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第3話 腹の傷の件について

「雪路さん、俺手伝いますよ」  燐太郎がキッチンに姿を現した時、雪路はカウンターテーブルの上に置かれた電気ケトルのスイッチを入れたところだった。 「お、ありがとう」  リビングよりもやはりキッチンの方が日々の食事の仕度などから生活感が見えるものであるが、シンクの水切りに置かれた食器はどれもふたつずつあり、それが雪路の同棲疑惑を更に濃厚にさせた。  カウンターテーブルの上にも造花ではあるが一輪の花が飾られており、男の一人暮らしでここまで華やかに整えられた部屋を燐太郎は今まで一度も見たことがなかった。 「竜ちゃん、棚の上の段に未開封の紅茶感があるんだけど取って貰ってもいい?」 「どれですか?」  雪路の声に燐太郎は視線を向ける。するとシンク上の戸棚、その更に上段に四角い缶のようなものが見えた。雪路の身長は決して低いものではないが、惜しくもぎりぎり手が届かない高さとなっているらしい。  年上の先輩で、尚且つ嘗ては上司でもあった男性が必死に手を伸ばして高いところにある物を取ろうとしている姿は親しみすらあったが、立場的にそんなことが言える訳もなく燐太郎は喉まで上がってきそうだった言葉を呑み込む。  周囲を見渡しても踏み台になるようなものは見当たらず、それならばどうやってあの場所に缶を置いたのだろうかという疑問は残ったが、電気ケトルが沸騰を知らせる音を響かせてきたのが聞こえると燐太郎はシンクに片手を着いてもう片方の腕を棚の上段へと伸ばす。  雪路に比べて幾らか高身長に恵まれている燐太郎は何なく缶に手が届いたが、その缶を掴み腕に力を入れた瞬間――。 「ぐ、ッ……!」  途端に燐太郎の腹部へ強い痛みが走り、一瞬視界が白黒反転したかのような目眩に襲われた。途端にその場で蹲り腹を抑える燐太郎を心配した雪路は、燐太郎へ寄り添うように屈み込むとゆっくりと背中を撫でながら声を掛ける。 「腹の傷開いたか? 退院したばっかだもんな」 「だ、いじょぶ……です」  雪路の言及通り、燐太郎はつい先日まで入院していて今日雪路の新居へ招かれたのは燐太郎の快気祝いも兼ねていた。  入院していた理由はメンヘラ化した元交際相手の女性に刺されたからだったが、燐太郎が一方的に交際相手から危害を加えられるのはこれが初めてのことではなかった。  ただ人として誠実に対応をしていただけなのに、何故か最後は病んでしまった交際相手に一方的な感情を押し付けられる。女性なんてもう懲り懲りだと感じたのは一度や二度の話ではなかった。  燐太郎は指先まで冷え切った手で雪路に紅茶の缶を手渡す。 「いいよ、あっちで鳥ちゃんたち休んどきな。客なんだしさ」  紅茶缶を燐太郎から受け取る雪路だったが、ぽんぽんと燐太郎の背中を叩いてリビングへの移動を促す。キッチンでは沸騰を終えた電子ケトルが高い音を響かせていた。  このままキッチンにいても雪路の邪魔をしてしまうだけかもしれない。促されてリビングへと戻った燐太郎はビーズクッションに沈む悠真の身体を少し避けて自らもそのクッションへ身を沈める。どこまでも沈み込んでしまいそうな感覚と微かなビーズの擦れ合う音が心地よかった。 「何針縫ったんだっけ?」 「……四針」  ビーズクッションの隣には黒革の広々としたソファがあり、手摺りに片腕を凭れさせながら樹雷が燐太郎へ視線を向けながら問い掛ける。

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