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第一章 巡り逢い⑥

 事件の後、俺達は離れ離れになり、会うことさえ許されなかった。時が経てば、忌まわしい事件の記憶なんて忘れる。そう言い聞かされてきた。けれど。忘れられるはずがない。  忘れられるはずがないのだ。あんなにも強烈な、鮮烈な、おぞましい記憶を。そう簡単に失ってしまえるはずがない。きっと一生かかっても消えることはない。命が尽きるその瞬間まで、俺の心には歩の影が棲み続ける。  もう一度出会えたのは、運命的な巡り合わせなのだろうか。それともただの偶然か。いずれにしても、俺はもう二度と、あいつ一人に全てを背負わせるつもりはない。あいつを一人ぼっちで苦しめながら見て見ぬふりをするなんて、そんなことはもうできない。  あの時拾い損ねてしまったもの。指の隙間から零れ落ちてしまったもの。今度こそ取り戻さなければならない。   「あれ、お兄さん。結局来たんだ」    俺は再び、あのマンションの一室を訪れた。厚顔無恥にも程があると我ながら思うが、致し方ない。   「一晩一万だったよな」 「なーんだ、そこまで吹っ切れちゃったの? それはそれでつまらないなぁ」    残念そうに笑いながらも、男は金を受け取った。   「お兄さんならタダでもいいんだけど、一応ね。寝室は入って左だよ」    廊下を抜けて扉を開ける。開放感のあるリビングが広がっていた。三人掛けのソファに歩が座っていた。俺も見ても顔色一つ変えない。全てを諦め、受け入れる覚悟ができているらしかった。   「よりにもよって、こんな手垢まみれの中古品を買うとはな。よっぽど女に相手にされねぇと見える」 「女には困っちゃいねぇよ」 「じゃあ何だ。好奇心か? 憐れみか? 見下す相手がいて安心しただろう」 「そんなんじゃねぇって。なんでそんなに捻くれてんだよ」    男が寝室へ行くよう促すが、歩は立ち上がらない。俺もその場を動かない。   「俺はただ、お前のことが……」 「……」 「あー、クソ。皆まで言わすな、この鈍感野郎」    俺は深く息を吸い、そして深く息を吐いた。   「好きなんだよ、お前が。初めて会った時からずっとだ。十年経っても忘れられないくらい、お前だけが好きなんだよ。これで満足か、コノヤロー」    子供じみた軽口のノリで告白してしまった。この歳になってわざわざ口頭で愛を伝えるなんて、恥ずかしすぎる。あまりにも居た堪れない。それでも、俺の気持ちとしてはかなり真面目な、本気の告白だった。  歩は、一瞬深く傷付いた顔をした。唯一残った右目を伏せて、顔を背ける。何も答えてはくれなかった。   「お兄さんさぁ、自分が何言ってるのか分かってる?」    男は皮肉まじりにせせら笑った。   「好きだの何だの、くだらないおままごとはやめてほしいなぁ。お兄さんはこいつの本性を知らないから、そんなおめでたいことが言えるんだよ。こいつはね、遊ぶのにはちょうどいいけど、真剣な付き合いにはまるで向かないよ」 「それでもいい。俺はただ、こいつに笑っていてほしいだけだ」 「優しいんだね。見た目に似合わず純愛派? でもねぇ、お兄さん。こいつは想像以上のアバズレだよ。何しろ、」 「やめろ」    歩が口を挟んだ。   「やめてくれ。それ以上は……」    握りしめた拳が震えていた。掠れた声が震えていた。男は、何やら得心したというような顔をして、にんまりと笑った。   「ああ、やっぱりそうなんだ。ただの幼馴染じゃないとは思ってたけど、ここまでとはね。教えてあげようか、お兄さん。こいつは実の父親と――」    やめてくれ、という歩の悲痛な叫びが響くのと、俺が口を開いたのはほとんど同時だった。「全部知ってる」と俺が言うと、男は意外そうに目を丸くした。   「全部知ってるから、迎えに来たんだ。あの日のことをずっと謝りたかった。痛みも苦しみも分け合いたいし、罪は一緒に背負いたい。お前が抱えてるモンの半分だけでも、俺に背負わせてくれよ」    歩の昏い瞳の奥に、一抹の光が微かに宿る。男は見るからにたじろいだ。   「全部ったって……お兄さん、どこまで知ってるの」 「全部は盛り過ぎたかな。知ってることだけ。少なくともあんたよりかは、こいつのことを分かってるつもりだぜ」 「いや……いや、でもさ。無理だろ、今更。なぁ、歩? そうだろう? お前みたいな、淫乱のアバズレの人殺しが、人並みに幸せに生きようなんて、そんな都合のいい話があると思うか? 誰が許してくれると思う? 誰も許しちゃくれないさ」 「だったら俺の方が重罪だ。何しろ二人も殺ってるんだから」    俺が言うと、男は驚きと恐怖に目を剥いた。歩もまた、伏せていた右の瞳を大きく開き、俺を睨み付けた。   「バカ、余計なこと喋ってんじゃねぇ」 「あー、二人は盛りすぎ? 一人と半分ってとこか」 「じゃねぇだろ。おれはまだしも、お前は何もやってねぇだろうが」 「いや、俺もお前と同じだよ。“同じ”だったんだ」    あの日、歩を襲う獣の脳天にビール瓶を振り下ろした瞬間に、すっぽりと抜け落ちていた過去の記憶が蘇った。俺の死んだ母親のことだ。後ろ暗い秘密を誰にも打ち明けられないまま、今日まで一人で生きてしまった。   「なぁ、歩。俺と来い。今度こそ二人で海を見ようぜ」 「……」    歩はおもむろに立ち上がると、差し伸べた俺の手を取った。   「……准。片時もお前を忘れたことはなかったぜ」 「なんだ。可愛いことも言えるんじゃん」 「黙れ。てめェはどうなんだよ」 「俺だって、片時もお前を忘れたことはなかったよ」    繋いだ手は離れない。扉を開ければ、空はまだ明るかった。照り付ける日差しが暖かい。爽やかな風が吹き抜けて、歩の黒髪を揺らした。  初めて味わう幸福感に酔いしれて、俺は失念していたのだ。あの執念深い男が、お気に入りの玩具を易々と手放すはずがないということを。  鮮血が迸った。あの夏の日に見たのと同じ、鮮やかな血の色。歩の背から迸った。   「ペットが飼い主を捨てるなんて、そんな馬鹿げた話があるか。戻ってこい、歩。今ならまだ許してやるから」    地に伏して歩が呻く。男の手には三徳包丁が握られている。研ぎ澄まされた刃に血が滴る。  切っ先が閃いて、青空を一瞬反射した。俺は咄嗟に男の腕を掴む。頬を裂く痛みが走る。   「物乞い同然のお前を拾って世話してやったのは誰だ? 僕のそばを離れて生きていけると思うのか? きっと後悔するぞ。お前のような人間が、まともになれるはずがないんだ。今更真人間のふりをしようったってそうはいかない。お前は元からイカレてるんだ」    暴れる男の腕をねじ上げる。包丁が手から滑り落ち、鋭い金属音が耳をつんざいた。  俺は、男を取り押さえることができなかった。揉み合いになってバランスを崩し、通路の欄干を乗り越えて、男諸共真っ逆さまに落下した。

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