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第1話

 学校の最寄駅から三つ、沿線を変えてさらに五つ。  その駅に降り立つと夜まで明かりが灯るオフィスビルと飲食店激戦区が広がっている。行き交う人々は高確率でスーツやオフィスカジュアル姿で、学生服は場違いのように浮き上がっていた。  桜井唯月はブレザーを脱ぎながら歩き、三つ目の角を曲がる。舗装されていない道を進むとローファーの踵が擦れた。  排気ダクトから流れ込む温風、空腹を刺激する炭火の匂い、アルコールやコーヒー、タバコの煙。学生には馴染みのないはずの空間をするすると通り抜ける。  桜井はいつも通り、アルバイト先のレストランを目指し歩みを進めていた。少し入り組んだ道を通ればますます学生を見かけなくなる。誰にもバレてはいけないという緊張感はこの辺りまで来ると自然に緩む。強張っていた肩の力を抜いて一度だけ振り返る。  慣れた動作で従業員専用入口に手をかけると、斜め向かいにあるガラス張りのカフェがふと視界に飛び込んできた。  最近まで改装を行っていたカフェはチェーン店ではなく、洗練された雰囲気のあるモノトーンでまとめられた店内に変わっていた。店員はシンプルな白いシャツに黒のエプロンを身に纏っている。  オフィスビルが近いこともあり、繁盛しそうだなと考えていると一際目立つ人物が窓際の席に現れた。  すらりと高い身長、息を呑むほど整った顔立ち。注文を取るために下を向くその仕草すら妙に様になっている。  桜井は身動きが取れなくなり、自然に立ち止まってその男を見つめた。  逃げなければと脳内で警鐘が鳴り響いた直後、厚いガラスを隔ててその男と目が合う。  相手が目を瞠った瞬間を捉え、我に返った桜井は慌てて従業員入口に姿を消した。 ◇  家に虫が出ようが、幽霊らしきものを見ようが怖いと思ったことはないけれど、昨晩の光景を思い出すだけで心拍数が上がる。ガラスを隔てて確かに絡み合った視線。相手はあの場所で出会ってはいけない人物。  日課となっている校舎裏の花壇に水やりをしながら、桜井は深くため息をついた。  昨晩の行動を振り返り、自分の愚かさに辟易する。  あれほど慎重にバイト先を選び、誰にも遭遇しないまま無事に一年を乗り切ったというのに油断してしまった。働いているところを見られていないとはいえ、あんな場所に一人でいるのは違和感しかない。よりによってこちらは制服姿だった。  後悔先に立たずとはよく言ったもので、今更何を思っても遅い。  桜井の通う高校はアルバイトが禁止されている。  幼稚舎から通っている生粋の金持ちと、外部から入学してきた者がいる高等部は貧富の差が生じていた。  学費などが全額免除になるという特待生制度に飛びつくように受験し、見事に合格した桜井は後者に属する。アルバイトをして家計の足しにしなければならない桜井の一方で、学校にブランドものを当たり前のように持ってくる生徒がいるような学校だ。校則違反だと釘を刺さずとも、アルバイトをするという選択肢すら存在しない生徒も多い。つまり桜井のような貧乏な家庭の実態を知らずに過ごしているため、桜井を庇ってくれるような人間がいるとは思えない。  特待生が校則違反のアルバイトをしているなどと知られれば、給付金の打ち切りなどの処分もあり得る。  とはいえアルバイトを辞めてしまえば生活に少なからず支障が出るため、誰にもバレないように作戦を練った。  交通費が支給される範囲内で、高校生にしては高時給であり、生徒が多く住む高級住宅街から離れたオフィス付近、という条件を見事クリアしたのはオフィス街に位置するイタリアンレストランだった。価格設定は少し高めで高校生が気軽に入れる雰囲気の飲食店ではない。我ながらよく見つけたと思うほどに都合が良かった。  実際一年間働いてみて、顔見知りを見かけたことは一度もない。  しかし、そんな平穏な日常は一瞬で崩れてしまった。  桜井のバイト先の向かいのカフェで働いていたのは紛れもなくクラスメイトの神崎凛人である。  校内一のイケメンで知られる神崎は同級生だけでなく上級生にも下級生にも人気がある。目立つグループに属している彼と、地味ながらも穏やかに学園生活を送っている桜井では接点がない。  明るい茶髪にピアス、すらりと高い身長。恐ろしいくらいに整った顔。何もかもが圧を感じさせる。  高校二年生になって一ヶ月。同じクラスになってからも、神崎とはまともに会話をしたことがない。  神崎は内部進学組であり、神崎の祖父が有名企業の社長であることは同学年の生徒ならば九割は知っているだろう。  そのためアルバイトをしている理由が全く思い当たらない。少なからず桜井と同じような理由ではなさそうだ。  詮索する気にもならないが、こちらの事情を知られるのはまずい。  意図せず神崎の秘密を握ってしまったため、桜井まで怪しまれる原因を作ってしまった。  いつも通り挨拶すらしない関係性を保っていればいいと思う一方で、何かが起こる予感があった。学校という狭い世界では、小さな出来事すら大きなトラブルに繋がる。  頭を抱えてもう一度吐き出したため息は重苦しかった。 「桜井」 「っ、わ、!」  花壇の近くにある窓から突然声をかけられ、桜井は思わず声をあげた。手元が狂い地面にジョウロを落として溢れた水が広がっていく。飛沫をズボンの裾に浴びたのも気に留めず顔を上げれば、桜井は言葉を失った。  そこには桜井を悩ませている張本人の神崎がいた。  いつも遅めに登校してきてはあっという間にクラスメイトに囲まれている人気者が、こんな早朝に桜井に声をかけてくる理由が見当たらない。  昨晩カフェで彼を見てしまった件を除いては。 「悪い。濡れたか」  神崎に問われ桜井は慌てて首を横に振った。 「全然平気」  地面に落としてしまったジョウロを拾い上げてもう一度神崎を見た。  正面からまじまじと神崎の顔を見るのは初めてだ。他人の容姿にさしてこだわりがない桜井ですら、客観的に見て美しいことはわかる。  くっきり二重で甘めのタレ目に高い鼻筋。自然に上がった口角。小さい顔にバランスよく配置されたパーツ。  天は二物を与えずという言葉の信憑性のなさを実感した。世の中はいつだって不公平である。  美しく、運動神経抜群で、人気者で、お金持ち。絵に描いたような学園の王子様。  こちらを見る瞳は息を呑むほど真剣で、色素の薄い髪が朝日にきらきらと光っている。  神崎は窓枠に肘を置いて頬杖をついた。少しだけ身を乗り出す気怠げな仕草すら味方につけている。  「単刀直入に聞くけど、昨日の夜見たよな」  前触れのない問いかけに桜井は固まる。  美形な人の真顔は怖いと聞いたことがあったが、事実だと身を持って知った。背筋が凍りついて表情がぎこちなくなる。  桜井がいくらブレザーを脱いでいたとはいえ、特徴的なチェック柄のスラックスが他校と区別がつきやすい。  ガラス越しに見たエプロンを身に包んだ神崎は、学校で見たことのない姿をしていた。やけに大人びて見えたあの姿が今でも脳裏に焼き付いている。  沈黙を肯定と受け取ったのか、神崎は目を逸らして小さく息を吐いた。ため息ではなく少し緊張しているような響きを持っていて意外に思った。 「他の奴には黙っててほしい」  桜井の返事も聞かず、神崎はそう言った。  何も知らないと誤魔化すつもりだったが、返答などなくとも桜井があの場にいたことは確信しているらしい。今更慌ててしらばっくれるのも無理がある。  口封じのために早めに登校してきたのだとすぐに察した。  濡れた土のにおいが満ちた空気を吸い込んで、桜井は頷く。 「誰にも言わないよ」  静かに呟けば、神崎はなぜか意外そうな顔をした。 「説教しねーの」 「……神崎くんを怒る理由なんてないよ」  理由がない、というよりも資格がない。  桜井も神崎と同じく校則を破っている。そして桜井に関しては外部から来た特待生であり、神崎よりもよっぽどバレるとまずい。  早く会話を切り上げたい気持ちがあるのに、神崎に見つめられていると身動きがうまく取れなかった。  「桜井、真面目じゃん。入学式のときは代表挨拶もしてた超優等生だろ」 「えっ、なんでそれ、」 「知らない奴の方が少ないと思うけど」  神崎はさらりと当たり前のように答えた。  新入生代表挨拶のために登壇したあの場所から見えた景色を覚えている。大抵の生徒は興味なさげに、心ここに在らずといった様子でただ前を見て座っていた。  心が挫けそうな一方で、こんなものだろうと割り切って代表挨拶を終えたため、まさか神崎が覚えているとは微塵も思っていなかった。 「誰も覚えてないよあんなの」 「そう? 俺は覚えてたけど」  神崎はふ、と空気を溢して微笑んだ。  片眉を吊り上げた悪戯っぽい笑みが嫌味に見えないのは才能だろう。彼を囲っている女子たちが見ればひとたまりもなさそうな表情だ。  少しキザな仕草に圧倒されていると窓から腕が差し出された。大きな手がペットボトル入りのコーヒーを掴んでいる。 「これ賄賂」 「は、」 「口止め料ね」  突然投げられたそれを慌てて受け止める。まだ買ったばかりなのか、よく冷えたそれは手のひらの温度を奪っていった。  ラベルの無糖という表示を目で追って、神崎に視線を戻す。 「それいつも飲んでるじゃん」  神崎の言葉に桜井は目を瞠った。  同じクラスではあるが、神崎に認識すらされていないと思っていた。名前から入学式の代表挨拶、普段飲んでいるものまで把握されていた事実に驚きが隠せない。  やはり学校という狭い社会では何もかもが筒抜けだ。 「何か貰わなくても誰にも言わないよ」  見上げる位置にいる神崎にコーヒーを返そうと手を伸ばしても、そのペットボトルは受け取られないまま。水滴が手首まで伝ってくる感覚と共にもう一度微笑みを向けられた。 「じゃあまた後でな」  軽く手をあげた神崎の指先がひらひらと揺れる。  取り残された桜井は唖然としたままペットボトルとジョウロを掴んでいた。

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