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第12話 匠
「すみません、足りません、もう少しお金を貸してください」と言える図々しさもない。困った顔をして、何を言いたいのか顔に書いてついてくる。本当になぜこいつが営業に配属されたんだろう。百戦錬磨の猛者相手にこれじゃあひとたまりもない。
あいつが試しに履いてみて、値段を見て諦めて返したデッキシューズをあいつが洋服を試着している間に買っておいた。それを玄関に置いておく、今日一日中楽しかった。
コートをクローゼットにかけて戻ってくると、上原はソファの肘掛にもたれるように眠っている。そう言えば、あいつもよくテレビ見ながらここでウトウトしていたなと懐かしく思い出す。
気がつくとなぜか俺の手は上原の髪の中に埋まっていた。やわらかい髪が指に絡まる、指先から体温が伝わってくる。気持ちいい、人は独りで生きるようにはできていないんだと実感する。
上原はよく寝ている。じっと顔を見ていたら口元が緩んで幼い笑顔のようになった。その瞬間にその口元に惹かれ、自分の唇を重ねてしまった。
えっ?!
俺は一体何をしているんだ!自分の為に驚いて飛び退いた。心音が速くなる。
どれだけ欲求不満なんだ。
会社の、しかも後輩に何をしてるんだ。頭を抱えて座り込んでしまった。どうかしている。
「うーん」と声がして上原が伸びをした。
まさか気がついていないよなと、さらに鼓動が速くなる。
「あ、あれ?寝てました?主任、すみません、寝てしまっていたみたいですね」
上原は、何も気がついてない。良かった。
「晩飯は、鍋にでもするか。手間かからないからな」
呼吸と心音が乱れているのを隠して、何事もなかったように振る舞った。
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