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第二章 初めて①

「おい、准。そろそろ起きろ。遅刻するぞ」    すぐ耳元で歩の声がする。俺は重たい瞼を上げる。   「ん……はよ」 「飯できてるから、早く食え」 「うーん……」 「おい、シャキッとしろ」 「わーってるよぉ……ったく、おっかねぇ嫁さんもらっちまったな」 「誰が嫁だ」    退院後、俺のワンルームで二人暮らしを始めた。「行く当てがないならうちに来れば?」という俺の提案を、歩は意外なほどあっさりと受け入れた。  彼女もいない一人暮らしの若い男の部屋だ。当初は「この惨状でよく人を呼ぶ気になったな」と歩を呆れさせたものだが、今ではすっかり片付いている。二人で住むには手狭なため、不要なものは躊躇なく処分した。  味噌汁の香りが食欲を誘う。手作りの朝食が卓袱台の上に所狭しと並べられている。以前はしばしば朝食を抜いたり、パン一枚で済ませたりしていた俺だが、歩が来てからというもの随分と健康的な生活を送っている。   「ん、出汁が利いててうめぇ」 「よかったな。だがゆっくり味わってる暇ねぇぞ。ギリギリになるまで起きねぇから」 「だいじょーぶだって。余裕余裕」    温かい朝食が五臓六腑に染み渡る。忙しない朝の時間が、至福の時に変わるなんて。二十何年生きてきて初めての感覚だ。   「おい、いい加減に」 「わーったよ。いってきまぁす」 「今日もしっかり稼いでこい」    歩はわざわざ玄関先まで見送りに出てくれる。この場面だけを切り取れば、まるで新婚夫婦のようだ。   「どうした。早くしねぇと遅刻だぞ」 「わ、分かってるっつーの。いってきます!」    本当はいってらっしゃいのキスを期待しているのに、素直に言い出せない。そもそも、俺達の関係性はまだ微妙で、そんな甘ったるいものを欲しがる方がおかしいのかもしれないが。    *   「どうしたのさ、准ちゃん。お弁当なんて珍しいじゃない」    午前中の配達を終え、営業所に戻り昼休憩を取る。同僚の長谷川さんが隣に座り、俺の弁当箱を覗き込んだ。   「あんま見ないでくださいよ」 「いいじゃんよォ、ちょっとくらい。にしても、あれだね。自炊初心者にしちゃ、よくできてるじゃない。療養中に練習してたの?」 「あー、いや、これは……」    口籠る俺を見て、長谷川さんは何か察したらしかった。にやにやと含み笑いを浮かべる。   「えっ、なになに、そういうこと? 准ちゃんとオレの仲じゃない。そういうのはちゃんと報告してよぉ。いくら包めばいい?」 「や、別にそーいうんじゃないんで」 「またまたぁ、照れちゃって。だって見てよ。こんなにちゃんとしたお弁当作ってくれるなんてさ、愛がなきゃできないよ? 愛されてんね~、准ちゃん」 「う、うぅん……愛か……」    そこまで言われてはうまく誤魔化すこともできず、口籠るしかない。  愛されているかどうかはさておいて、歩は手の込んだ弁当を毎朝作って持たせてくれる。栄養満点で彩りも豊かで、午後からまた頑張ろうと思わせてくれる弁当だ。それだけは厳然たる事実である。    *    夜、仕事を終えて家に帰れば、歩が夕食を作って待っていてくれる。明かりの灯る家に帰れるというだけで、なんだかとてもありがたいことのように感じる。以前は、誰もいない真っ暗な部屋へ帰り着くのが常だった。   「たでェま」 「おかえり。飯、もうすぐできるから」 「……」    エプロンを着けて味見をする歩の姿は、どこからどう見ても新妻だ。俺は思わず歩を抱きしめた。洗いたてのいい匂いがした。   「……おい」 「……うん?」 「先、風呂入ってこい」 「うそ、汗臭かった?」 「違ェよ。風呂の間に飯の支度ができるっつってんだ」    肘で脇腹を小突かれた。  シャワーから戻ると、できたての料理が卓袱台の上に所狭しと並べられていた。一汁三菜というのだろうか。俺には到底真似できそうにない。   「生姜焼き? うまそ」 「冷める前に食えよ」    全くもって健康的な生活だ。歩が来る以前の、牛丼チェーンから牛丼チェーンへはしごするような食生活からは想像も付かない。買ったはいいものの戸棚に仕舞いっ放しになっていた鍋やフライパンも喜んでいることだろう。  食事の後、洗い物は俺も手伝う。歩は気を遣わなくていいと言うが、これくらいはやらせてほしい。それに、二人でやればそれだけ早く終わる。  洗い物を終えれば、後は特にやることもなく、テレビを見たりしてのんびり過ごし、日付を越える頃には床に就く。  布団は一組しかない。必然的に同衾することになる。といっても、何もいやらしい意味ではなくて、単純に一緒の布団で添い寝をするというだけだ。  ぎりぎり手が触れるか触れないかの隙間を開けて横になる。もっと近付きたいのを我慢して、俺は半ば強制的に目を瞑る。  じきに歩の寝息が聞こえ始める。もっと近くで感じたくて、俺は歩の口元に耳を寄せる。胸に手を当てれば、心臓の鼓動が伝わってくる。暖かい。今確かに生きている。   「……眠れねぇのか」    歩がふと体を起こした。俺は咄嗟に手を引っ込める。歩の右の瞳が暗がりの中で光っていた。俺を真っ直ぐに射竦める。  歩の手がそっと伸びた。指先から俺の頬に触れる。まずいな、と思った時にはもう遅く、唇が重なっていた。   「ん……」    柔らかくて、温かい。涙の味はしなかった。歩の作ってくれるごはんは何でもおいしいけれど、この甘美さに敵うものはない。  しっとりと濡れた唇が、吸い付いては離れ、離れては吸い付く。息継ぎのために口を開ければ、熱っぽい舌が誘うように唇をなぞった。  いいだろうか。このまま、全てを喰らってしまっても。誘惑に身を任せて、俺もそっと舌を伸ばす。熱い舌先が、ほんの一瞬交わった。   「……准?」 「……もう寝っから」    俺は、歩の肩を掴んで押し戻した。そのまま布団に寝かせて、自分も布団に横たわる。歩に背を向けて目を閉じて、眠ったふりでやり過ごした。背後に聞こえた歩の小さな溜め息は、俺の耳には届かなかった。    *    結局、今日も若干寝不足気味だ。隣に歩が寝ていると思うと、緊張と興奮で目が冴えて、どうもぐっすり眠れない。そのことに気付いているのかいないのか、歩は毎朝、遅刻寸前の俺をきっちり叩き起こしてくれる。  目が覚めて一番初めにこいつの顔を拝めるこの生活は悪くない。一日の最後に「おやすみ」を言い、朝一番に「おはよう」が言える。同棲生活の価値というものは、きっとここにあるのだろう。   「おい、弁当」 「おう。いつも悪りィな」 「帰りは何時だ」 「いつも通りくらい? 遅くなりそうなら連絡するわ」 「……」    歩は、何か言いたげな目で俺を見上げる。歩が何を伝えたいのかということよりも、そのあまりに整ったお綺麗な面にばかり、俺の注意は向いてしまう。透き通った肌も、濡羽色の髪も、艶のある唇も、朝日に照らされてこそ映える。   「んだよ、そんなにじっと見て……」    歩の憚らない熱視線に、朝から妙な気分になってしまう。これから仕事だというのに。   「なぁ、なに――」 「准」    いきなり目線が近くなる。歩が背伸びをしたのだ、と理解したのも束の間。頬に柔らかな感触があった。   「早く帰れよ。待ってるから」    歩は少し照れたように目を伏せた。頬は薔薇色に染まっている。光の中にいるから尚のことよく分かる。  急にデレやがって何のつもりだよ。そういうのツンデレって言うんだよな。自分からデレといて照れてんじゃねーよ。なんて、頭に浮かんだ軽口は一瞬で霧散した。歩の熱が伝染して、俺は茹蛸のように真っ赤になった。

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