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第八章 君のいる八月⑩

 一泊二日の旅行を終え、いまやすっかり元の日常に戻っている。まるで長い夢でも見ていたような心地だが、旅の思い出は確かにここにある。   「おい、そろそろ出かけるぞ」 「おーう」 「何やってんだ」    海の結晶、ビーチグラス。海で拾ったそれを、歩は瓶に保管して飾っている。時々取り出しては日に透かして見ているので、俺も真似をしてみた。   「別に。綺麗だと思ってよ」    深海の碧、浅瀬の翠、波の白銀、朝焼けの海の黄金色。一口にビーチグラスといっても、色も形も様々だ。目元に翳せば、色の付いた影が落ちる。手の中で振れば、擦れてキラキラ音がした。   「よくこんなに集めたよな」 「ああ。なんか夢中になっちまって」    たくさん集めた貝殻も、別の瓶に保管してある。瓶底に砂を敷き詰めて、色とりどりの貝殻を並べると、そこはまるで海そのものだ。ついでに、といっては何だが、俺が祭りのくじ引きで当てたおもちゃの指輪も、なぜか一緒に飾られている。   「俺、これ好き。白くて艶々してるやつ」 「ああ。綺麗だよな」 「あとはー、桜貝かな、やっぱ」 「……」 「なんか言えよ」 「どうせくだらねぇことしか言わねぇだろ」 「くだらないことってぇ? たとえばぁ?」 「そういうのがくだらねぇんだ。ほら、これ持て。もう行くぞ」    歩に渡された手提げ袋はずしっと重い。中身は、宿で買った土産の地酒だ。    *   「いや~、なんか悪いねぇ。こんな立派なお土産、ホントにもらっちゃっていいのぉ? オレ何にもしてないのに。いや~、ありがたいありがたい」    今晩は、先日の旅行の際に休みを代わってくれた長谷川さんへの感謝の会だ。普段は絶対に利用しない高価格帯の居酒屋を探し、予約も取っておくという徹底ぶり。全て歩の手筈通りだ。このおっさんにそこまで義理立てする必要はないのに、真面目な歩らしい。   「それにしても驚いたよ。まさか、准ちゃんのコレが、こんな美人さんだったなんて」    コレ、と長谷川さんは小指を立てる。今時そんな古いジェスチャーの通じる相手がどれだけいるというのだろう。これだからおっさんは。   「美人だなんて、そんなこと」    歩も歩で、よそ行き用に猫を被っていやがる。もちろん、初対面の相手だし、長谷川さんもこう見えてだいぶ年上なので、歩が畏まるのも分からないではないのだが、俺としては、何とも言えずむず痒い気持ちになってくる。   「歩くんは、准ちゃんと幼馴染なんだよね」 「ちょっ、いきなり名前呼び!? 距離縮めんの早すぎない!?」 「あ、そう? ごめんね、馴れ馴れしかったかな」 「おれは好きに呼んでもらって構いませんよ」 「ホント? じゃあお言葉に甘えて」 「准との関係は、幼馴染というよりは腐れ縁的な感じで」 「えっ、お前そんな風に思ってたの」 「実際そうだろ。幼馴染ってのは、もっと小さい頃から高校上がるくらいまでは一緒にいるモンじゃねぇのか」 「二人は違うんだ?」 「そうですね。中学でおれが転校して、それっきり」 「でも、巡り巡って今は一緒にいるわけでしょ? いいなぁ、そういうの。運命的だよね。憧れちゃうなぁ」 「アンタ、いつまでもそういう夢見る乙女みたいなこと言ってっからダメなんじゃねぇの?」 「やだなぁ、准ちゃん。こんなおじさんでも、一応結婚したことあるんだからね? その点、君らからすれば大先輩よ?」 「一年で嫁さんに愛想尽かされた話だろ? もう何回も聞いたって」 「いいじゃない。何回でも聞いてよ」    当たり障りのない挨拶から始まり、話題はだんだんとディープな方向へと進んでいく。歩が気前よくどんどん飲ませるので、長谷川さんも興が乗ってしまったようで、どうでもいい話をべらべら喋った。   「……ところで、准ちゃん。歩くんって……」    歩が席を立ったのを見計らい、長谷川さんは内緒話をするように声を潜めた。幸い、完全個室の席のため、周りの雑音に邪魔されることなく、秘密が漏れることもない。  突然何の話をされるのかと、俺は少し身構えた。歩の目のことだろうか。「本当に堅気の人?」なんて、さすがにそこまで突っ込んだ話はしてこないか。あるいは、「男に惚れるなんて正気?」とか、そっち方面の話だろうか。これに関しては、多少の疑念を抱かれても仕方がないと、俺も腹を括っている。  しかし、そんな俺の懸念は全て取り越し苦労に終わる。この長谷川という男は、俺の予想を遥かに上回るお気楽星人なのだった。   「夜はどんな感じなの?」 「ぶッ――」    まさかの下ネタ発言に、俺は口に含んでいた酒を噴き出した。長谷川さんは呆れ顔でおしぼりを渡してくれるが、そもそもの原因を作ったのはアンタだろうが!と張り倒したい。   「なっ、なに、なんすかいきなり」 「いやほら、男同士だし、どうしてるのかなぁって、やっぱり気になるじゃない? 前に准ちゃんから聞いた話だと、歩くんがその……女役? みたいな感じだったけど、あの子が大人しく抱かれてくれるのかなぁって」    女役、のところでわざわざ声のトーンを落とすのに腹が立つ。妙なところで気を遣うなら、生々しい話は最初から避けてもらえると助かるのだが。   「あ、もしかして見栄張ってた? 准ちゃんが抱かれる側だったり……?」 「それは断じて違うんで! 勘違いしないでくれます!?」 「なーんだ、違うの? お尻弄られるの、結構いいよ? 准ちゃんも試してみなよ」 「いや……てかアンタ、ソッチの趣味もあったの? 俺ァてっきり……」 「ああ、違うよ? お店でね、そういうオプションを付けられるとこがあるんだよ。ホント、意外なくらい気持ちいいんだから」 「んなことしてっから、奥さんに逃げられるんじゃ……」 「誤解だって! 風俗通いは離婚してからだし! けどまぁ、今まで眼中になかったけど、男の子もアリかもね。歩くん、男だけど本当綺麗だもん。色っぽいっていうかさ。あんな子ならオレも――」 「ちょっ、あいつをそういう目で見んのやめてくれる!? マジで洒落になんねぇから!」 「ごめんごめん、冗談よ。にしても准ちゃん、ホント恵まれてるっていうか、同じ男として羨ましいよ。あんな美人を毎晩抱けるなんてさ。実際どんな感じなの?」 「だからそーいう生々しい話は……!」 「いいじゃない。本人の前じゃできないでしょ、さすがに」 「俺も一応本人なんだけど……?」    歩が戻ってくるまで、秘密の猥談は続いた。そして、歩と入れ替わるように、今度は長谷川さんが席を立った。   「ずいぶん盛り上がってたみたいじゃねぇか」 「まぁ、そこそこな」 「ふん……」 「なに、気になる?」 「別に」    グラスに口をつける歩の横顔を、俺は横目で盗み見た。惚れ惚れするほど美しい。美人だ綺麗だ色っぽいだと長谷川さんも散々言っていたし、俺の贔屓目ではなく、歩は美しい男なのだろう。その完璧に美しい男が今、酒に酔って隙だらけになっている。   「なぁ」 「あ?」 「気ィ付けろよ」 「何がだ」 「長谷川さん。あのおっさん、悪い人じゃねぇんだが、シモの方は結構だらしねぇからよ」 「だからっておれを口説きはしねぇだろ」 「分かんねぇだろ。大体お前、そんな顔して」    テーブルの下で、俺は歩の太腿に手を這わせた。布越しに体温が伝わってくる。   「どーする? 急にこんなことされたら」 「んなモン、触られる前にぶん殴ってらぁ」    歩は俺の胸倉を掴んで引き寄せた。アルコールを孕んだ吐息を肌に感じる。   「相手がてめェじゃなかったらな」 「……やっぱお前、すぐ手ェ出るな。直した方がいいぜ」 「そこが好きなんだろ?」 「……そうかも」    酔いが回って火照った頬。赤く潤んだ瞳。ふっくらとした魅惑の唇。この状況、もしかして、誘われてる? いや、でも、こんな場所ではさすがにまずい。けど、目が釘付けになって離れない。理性に阻まれつつも誘惑に抗えず、俺も唇を寄せてしまう。   「たっだいまぁ! いや~、ここのトイレ、すっごい綺麗だね! お花なんか飾ってあってさぁ! 癒されちゃった」    スパンッ、と軽快に障子が開き、長谷川さんが戻ってきた。俺は弾かれたように座り直して姿勢を正し、歩もぱっと俺の胸元から手を離して、飲みかけのグラスを勢いよく呷った。   「おっ、歩くん、いい飲みっぷりだねぇ。おじさんも追加で頼んじゃおっかな~」    お気楽星人こと長谷川さんは、酔っ払っているせいもあるのか、俺と歩の間に流れる妙な空気にはまるで気付かず、ご機嫌で追加の注文をした。  長谷川さんの目を盗み、俺はまたもやテーブルの下で、歩の太腿に手を這わせた。軽く揉むようにして、指を食い込ませる。歩は、酒を飲みながら無言でこちらを睨み、俺の手の甲をぎゅっと抓った。  俺が堪らず手を離すと、歩が勝ち誇ったような顔をするので、今度はもっと際どい場所へと手を滑らせると、歩はさらにきつく、皮膚を引っ剥がす勢いで俺の手を抓った。   「ッ!? おい……!」    俺が手を離しても、歩は尚もきつく俺の手を抓り立てる。それでいて、まるで何事もなかったかのような澄まし顔で、淡々とグラスを傾ける。テーブルの陰で必死の攻防が繰り広げられる中、長谷川さんは呑気に酒を呷り、俺につまみを勧めてくる。  宴もたけなわ。そろそろお開きだろうか。歩と長谷川さんを二人きりにしたくなくて限界ギリギリまで我慢していた俺だが、とうとう尿意を無視できなくなり、「すぐ戻るから!」とよく分からない念押しをして、席を立った。  薄暗い上に入り組んだ店内で道に迷い、ズボンのチャックを下ろすのにも若干手間取って、思いのほか時間がかかってしまった。  歩と長谷川さんが二人でどんな会話をしているのか、全く想像が付かない。共通の話題が俺しかないので、消去法的にそのことについて話しているのだろうが、まさか、愚痴でも言われているのではあるまいな。  いくら無神経な長谷川さんといえど、「夜の具合はどうなの?」なんてセクハラド直球の最低な質問はしないだろうけれど、もしもそうだとして、「決まり切ったセックスしかしねぇ」とか「短小で早漏でいいとこなし」とか「いまだに童貞みたいにがっついてくる」とか、恥ずかしい暴露をされていたらどうしよう。  いや、歩がそんな風にプライベートをべらべら喋る無神経野郎だとは思っていないが、如何せん酒が入っているので、うっかり口が滑るなんてことも無きにしも非ずというか、長谷川さんの大らかさに気が緩むかもしれないというか、何というか……  詮無いことを悶々と考えながら、俺は個室へと続く障子の前で、息を潜めて耳をそばだてた。   「――准ちゃんったら、ホント毎日楽しそうで」    思った通り、俺の話題だ。幸い、愚痴ではなさそうである。   「去年の夏くらいからだよね? 傍から見てて恥ずかしくなるくらい、分かりやすく生き生きしちゃってさ」 「あいつ、結構顔に出るとこあるから」 「そうそう。ああ見えて素直だよね。でも、今みたいによく笑うようになったの、歩くんと暮らし始めてからだよ。昔はさぁ、まぁ明るい子ではあったんだけど、なんかこう、ふとした瞬間に寂しそうな顔することがあって。理由は聞けなかったし、聞いてもはぐらかされたと思うけどね。そういうとこだけ器用だからさ」 「……おれは、昔のことは……」 「ああ、そうだよね。ごめんね。でも、准ちゃんを変えたのは間違いなく君なんだよね。僕には無理だったし、他の誰にもできないことだよ。これはすごいことだよ」 「そんなに大したことは……。おれの方こそ、あいつにもらってばっかりで」 「うんうん、それが夫婦長続きの秘訣よ。持ちつ持たれつが一番だもの。だから、えーと、つまりね? 何が言いたいかっていうと、これからも准ちゃんをよろしくってこと。ていうか、それくらいしか言うことないよ」 「……」    長谷川さん、お気楽脳天気男なんて言って悪かった。俺のことをそんなに見ていてくれたなんて、知らなかった。   「あと、ついでに女の子紹介してくれない?」 「いや結局そうなるのかよ!!」    障子をぶち割るほどの勢いで、俺は個室内に乱入した。歩と長谷川さんは、和気藹々とした雰囲気で酒を楽しんでいる。気が立っているのは俺だけらしい。   「あら、准ちゃんおかえり」 「あら、じゃねぇんだよ! 何が女の子紹介してくれだ! アンタ結局それ狙いか?」 「だって、歩くんが学童クラブで働いてるって言うから、ちょうどいい女の子いないかと思って」 「年上好きの若い子だろ? んな都合のいい存在いねぇから! ひとの恋人捕まえて不健全な出会い求めるのやめてもらっていいっすか!?」 「年上好きかは知らねぇが、婚活中のお姉さんならいるぞ」 「歩も本気にしなくていいから!」 「お、いいじゃない。どんな子?」 「アンタもその気になるな! やめろやめろ」 「てめェ、おっさんがいつまでも独り身じゃ憐れだろうが」 「そうだよ准ちゃん。オレはいつだって真剣なんだから」 「ウソだろ俺がおかしいの……?」    そんなこんなで終始グダグダになりながらも、会は無事にお開きとなった。会計は俺と歩の二人で支払う予定だったが、長谷川さんが「ご祝儀だと思って受け取ってよ」と珍しく頑ななので、お言葉に甘えて奢ってもらってしまった。  夜はこれからが本番だ。ネオン溢れる夜の街は、賑やかに活気付いている。長谷川さんと別れた後、俺と歩は酔い冷ましに夜の街をそぞろ歩いた。  ビルの間を吹き抜ける風が気持ちいい。火照った肌を冷ましていく。ビカビカ光るネオンの明かりも、飲み屋の客引きや呼び込みも、全てが猥雑でありながら、不思議な調和が取れている。この喧騒が心地いい。  隣を歩く歩の頬を、爽やかな夜風が撫でていく。頬が赤らんで見えるのは、ネオンに照らされているからだろうか。   「なぁ」 「ん?」 「手、繋いでいい?」 「……」    何も言わず、歩は俺の手を握った。少し汗ばんでいて、しっとりと吸い付いた。手と手を繋いで、腕を絡めて、夜の街を寄り添って歩いた。  この無秩序な雑踏の中にあって、一目でそれと分かるほど、歩の姿は一際目を引く。凛とした佇まい、品のある横顔、艶やかな黒髪。どれだけ人波に揉まれていようと、俺は一目で歩を見つけられる。その自信がある。   「どうする? この後」 「どうもこうも、帰るんじゃねぇのか」 「でも、ほら、まだ時間あるし。ちょっと飲み直してもいいかなって」    ただ、真っ直ぐ帰るのが惜しかった。夜の街も似合う歩の姿を、もう少しだけ堪能したかった。   「じゃなければ、あそことか」    路地裏に妖しい看板が光っていた。   「休憩三千五百円からだって。どうよ?」    歩は一瞬足を止めたが、路地の向こうには目もくれず、繋いだ手を引っ張った。   「やっぱあんな安宿イヤだよな。悪りィ悪りィ」 「……嫌ってわけじゃねぇが……」    歩は、甘えるように俺にぴたりとくっついて、上目遣いにこちらを見つめた。   「せっかくなら、家でしたい」 「っ……」 「帰ろうぜ」 「……おう……!」    その一言で、俺は俄然やる気になった。歩を横抱きに抱き上げて、一っ飛びに夜空を翔けたい気分だった。   「そう焦るなよ。時間はたっぷりあるんだろ」 「そうだけど、お前、あんだけ焚き付けといて」 「いいじゃねぇか。夜の散歩ってのも、たまには乙なモンだろ」    歩の隻眼が妖しく細められる。瞳の奥に宿る灯りは、いつだって、俺のことだけを照らしてくれる。   「……帰ったら、覚悟しとけよ」 「いいぜ。せいぜい期待に応えられるようにがんばるんだな」 「おま、マジで泣いても知らねぇからな!?」 「はは、おっかねぇ」    逸る気持ちを抑え、家路につく。二人の家まで、もうすぐだ。

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