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第一章 巡り逢い①

 それは偶然の再会だった。宅配便の届け先に、たまたまあいつが住んでいた。   「ごめんくださーい。宅配でーす」    チャイムを鳴らす。ドアが開く。ハンコを持った白い手が覗く。  見間違えるはずもない。潰れた左目を眼帯の下に隠したその男を、俺は子供の頃から知っている。   「……歩?」 「……!」    俺が思わず口走ると、奴も俺に気付いたらしかった。唯一残った右目をこれでもかと見開き、血走らせる。今にも殴りかからん勢いで、ハンコを握りしめた拳を振り上げる。   「てめェ、どうしてここが……」 「ちょ、タンマタンマ! 俺はしがない郵便屋さん! お届け先がたまたまここだっただけだから! 偶然だから!」 「……」    奴は苦虫を噛み潰したような顔をして、大きく舌打ちをした。乱暴に捺印を済ませると、伝票を毟り取って俺の胸に叩き付けた。   「とっとと帰れ。二度と面見せんな」 「ひっでェなぁ。十年ぶりに会うってーのに」    俺の文句を聞くつもりもないらしい。錠の落ちる音が冷たく響いた。    *    歩と初めて会ったのは、俺達がまだ小学生だった頃。暑い夏の日だった。駄菓子屋のアイスキャンディを半分こして、蝉時雨の雑木林を駆け回って、飛行機雲を追いかけて、田んぼの水路で魚を捕まえ、小川で水遊びをした。  歩は一匹の野良猫を世話していた。あいつの黒髪にそっくりな、月夜を思わせる毛艶が印象的な、美しい猫だった。歩は、猫に気紛れに餌を与えては、撫でたり抱きしめたりして可愛がっていた。   「お前にも撫でさせてやる」    ある時、歩は俺にそう言った。   「いいの?」 「優しく撫でろよ」    その時の俺は、小さな命に触れることを恐れていた。この手で触れるだけで、死なせてしまうような気がした。自分は他人の命を奪って生きているのだと、その頃の俺はそう自覚していたし、そう信じていた。  そっと、指先を黒い毛並みに沈めた。猫は、満月のような目をくりくりさせて、それからゆっくりと瞬きをした。  柔らかかった。暖かかった。それは確かに生きていた。命の温度を感じた。生命の息吹が指先から伝わってきた。  俺は思わず手を引っ込めた。それから、次は全部の指を使って、体の表面をそっと撫でた。猫はのんびりと目を瞑ったまま、ゴロゴロと喉を鳴らした。   「かわいいだろ」 「……うん」    その時の歩の優しい笑顔が、今でも俺の網膜に焼き付いている。今になって思えば、あれは紛れもない初恋だったのだと分かる。子供が恋に落ちる瞬間なんて、実に呆気ないものだ。    *    歩のいたあのマンションの一室は、厳密には歩の家ではないらしかった。表札を確認しても、歩の名前はどこにもない。同居中であろう男の名前が記されているだけである。  再び、あの家を訪れる機会があった。段ボール箱を抱え、階段を上り、チャイムを鳴らすと、見知らぬ男がドアを開けた。  物腰の柔らかな、年上の男だ。身なりはきちんとしており、清潔感もある。結婚して子供がいてもおかしくないような、そんな風貌の男だった。   「あゆ……この間の男の人は? 今日はいないんですか」    俺はさりげなく探りを入れた。男が怪しむ素振りはない。   「この間の?」 「ほら、左目に眼帯をしてる」 「ああ、あいつね。今は留守だよ」 「そうですか……」 「なに。お兄さん、あれに惚れちゃった? ダメだよ~。今は僕のものなんだから」 「そ、そんなんじゃなくて……! ただその、あいつとは幼馴染っていうか何ていうか……」 「そうなんだ。田舎にいた頃の? あいつ、自分のこと全然話さないからなぁ」 「まぁ、そうっすね。だいぶ田舎で育ちました」 「そうかぁ。今日はタイミング悪かったけど、また機会はあると思うからさ。僕からもあいつに言っておくよ」 「はぁ。なんか、すんません」    愛想の良い笑顔を張り付けて、男はドアを閉めた。    *    夏休み明け、俺は歩のクラスに転入した。十数名のクラスメイトの前で挨拶をする俺を見て、歩は幽霊でも見たような顔をした。  後から聞いた話によれば、歩は俺を幽霊か妖怪の類だと思っていたらしい。「幽霊がアイスなんか食うかよ。俺は足だって生えてるぞ」と文句を言ってやると、「そういうもんが出てくる季節だろ。夏ってのは」と歩は決まりが悪そうに答えた。   「無害な妖怪だと思ったから、猫だって触らせてやったのに」 「俺は妖怪じゃなくても無害だ」 「男の子は乱暴だからダメなんだ」 「なっ! お前だって男だろ!」    そんなことを言い合いながらも、俺は歩のおかげですぐにクラスに解け込んだ。  実際のところ、あの頃の俺は、歩がそう誤解してもおかしくないような風貌をしていたと思う。自分が生きているのか死んでいるのか、ずっと分からないままだった。今までどうやって生きてきたのか、これからどうやって生きていけばいいのか、何も分からなかったのだ。  歩と出会う前の俺は、生きながらにして死んでいるも同然だった。歩と出会って、俺の世界は色を取り戻した。    ある年の冬、猫が姿を消した。ねぐらにしているはずの稲荷神社をいくら探しても、名前を呼んでも、猫は一向に姿を現さなかった。  日が暮れて、雨が降り始めても、歩は猫を探し続けた。村外れの墓場にまで探しに行った。それでも、猫は戻ってこなかった。  雨はみぞれに変わり、俺達はお地蔵様を祀る祠で雨宿りをさせてもらった。溶けた雨音だけが、ずっと遠くまで響いていた。   「……きっとさ、明日には戻ってくるよ。だから、もう帰ろうぜ」    俺は空元気で笑った。共に過ごした月日は違えど、歩にとってそうであったように、俺にとってもまた、あの猫はかけがえのない友達だったのだ。   「あいつなら、きっと大丈夫だよ。狩りは得意だし、あんなに可愛いんだから、他にも餌付けしてる人がいたかもしれないし、何なら拾われて幸せに暮らしてるかも」 「……」    歩は力なく首を振る。大粒の雨雫が頬を伝った。   「猫は……死に顔を見せないんだ」    雨はいまだ降り止まない。真珠のような水滴が流れている。俺は咄嗟に手を伸ばした。歩の頬を両手で挟み、引き寄せた。   「っ……」    初めてのキスは塩辛かった。歩はむすっと頬を膨らませ、上着の袖で唇を拭った。   「何すんだ、バカ」 「びっくりした?」 「……」    歩はしかめっ面のまま、念入りに唇を拭う。   「ちょ、そんなにしなくてもよくない? 別に汚くないよ? 歯もちゃんと磨いてるし……」 「……びっくりするに決まってる……」    歩は真っ赤になって怒っていたが、それきり静かになってしまった。俺が再び帰宅を促すと、素直についてきてくれた。翌日、二人仲良く風邪を引き、学校を休んだのは言うまでもない。

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