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第八章 君のいる八月⑨

 夜中。はっと目を覚ました。外はまだ真っ暗だ。歩の姿が見当たらない。  寝る前にはしっかり抱きしめていたはずなのに、いつの間にか俺の腕の中から消えていた。布団が空だ。歩のいた場所を探ると、まだ温かかった。   「……歩」    俺は虚空に呼びかけた。行灯の明かりに支配された室内は、頼りないほど薄暗い。居ても立っても居られずに飛び起きると、音もなく襖が開いた。   「歩……」 「あ? んなとこでなに突っ立ってんだ」 「……」 「起こしちまったか? 悪かっ――」    俺は歩の腕を掴み、布団へ強引に引っ張り込んだ。歩は不満げに鼻を鳴らす。   「おい、急に何すんだ。痛てェだろ」 「お前が悪い」 「あぁ?」 「俺が寝てる間にいなくなるお前が悪い」 「……」    我ながら女々しいことを言っている。自覚はある。だが、こういった衝動を抑えるのは簡単ではない。   「……ったく、てめェは……」    歩の手が伸びてきて、俺の髪をぐしゃりと掴んだ。ただでさえ癖毛で大変だというのに、ぐしゃぐしゃと掻き毟るように撫で回した。   「ちょっ、なに!? もっと優しく! 千切れちゃうから!」 「してんだろ。ったく、てめェもとことん大馬鹿野郎だ」 「なんで急に罵倒されてんの?!」 「おれのことをとやかく言えねぇくらいには、てめェも随分とくだらねぇことを考えてやがると思っただけだ」 「……」    俺の頭を撫でる歩の手は、乱暴でありながらどこか優しい。それだけで、胸を覆う霧が晴れていく。   「……分かってんだぜ、ホントは」 「ああ」 「分かってんだ。頭ではよーく分かってる。けど、さ……なんか、やっぱり……」    布団の中で、俺は歩を強く抱きしめた。   「バカ、痛てェよ」 「悪りぃ」 「……別にいい。これで安心するってんなら」 「……キスしてくれたら、もっといいかも」 「はぁ? ったく、調子乗りやがって」    口の端に甘いものが触れた。そっと触って、恥ずかしそうに離れていく。   「ほらよ。もう寝ろ」 「できれば舌も入れてくんない?」 「バカ言うな。キスだけで終わらねぇだろ」 「じゃあ、このまま寝ていい?」 「……好きにしろ」    暑苦しいだの何だのと一通り文句を言ってはいたが、歩は大人しく俺の腕の中に納まってくれた。一番大切な温もりを抱いて、俺は目を瞑る。朝までぐっすり眠れそうだ。    *   「おい、起きろ」    ばこん、と頭を叩かれ目が覚めた。窓の向こうはまだ暗い。   「なに……? つか今何時……」 「起きろ。出かけるぞ」    夜明け前の静けさに、波の音が沁み入る。空の色は、夜と朝の中間だ。真夜中の紺青色、真昼の青藍色。そのどちらでもない。どこまでも青く澄んでいる。深く鮮やかな、明るい青だ。夜明け前の空がこんな色をしていたなんて、俺は知ろうともしなかった。  やがて、東の空が真っ赤に燃える。紫の雲がたなびいている。水平線が黄金に輝いて、眩い朝日が顔を出した。  生まれたての清浄な光が、世界の輪郭を明るく照らす。新しい朝の日差しは柔らかく、その温もりを肌で感じる。空気は凛と澄んでいて、まだ夜の匂いを纏っている。  海が赤々と燃えている。朝日を浴びて、波が金色に照り映える。空は鮮やかなグラデーションを描き、淡い薔薇色に染まっていく。  砂浜に打ち上げられた流木に腰掛けて、歩は俺の手をそっと握った。バカみたいに早起きしたのは、この朝焼けを見るためだったのだ。   「なぁ、歩?」 「……何だよ」 「好きだよ」    穏やかな波の音に心が洗われる。海鳥が飛び立ち、蝉が鳴き始める。けれど、人影は俺達の他にない。この朝の美しさを、俺達は二人きりで独占している。  まるで芸術作品でも前にしたみたいに海を眺める歩の視界を遮って、俺は歩にキスをした。軽く触れるだけの、ささやかなキスだ。歩の頬も薔薇色に染まる。   「っ……何すんだ」 「あれ、違った?」 「……っ」    俺がとぼけると、歩はますます頬を紅潮させる。歩の顔が赤いのか、単純に朝日に照らされたせいなのか。歩はぷいとそっぽを向いた。   「ちが……くねぇ……」 「……もっかいしていい?」 「あ? おい――」    思いがけない素直な反応に、ロマンチックな気分が盛り上がってしまった。俺は歩の肩を抱き、今度は大人のキスをした。

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