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第9話 推しの転生前の件について
燐太郎としても想定外の形で推しである 《皐月じぇいど》 の中の人、早苗と取り残されてしまったことは気まずさを与えた。どこか早苗からは避けられているような印象も受け、燐太郎は手元のスマートフォンで名前の出た 《翡翠メイ》 の名前を検索することしか出来なかった。
《皐月じぇいど》 の中の人である 《翡翠メイ》 は少し前までは界隈で有名な男の娘インフルエンサーだった。そのくらいのことならば 《皐月じぇいど》 の名前だけでサジェストに出てくるので既知の事実だったが、注目すべきは 《翡翠メイ》 の引退理由にあった。
《翡翠メイ》 はその中性的な容姿と可愛らしい仕草から男女問わず一定の人気があり、主にメイクやコスメなどの配信を生業としていた。しかし一部の熱狂的なファンがストーカー化し、《翡翠メイ》 の配信や写真に霊のような影が映り込むようになり、最終的には何人かが逮捕されたり亡くなったという情報だけが断片的に残されていた。
多くの謎が謎のまま残ってしまっている最たる理由は、《翡翠メイ》 の古参ファンが一連の考察まとめブログを引退の後すべて削除してしまったからだった。
顔を出して配信していた存在としては、画面の向こうの存在だったファンが突然目の前に現れただけでも驚きだろう。引退後バーチャル配信者として再起出来たのもそういった過去の悲しみを乗り越えられたからで、再びファンが画面を越えて目の前に現れたならば恐らくその動揺は燐太郎には計り知れない。
《皐月じぇいど》 の絵師が同じ職場で過去に関係のあった本田真香であることも、早苗の叔父が同僚の雪路であることも燐太郎にとっては寝耳に水の衝撃ではあったが、それ以上に今自分の存在が早苗を苦しめているのではないかという不安が先立った。
燐太郎にとっても推しを困らせることは本意でなく、燐太郎はそっと手元のスマートフォンから向かい側に座る早苗へ視線を送る。
「あ、あの……」
「はひッ!?」
燐太郎に声を掛けられると早苗はびくりと大仰に肩を震わせる。
「あ……」
やはりファンと対面をしたことで早苗を怯えさせてしまっているのではないかと燐太郎は不安に駆られる。
快気祝いを申し出てくれた雪路には申し訳ないが、自分は早々に退散をしたほうが良いかもしれないと燐太郎は考えるが、雪路の家を後にする前にひとことだけ燐太郎は早苗に伝えたい想いがあった。
「――あの、ですね」
採用面接で前職の退職理由を告げる時よりも緊張しているような気がした。燐太郎はきゅっと小さく拳を握る。
「俺、こないだまでちょっと入院してたんですよ。気持ちもめっちゃ滅入っちゃってて……」
優しくすればするだけその好意を曲解され、燐太郎では対処できないほどに増長してしまう女性の気持ちにこれまで何度苦しめられてきたことだろうか。
「でもそんなどん底の時に 《皐月じぇいど》 さんの配信見て元気貰って――」
《皐月じぇいど》 はただ可愛らしいだけではなく、その一挙手一投足、言葉選びやふとした表情の変化に燐太郎は惹かれ、心が満たされていくのを感じていた。
「アーカイブとかも全部追って――」
気付けば早苗の顔は燐太郎に向けられており、驚いたような表情を浮かべていた。
「本当に……!?」
それは初めて燐太郎が正面から早苗を目が合った瞬間だった。
僅かに紅潮する頬、キラキラと輝く純粋な子どものような瞳。画面越しに見る 《皐月じぇいど》 とは違う、早苗の真実の姿が目の前にあった。
矢か何かで胸を射抜かれるような衝撃が走る燐太郎だったが、一方の早苗もハッと何かに気付き再び視線を落とすともじもじと手元が落ち着かなくなる。
「……むっ昔から人の目を見て喋るのが苦手で、勧められて始めたインフルエンサーの配信活動だったんですけど……」
顔出し配信というのは訴求力こそあるが、同時に人前に素顔を知られるというリスクも存在する。きっと 《翡翠メイ》 の引退には燐太郎も考えが及ばない大きな理由があり、その絵師が誰であるにせよ再び早苗が配信活動を開始するに至るにはきっと沢山の苦悩があったことだろう。
「だけど――」
再び早苗はゆっくりと顔を上げる。
「配信を観てそう感じてくれたなら嬉しいです」
それは燐太郎が目を奪われた 《皐月じぇいど》 と変わらない太陽なような眩しい笑顔だった。
気が付けば燐太郎はその笑顔に釘付けになっていた。
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