、ちゃんと面倒を見るつもりなのでご心配なく」 「兄貴、そんなことまで考えてんのかよ」 「おれも……?」 「ええ、元有名人は大歓迎です。店頭に立たせれば客寄せになりますしね。浅草支店をだすのもよさそうです」 「まだ元じゃねえ、現役だ」  九弥は両手を伸ばしてきて、自分より背の高い青年たちの頭をぽんぽんと撫でた。 「妹たちも、弟たちも、誰も路頭に迷わせる気なんかありませんよ。僕はこの家をまるごと背負ってるんです。なんせ、寿家の長兄なんですから」  ***  志千の両親はかなり悩んだようだが、とりあえず様子見ということで、みなの結婚を急ぐのはやめたらしい。  居間に積まれている見合い写真の束を気まずそうに見ながら、志千の母が言った。 「じつは、こっちにあるのは志千さんのぶんで……。あなたをお婿さんに欲しいって、近隣の商家からお話がたくさんきてるのよ」 「入り婿ぉ!? それって相手の家を継げってことだろ。無理、無理」  その返事を聞いた母親は、ちらりと百夜のほうを見て、あっさりと写真を片付けはじめる。 「……そうよね。あなたは活動弁士を辞めるつもりはないでしょうし、お断りしておくわ」  志千はため息をつきながら、 「もうそろそろおまえのこと、言っちまおうかなぁ。なーんか妙にうちの家族と馴染んでるし」  と、ぼやいていたが── 「ねえねえ、百夜さん! 妹さんへのお土産、これなんかどう!?」 「蝶子ちゃんってどんな子? 百夜さんと似てる? 今度は連れてきたら!?」 「花村君、次はいつ来るのかね。夏までには来るだろう?」 「夏ならこの生地はどうですか? 百夜君にとても似合いそうなので、仕立てておきましょう。待っていますからね」 「百夜兄ちゃん、そしたらいっしょにお祭いこうね!」  おそらく、すでに全員気づいているのではないだろうか。  志千の家族に囲まれながら、百夜はそう思ったのだった。

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