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第三章 訪問者⑤

「今日でお暇させてもらいます」    朝食の席で、遼二は突然言った。思いがけないことに、俺も歩もぽかんとしてしまう。   「え、どしたの急に。腹でも痛い?」 「いや、なんやかんやでもう一週間になるけん、そろそろ帰ろうかと。あんまり長居しても……ほら、あれやん。メーワクじゃろ」 「へぇ~、おめェにそういう常識があったとはなぁ」 「オレにも常識くらいあるわ!」 「常識人ならアポなしで突撃して一週間も居座ったりしねぇから!」 「でも、いいのか?」    歩が漬物を齧りながら言う。   「まだ描きたいもの描けてないんだろ。一か月はいる予定だったんじゃないのか」 「そりゃ准が勝手に言うただけじゃ」 「いやまぁ、一か月は盛ったけど、一週間ってのも短いだろ。前来た時はずーっとだらだら居座ってたじゃねぇか」 「……オレにも色々事情があるんじゃ……」    遼二のいつになく深刻な様子に、俺と歩は顔を見合わせた。   「まぁ、復学までは日があるけぇ、日本一周旅行にでも出かけようと思うとる。世界の次は日本じゃ」 「お前がそれでいいならいいけどよ」 「土産でも送ったるわ」 「食い物か酒で頼むわ」    朝のうちに出立するということで、遼二はさくっと荷物をまとめた。「駅まで送ってやれ」と歩に言われ、俺も同行することになった。   「ほいじゃあ、歩サン。お世話になりました」 「元気でな」    遼二はじっと歩を見つめる。普段アホみたいにニコニコ笑っている男の真剣な表情は、不思議な迫力があった。かと思えば、またにっこりと人好きのする笑顔を浮かべて、歩に手を差し出す。最後に軽く握手を交わして、二人は別れた。  最寄り駅まで大した距離でもないが、俺と遼二は学生に戻ったみたいに無駄話をしながら歩いた。   「しかし、何もこんな急に帰らなくても。登山したいとか言ってなかったっけ? よかったのかよ」 「んー、まぁ、次の機会でええわ」 「何だそれ。今しか見れねぇもんがあるんじゃなかったっけ? 今更遠慮なんて、柄にもねぇ」 「そりゃオマエ、あんなもん聞かされていつまでも居候できるわけなかろう。オレもそこまで図太うないし、そこまでデリカシーに欠けてもおらんわ」    遼二の言葉に、俺の歩みは止まった。   「……は?」 「歩サンには言わんとってな。さすがにショックじゃろうし」 「いや、えっ? 起きてたってこと??」 「起こされたんじゃ。あがいにギシギシガタガタやられちゃあ、起きてまうに決まっとろうが」 「マジかよ……そんなにうるさかった?」 「主に振動がな」 「マジかぁ……。いや、確かに、途中から夢中になりすぎて、お前の存在完全に忘れてたけどさ」 「シンプルに失礼じゃのう」    思い返せば、床はだいぶ軋んでいたし、それでなくても、布団に隠れてもぞもぞごそごそやるわけだから、どうしたって衣擦れの音は響いてしまう。いくら声を潜めていたって、物音を消せないんじゃどうしようもない。   「……どこまで聞いてた?」    俺がふと浮かんだ疑問を口にすると、遼二は分かりやすく目を逸らしてぎこちなく笑った。   「さ、さぁ? 何のことかさっぱり?」 「おいとぼけんな。どっからどこまで聞いてたんだよ?」 「あっちょっ苦し、絞まっとる絞まっとる」 「場合によっちゃあ極刑もやむなしだぞ、おい」 「横暴がすぎる! いや、ほら、あれじゃ。一回起きて、後は一睡もできず……」 「そうかそうか。今すぐ忘れろ。そんで二度と思い出すな。あいつオカズにシコったりしたら」 「そげんことせんわ! オレは女の子しか好きにならん! 男は守備範囲外じゃ!」 「うるせェ! 男でもあいつは可愛いだろうが!」 「知らんわ! 確かに歩サンは良いお人じゃけど」 「イイ人ってどーいう意味だよ? あいつを邪な目で見たら許さねぇからな?」 「そげん目で見ん言うとろうが! オレは女の子一筋じゃけぇ! マシュマロおっぱいがいっちゃん好きなんじゃっ!」    遼二の男らしく潔い宣言が、朝の住宅街に木霊した。井戸端会議中の主婦や、犬の散歩をする爺さんや、散歩をされている犬にまで、冷ややかな視線を浴びせられる。俺は遼二を引っ掴み、脱兎の勢いで逃げた。  息もつかず一足飛びに走り抜け、駅に着いた頃には二人とも息を切らし、ゼエゼエと肩を弾ませていた。   「おめェのせいで、不審者扱いだぞ」 「先に言うてきたんはオマエの方じゃろ。オカズだの、シコるだの……」 「まぁ、おめェの女好きはよく知ってっから、本気で心配なわけじゃねぇんだけどよ」 「ほれ見い。往来であげん宣言してもうたオレの方が、ダメージでかいわ」 「だな。同情するわ」 「もっと本気で慰めんかい」    電車を一本見送って、ホームのベンチで一休みすることにした。   「しっかし、まさかオマエが男にいくとは思わんやった。昔はおっぱい好きじゃったろうが」 「別に嫌いになったわけじゃねぇよ。今も普通に好き」 「浮気?」 「ちげーわ。フツーに興味あるし、機会がありゃ触ってみたいとも思うけど、あいつの方がいいんだよ。そんだけ」 「惚気か?」 「正直言うと、男とか女とか考えたことなかったわ。ガキの頃にあいつに惚れて、そんで俺の恋愛遍歴はおしまいよ」 「惚気やん」    ホームに列車が入ってくる。遼二は荷物を持ち、ベンチから腰を上げた。   「行くのか」 「おう。達者でな」 「お前こそ」 「オレは、オマエが元気そうで安心した」 「んだよそれ。俺はいつも元気だろ」 「そうじゃな」    ラッシュアワーを過ぎた乗客も疎らな車内に、遼二は大荷物と共に乗り込んだ。   「ほんじゃな。歩サンと仲良うやりや」    別れの言葉を合図に扉が閉まった。俺は手を高く掲げて、大きく左右に振った。列車がホームを出てビルの谷間に消えていくまで、ずっと手を振っていた。      駅から帰ると、歩がいた。   「あれ、仕事は?」 「休みだ。言っておいただろ」 「そーだっけ? ごめんごめん」    洗濯物を干しながら、歩は小さく溜め息を吐いた。   「やだ、怒ってる?」 「なんで怒るんだよ。あいつ、今頃どうしてるかと思って」 「まだ電車だろ」 「そういうことじゃねぇんだがな」 「寂しい?」 「別に」    風は冷たいが、窓辺は日が当たって暖かい。俺は歩を抱きしめた。無防備な背中を包み込み、腰に手を回して抱き寄せる。   「邪魔すんな」    呆れたように言いながらも、歩は俺の手を振り解かない。洗濯物の皺を伸ばしながら、物干し竿に掛けていく。  俺は、歩の項にキスをした。歩はくすぐったそうに笑った。それから、歩の頬に自分の頬を重ね、優しく頬擦りをした。マシュマロみたいにふわふわで、すべすべで、仄かに色付いていた。  最後に、瞼にそっと唇を落とした。眼球がない分、左の瞼は少し落ち窪んでいた。俺がこいつに負わせた傷だ。生涯消えることはない。  俺は、歩の瞳が二つ揃っていた頃のことを思った。くりくりとしたつぶらな瞳が、真っ直ぐに俺を見つめていた。次に、歩の瞳が両方とも閉ざされる時のことを思った。歩の世界から光が失われ、肌は瑞々しさを失い、黒々とした頭髪が色素を失う日のことを思った。   「なぁ」 「何だよ。あんまりじゃれつくな」 「好きだよ」 「……っ」 「あ、俺のパンツ……」    まるで瞬間湯沸かし器のように、歩は耳まで真っ赤になった。歩の手を離れた洗濯物は、ギリギリで手摺りに落ちて引っ掛かった。   「何を言い出すんだ、いきなり」 「今の歩に会えるのは今だけだから、今のうちにちゃんと言っとこうと思って」 「意味の分からねぇことを言うな」 「どんなお前も大好きだし、どんな姿も目に焼き付けておきたいってこと」 「……」 「照れてる? かーわいい」 「だまれ」    抱きしめたまま、歩の顎に手を添えて振り向かせ、唇を寄せたら拒まれた。   「なんでだよ」 「外から見える」 「誰も見てねぇって」 「それに洗濯物もまだ」 「俺が後でやっとくから」    俺はぴしゃりと窓を閉め、鍵を掛けた。カーテンも閉めてしまえば、室内は薄ぼんやりと暗くなる。まさにお誂え向きというやつだ。一度上げた布団を下ろして敷き直す。  結局、昼過ぎまで盛り上がってしまった。窓枠の手摺りに辛うじて引っ掛かっていた俺のトランクスは、風に吹かれて地面に落ちていた。歩にはこっぴどく叱られるし、泥まみれの下着は風呂場で揉み洗いをする羽目になった。

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