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第一章 巡り逢い②
あのマンションの一室は、厳密には歩の家ではないのだろうが、それでも歩が住まいとしていることに変わりはない。
二度目の訪問の際、歩は留守だとあの男は言ったが、あれは嘘だと俺は思う。というのも、初の邂逅を果たした際に歩が履いていたサンダルが、あの日も玄関の隅に几帳面に揃えられていたからだ。
となると、本当は部屋にいたのに人前に出られない理由があったということになる。あるいは、ただ単に俺に会いたくなかっただけか。――これ以上考えると泣きたくなるからやめておこう。
正攻法では会ってもらえないような気がして、俺はマンションを見張ることにした。犯罪に片足を突っ込んでいるって? そんなの気にしちゃいられない。俺は、あいつにもう一度会わなくてはならないのだ。
張り込みを続けて一週間が過ぎ、奴はようやく姿を現した。俺の粘り勝ちである。仕事以外の全ての時間を費やしただけのことはある。
「ちょいとそこ行くお兄さ~ん? 今夜の予定ってぇ、もう決まっちゃってますぅ~?」
繁華街のキャッチよろしく声をかけると、歩は目を剥いて拳を振り上げた。
「ちょ、いきなり暴力かよ!? カルシウム不足なんじゃねぇのぉ?」
「てめェ、なんでこんなとこにいんだ。二度と面見せんなっつったろ」
「いやぁ、偶然通りかかっちゃってェ」
「監視でもしてたか。ストーカー野郎」
「だってよォ、こうでもしねぇと会えなかっただろ?」
「……」
歩は拳を握りしめたまま踵を返そうとする。俺は慌ててその腕を掴んだ。歩は振り払おうとするが、俺だって手を離すわけにはいかない。
「クソ、バカ力が……。離せよ。何が目的だ」
「昔馴染みと世間話するのに理由なんかいるか?」
「てめェと話すことなんざ何もねぇよ」
「俺はあるよ。お前と話したいこと。いっぱいある」
歩は俺を睨み付け、鋭く舌打ちをした。逃げるのは諦めたようなので、俺は歩の腕を掴む力を緩めた。
「十年ぶりに会うんだぜ? ちょっとは懐かし~とか思わねぇの?」
「……まだ十年は経ってねぇよ」
「……だな」
話したいことはたくさんあったはずなのに、いざ面と向かうと何から話せばいいのか分からない。グラスになみなみ注がれた水だけがどんどん減っていく。
向かいのソファに座る歩の姿は、俺の記憶にある面影よりもずっと大人びて、形容しがたい色香を纏っていた。それでいて、背負い込んだ翳は一層色濃く、硝子細工のように危うげで、風に吹かれて消えてしまいそうに儚い。
「食わねぇのか」
運ばれてきたドリアを指して、歩が言う。
「食うけど。お前は? ホントに何もいらねぇの?」
「腹減ってねぇんだよ。何度も言わせんな」
「ふーん。ちゃんと食わねぇからチビのままなんだな、お前」
「……」
「痛ァ!?」
テーブルの下で脛を蹴られた。ちょっと揶揄っただけなのに。
「おま、昔より短気になったな?! 将来ハゲるぞ!」
「そりゃてめェの方だろうが。下の毛みてェな頭しやがって」
「ハイ、今の問題発言ね! 世界中の天然パーマに喧嘩売りました~。世界の天パ連合に攻め込まれる覚悟はできてますか~?」
「何だよ、天パ連合って。おれはてめェに喧嘩売ってるだけだ」
「喧嘩売ってるのは認めるのかよ」
「もじゃもじゃはしょうがねぇとして、ちったぁセットでもしたらどうだ」
「一応してるからね?! こんな陰毛頭でも、毎朝セットしてるから! 一日経ったらもう見る影もないけどね!」
「すみません、お客様。他のお客様のご迷惑になりますので」
少し騒ぎすぎてしまった。目の全く笑っていないウェイトレスに注意され、俺は濡れた犬よろしく縮こまった。
「そちらのお客様も。こちらは禁煙スペースですので」
「……」
歩は、何食わぬ顔で銜えていた煙草を携帯灰皿に落とし、ポケットに仕舞った。
「ぷぷ、怒られてやんの」
「てめェのせいだろ」
「責任転嫁は見苦しいですわよ、お客様ァ」
「てめェもお客様だろうが」
「しっかし、チビのくせに背伸びしてヤニなんか吸っちゃって。ああ、だから背ェ伸びなかっ――痛ァッ!?」
またもテーブルの下で脛を蹴られた。店員がこちらを睨んでいる。
「おまっ、少しは行儀よくしろっての! いよいよ追い出されるぞ」
「てめェの自業自得だろうが」
「お前の足癖の問題だろ」
歩とファミレスに来るのは初めてだった。あの頃は村の駄菓子屋が唯一の憩いの場だった。もしも村にファミレスがあったなら、今みたいにはしゃいで店員に叱られていたのだろうか。
「てめェ、おれに話したいことがあるんじゃなかったのか? それとも、こんなくだらねぇ世間話がしたくて、わざわざおれを待ち伏せしてたってのか?」
「おい、人聞きの悪りぃこと言うな。まぁ、話したいことは山ほどあるけどよ……」
何しろ十年ぶりに会うのだ。十年間、一切交わることのない別々の道を歩んできた。俺の知らないところでこいつはいつの間にか大人になり、俺もまた、こいつの知らないところでいつの間にか大人になっていた。互いが互いのことだけを知らぬまま、無情にも時が流れてしまった。
「……その目」
俺は、奴の眼帯に隠された左目を指して言った。
「まだ痛むの」
「……」
歩は、眼帯の上から左目を押さえ、微かに口の端を持ち上げた。
「さァてね。痛みなんざとうに消えたさ」
「……そうかよ」
「不満そうだな。忘れないでいてほしかったか」
「別にィ? 大袈裟な眼帯してんな~と思っただけだし?」
「未練がましい男は嫌われるぜ」
「未練ンン!? 誰が!? 誰に!? まさかお前にィ!? 自意識過剰も程々にしてほしいんですけど!?」
「なんだ。違うのか」
全てを見透かすような目をして、歩は冷ややかに笑う。その冷たさとは対照的に、俺の体はどんどん熱くなっていく。このまま奴のペースに乗せられてはとんでもない醜態を晒してしまうような気がして、俺の口は俺の意思とは関係なしに軽薄な言葉を吐き連ねた。
「未練も何も、あるわきゃねェだろ! 大体、俺たちゃそーいうのじゃなかったろうが。お前だって、今はあのおっさんとよろしくやってんだろ? どんな手ェ使って誑し込んだのか知んねぇけど、結構可愛がってもらってるみてェじゃん。俺からすりゃあ、あんなおっさんの飼い猫なんざ、イカレてるとしか思えねぇけどな」
息も吐かずに言い放ってしまってから、俺は即座に後悔した。歩の表情が瞬く間に凍り付く。みるみるうちに色を失くしていく。
「わり、今のは――」
言い過ぎた。ごめん。と謝ることすら許されなかった。俺は頭から冷水を浴び、歩は空になったグラスをテーブルに叩き付けた。
「……やっぱり、会うんじゃなかった」
ごめん。こんなことが言いたくて、お前を探していたわけじゃないのに。お前にそんな顔をさせたかったわけじゃない。傷付けたかったわけじゃない。嫌というほど後悔を繰り返してきたのに、俺はまた一つ消えない後悔を重ねてしまった。
ねじれた毛先から水が滴る。テーブルに散った氷が崩れる。空っぽのソファが無慈悲な現実を突き付ける。大切なことを何一つ伝えられないまま、今日という日が終わっていく。
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