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第13話 蓮

   変な夢を見た。ありえない事だが夢の中で主任と口付けていた。そして今、唇には主任のその感覚が不思議な事に残っている。  春に入社してから一つ年下の彼女と別れた。仕事で手一杯な俺と、就職活動でいらいらする彼女と喧嘩ばかりになった。お互い傷つけ合うだけの関係を解消してからもう二ヶ月。そういえばあれっきり誰とも付き合っていない。  けれど主任相手にキスの夢、何をどうすればそういう夢になるんだろう。  主任の唇は意外に柔らかかった。違う、夢だ。そもそも俺も主任も男だしありえない。  寝言で変なことを言ってしまったのではないかと不安になる。今日は木下の所に泊めてもらおう。主任のマンションの部屋、寝る場所はあのベッドしかないし、夜中に抱き着いたら大変なことになる。  主任が買い物に行ってくるから茶碗洗っておけと出て行った、その間に今のうちと木下に電話をかける。  しばらく呼び出しても誰も出ない、もう一度かけてみる。今度はツーコールで応答があった。  「もし、もーし?今、ヒロ君シャワーですぅ」  え?女性の声だ。  後ろから「あ!馬鹿、電話勝手に出るな」と木下の声がした。「だって、しつこく鳴ってるんだもん」と女性の声。  「あ、もしもし?上原?どうした?」  これは泊めてくださいとは言えない状況。  「いや何でもない、取り込み中にごめん」  「取り込み中って…まあ、そう言われりゃそうかもだけど。どうかしたのか?」  心配そうな声に申し訳けなくなる。主任に抱きつかないように泊めてくれとはとても言えない。  「ああ、そうだ。昨日俺の乗ったタクシー、どこの会社分だか分かる?俺、鞄なくしちゃって」  タクシー会社にまだ連絡していなかった事を思い出して聞くと、木下は一瞬考えてから確か山の手無線だったと思うと答えてくれた。  礼を言って電話を切る。代表番号を調べてかけてみるが、何も届いていないとの返事だった。そうだよな、タクシー代金は払ってから降りた。  ため息をついていると木下から折り返し電話がかかってきた。  「お前、鞄失くしたって、家帰れたのか?大丈夫?どこにいるんだ?」  心配してくれている、いいやつだ。邪魔はできない。  「ん?大丈夫、ちょっとした知り合いにお世話になってるけれど」  電話の向こう側で安堵した木下の様子が伝わってきた。  なぜか主任のマンションにいると、伝えてはいけない気がしたのはどうしてだろう。

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