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第五章 風邪引きとバレンタインデー①

 二月のイベントといえば、もちろんバレンタインデーだ。少し前から歩がせっせと材料を買い込んでいたのを知っている俺は、浮足立って帰路を急いだ。  アパートの駐車場にバイクを停めて、違和感に気付いた。二階の右から二番目の部屋が俺達の愛の巣だ。普通、歩が先に帰って部屋を暖めておいてくれ、夕食を作って待っていてくれるはずなのに、部屋の電気が消えていた。  悪い予感が胸を過る。俺は一足飛びに階段を駆け上がり、蹴破る勢いで玄関のドアを開けた。   「歩!」    部屋の中は真っ暗だった。手探りで電気をつける。ぱっと明るくなった部屋の隅に布団が敷かれ、誰かが眠っていた。   「歩?」    急いで布団を捲る。歩が手足を丸めて眠っていた。  俺は一気に脱力し、その場にへたり込んだ。  何もなくてよかった。もう二度と、こいつを奪われたくない。痛い思いも苦しい思いも、後悔も、諦めも、二度とごめんだ。   「ん……准……?」 「悪い。起こしたな」 「……いや……」    歩はのそりと首をもたげ、窓の外を見た。外はもちろん真っ暗である。   「……体温計」 「えっ?」 「体温計、取ってくれ」 「んな気の利いたモン、うちにはねぇよ」 「さっき買ってきた。机の上」    テーブルの上に転がっていた体温計を渡すと、歩はそれを腋の下に挟んだ。   「風邪?」 「……早退して、ずっと寝てたんだ。まさかこんな時間になってるとは思わなかったが」 「薬は?」 「買ってきて飲んだ。が、効いてる感じはしねぇな」    ピピピ、と電子音が鳴る。38度8分。久々にこんな数字を見た。   「……大丈夫なの?」 「そう見えるか?」    歩は再び布団に潜った。頭まで毛布をすっぽり被ってしまう。   「悪いが、今日は外で飯食ってこい」 「お前は?」 「おれのことはいい」 「病人こそ、栄養のあるモン食わなきゃだろ。何か買ってくるからさ。何がいいよ」 「……おかゆ」 「あとは?」 「冷たくて、つるつるしたもの」 「プリンとかゼリーでいいか? アイスは?」 「……冷たすぎるから……」 「分かった。あとはなんか、適当にフルーツでも買ってくらぁ」 「ん……悪いな」    布団の隙間から目だけを覗かせて、歩は言った。高熱のせいか、弱気になっているらしい。瞳が微かに潤んでいる。   「すぐ戻るから。待ってろ」 「……ゆっくりでいい」 「じゃあ、なるべく早く戻るよ」    俺は再びバイクを走らせ、コンビニで買い出しをした。急いで家に帰ると、歩は再びうとうとし始めていた。   「……早かったな」 「お前一人残しておけねぇよ」 「飯は?」 「今あっためるから」 「じゃなくて、お前の飯だ。食ってこなかったのか?」 「俺の分も買ってきたぜ。ほら、冷凍の鍋焼きうどんだって。あとおでんも何個か」 「……」 「あっ、もしかしてお前もうどんがよかったとか?」 「……いや。おかゆ、あっためてくれ」 「おう」    台所に立つのは久しぶりだ。思えば、家事はほとんど歩に任せっきりだった。炊事も掃除も洗濯も、ほとんど毎日歩にしてもらっている。俺がすることと言えば、皿洗いと風呂掃除とゴミ出しと、時々商店街へ買い出しに行くことくらいだ。  生活費は俺の方が少し多く出している。とはいえ、歩だって外で働いているのに、歩にばかり負担を掛けるのは平等ではない気がする。俺が働かせすぎたせいで、歩が体調を崩したのだったらどうしよう。   「どうした? 腹下したような面して」    熱々の玉子粥にスプーンを浸して歩は言った。   「それとも、うどんを焦がしたか」 「どっちでもねぇよ。お前も食う? おでん。何がいい」 「……だいこん」 「そっち載せちゃっていい?」 「……ああ」    口数少なく食事を終えた。薬を飲み、歩は早々に布団へ潜る。   「お前、今日はホテルにでも泊まれ」 「えっ、なんで?」 「布団一枚しかねぇし、どこで寝るんだよ。伝染るだろ」 「別に、いつも通り寝ればいいじゃねぇか」 「バカ。二人してダウンしたら、それこそ終わりだ」 「大丈夫だって。俺、小学校出てから風邪とは無縁の人生だから」 「……おれだって、こんなのは小学生以来だ」    歩は、毛布に包まり背を向ける。   「……本当に、平気だから……」    本当は心細いくせに、今にも泣き出しそうな声で虚勢を張る。   「……あんまり、優しくしないでくれ」 「バカだな。大切だから、優しくしたいんだろ。こんな時くらい、大人しく世話になっとけよ」 「……でも……お前の手を煩わせるのは……」 「ちょっとちょっとォ、俺の愛を見くびってもらっちゃあ困るなァ? これくらい何でもねぇよ。迷惑のうちにも入らねぇから。だから大人しく看病されとけ」 「……悪いな」 「気にすんなって」 「……ありがとう」 「元気になったら、いっぱい付き合ってもらうからな」 「……ばか」    そんなわけで、いつも通り一緒の布団で眠ることにしたのだが。  俺はいつの間にか炬燵で寝落ちしていた。歩の魘される声で目が覚めた。真夜中を過ぎ、未明に差し掛かる頃である。   「ぅ……うう……」    最初、家電が唸っているのかと思った。安く買った中古品を使い続けているので、たまに変な音を出すことがある。しかし、よく聞けば違った。歩が、額に汗を滲ませて、呻き声を漏らしていた。   「……歩?」 「ぅ……ああ……」    喉を押さえ、胸を掻き毟って苦しんでいた。地に墜ちた鳥が折れた翼で羽ばたこうと藻掻いているような、そんな惨めさがあった。   「おい、歩」 「ご……なさ……ごめ、なさ……」    夢の中で、誰かに謝っている。しきりに許しを請うている。   「歩!」    俺は思わず大きい声を出していた。歩の隻眼がはっと見開かれ、ぼんやりと霞んだ瞳に俺を映した。   「ぁ……准……?」 「大丈夫か? すげぇ汗……」 「准、じゅん……捨てないでくれ……」    歩はまだ悪夢の中にいるらしい。赤ん坊が母親にむしゃぶりつくように、俺の胸に縋り付いた。途切れ途切れに、掠れた声で訴える。   「すてないで……いい子にするから……」 「んなことしねぇよ。俺はずっとここにいるから」 「ごめん、なさ……ごめんなさい……」 「大丈夫だから。歩」 「ゆるして……おとうさん……」 「……っ」    悪夢の正体は、あの父親だったのか。俺は、歩を強く抱きしめた。夢は所詮夢に過ぎない。過去の幻影が、いつまでも歩を縛り付けていいはずがない。さっさとあの世へ消え去ってくれ。   「大丈夫。俺はずっとここにいる。お前を見捨ててどこかへ行ったりしないから」    そう言い聞かせ、儚げに震える歩の背中を撫でて、文字通り一晩中そばについていた。  歩を苦しめているものは何なのだろう。父親の仕打ちか、いなくなった母親か、最愛の姉の死だろうか。それとも、歩自身の罪の意識が、過去の幻影を見せるのだろうか。  俺は、俺自身の母親について、自分でも異常だと思うほどに執着していない。たった一人の、血の繋がった家族だったのに、思い出らしい思い出もない。思い出がないのではなく、ただ思い出せないだけなのかもしれない。  母親に縊り殺されかけたあの夜、俺は一度死んだのだろう。愛していたはずの母親に殺されかけて、髪が真っ白になるほどショックを受けたはずなのに、愛していたはずの母親のことを、今はもう懐かしいとさえ思わないのだ。  それに比べて、歩は余程まともだ。愛したものが多かった分、失ったものも大きくて、取り戻すことはもちろん、捨て去ることさえできないのだろう。罪の意識は肥大化し、今なお歩を苦しめている。  俺にできることなんて、あるのだろうか。    *   「……めずらしく早起きだな」    翌朝。薬が効いたのか、歩の体調は順調に快復へと向かっていた。   「おはよ。具合どうよ。飯食えそう?」 「昨日よりだいぶいい。……飯?」    歩は怪訝な顔でフライパンを指差した。   「おかゆだけってのもアレかと思って、作ってみた。俺も食うし」 「……えらい香ばしいな」    ベーコンエッグを作りたかったのだが、火加減を誤って盛大に焦がした。目玉焼きなんて楽勝だと思ったのに、白身が黒焦げになっても黄身が生のままなのは、一体どういう理屈だろうか。歩が作ると、白身はぷるぷるで、黄身は半熟とろとろで、最高に旨いのに。   「……悪い。こんな消し炭食えねぇよな。卵とベーコン、無駄にしちまった。漬物でも切るか」 「何言ってんだ。食わせろよ」 「えらい香ばしいよ?」 「調味料ぶっかけりゃ何とかなんだろ」 「言い方ぁ」    それでも、歩が食べたいと言ってくれたから、俺はいそいそと皿に盛り付けた。ミニトマトを彩りに添えて、完成である。普段歩が作ってくれるものとは比較にならないほどお粗末だが。   「にがっ」    一口齧って、歩は言葉通り苦い顔で笑った。   「無理して食うなよ」 「ソースとマヨネーズぶっかけりゃイケるか?」    焦げた目玉焼きがお好み焼きのような見た目になった。ソースとマヨネーズの味しかしなくなったが、食えなくもなかった。   「やっぱ、慣れないことはするもんじゃねぇな」 「……おれは嬉しいけど」 「マジ?」 「毎回こんな出来じゃ困るけどな」 「じゃあ、今度作り方教えろよ」 「しょうがねぇやつだな」    歩は照れたように笑った。昨晩の病的な顔色はすっかり消え失せ、頬は健康的に色付いていた。   「しかし、何だって急に料理なんかする気になったんだ」 「いや、まぁ……いつもお前にやってもらってばっかだし」 「気にするな。おれがしたくてしてることだ」 「でもさ、負担は平等な方がいいだろ。これからは俺も飯作るようにするから」 「別に負担だとは思ってねぇがな。てめェ、おれの飯にゃもう飽きたのか」 「んなわけねぇだろ! 毎日旨い飯が食えて幸せだよ、俺ァ」 「だろうな。そうじゃなきゃ困る。まずは胃袋を掴めって、よく言うだろ」 「まぁ、胃袋より先に心を掴まれてんだけどな。なんつって」 「……」    歩はじろりと俺を見て、くすっと笑った。つられて俺も笑う。今朝はお互いに素直すぎて、何だかちょっとくすぐったい。   「そういや、仕事は」 「休んだよ。長谷川さんに代わってもらった」 「そうか……」 「あっ、また申し訳ないとか思ってない? 全然んなことないからね? むしろもっとわがまま言ってほしいっていうか?」 「……いや。優しい恋人を持って幸せだと思っただけだ」 「っ、おま……お前なぁ……!」 「おれは幸せ者だ。なぁ、准?」 「っ……!」    こいつは所謂ツンデレ的な気質なので、これは渾身のデレなのだろう。俺はもう堪らない気持ちになり、歩を思い切り抱きしめた。俺に押し倒されながらも、歩はどこか余裕のある眼差しで俺を見上げた。   「えっと……いいの?」 「まさか。優しい恋人様は、病人に無体を強いたりしねぇよな?」 「いや、でも……結構元気そうだし?」 「無理してまた熱が上がったらどうすんだ。しばらくは安静にしてねぇといけねぇな?」 「……ハイ……」 「でも、お前に抱きしめられるのは嫌いじゃねぇ」    口では拒むようなことを言いながら、歩は俺を突き飛ばしたりはせず、逆に俺の首筋に手を回して抱きついてくる。   「しばらくこうしてろ」 「マジすか」 「おれが飽きるまでな」 「……チューは?」 「バカ。風邪が伝染るだろうが」 「じゃあおっぱい触るのは」 「ダメに決まってんだろ。寒い」 「じゃ、じゃあ、見るだけ」 「ダメ。ただぎゅっとされたいんだ」 「っ……」    歩がこんなに素直に甘えるなんて滅多にないことだ。まだ熱があるらしい。俺も大概チョロいので、何でも言うことを聞いてあげたくなってしまう。  結局、歩が飽きるまでただ静かに抱き合っていた。俺はもちろん約束を死守し、キスさえも我慢した。全く、生殺しもいいところである。

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