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chapterⅠ 嫌いなアイツ
リビングのカーテンを開けると眩しいくらい道路は一面真っ白だった。道路だけじゃない、目先の公園の木々もすっかり雪を被っている。
師走中旬の北海道では毎回見慣れた光景だ。井波和幸 は暖かい朝日を浴びながら大きく伸びをした。
朝日が差しているとはいえ、肌寒い室内に肩を震わせながら、ベッドサイドのスマホを手に取り、リビングへと向かうと真っ先に部屋のストーブを焚く。
部屋が温まるのを待ちながら台所で電気ケトルをつけて目覚ましの珈琲の準備をする。ふと、スマホの時刻を確認すると午前七時半と、休日にしては起床するには早い時間帯だった。
正直、もう少し寝ていた気分であったが、仕事で習慣になった体内時計がそうさせるのか……。
昨夜は残業で疲れて帰ってくるとすぐに眠りについたのでスマホには一切触れていなかった。
何かメッセージが来ていないかと眺めていると一件の留守電が入っていたことに気づく。着信先は実家からだ。
『かずゆきー。明日、|慎文《やすふみ》くんがそっちに行くだって。来たら泊めてやってね?それと、慎文くんの連絡くらい返してやりなさいよね』
母親の説教じみた留守電は鬱陶しく思うが問題はそこじゃない。和幸は用件を耳にした途端に全身が震えあがった。
明日ということは、つまり今日……嫌いなアイツが家に来る……。
昨日の朝までは確かに覚えていた、なんなら奴が来る前に出掛けて留守にしてやろうかと思っていたくらいだ。
ただ、年末前の激務に追われてすっかり忘れてしまっていたことに後悔する。
こうして呑気に珈琲を飲んでいる場合じゃない。奴が来る前に身支度を済ませ、どうにかして出会わないようにしなければならない。
和幸は外出の準備をしようと寝室のドアノブを握ったところでインターホンが鳴った。
このタイミングでこんな早朝に訪問してくるなんて奴に決まっている。
恐る恐るモニターで訪問者の顔を確認すると和幸の予感は間違いではなかった。明るめの髪色に動きのある短髪。
二重瞼に、はっきりとした太めの眉毛が特徴的の奴。モニター越しの奴は動物性の毛が付いたフードのダウンコートに身を包み、鼻を赤くさせてニコニコと佇んでいた。
和幸は画面から視線を逸らすと両腕を摩って胸元に手を当てた。奴を目にした途端に鳥肌が立ち、恐怖で心拍数が上がる。
そうこうしているうちに再びインターホンが鳴ってしまった。居留守を使っても良かったが、母親の留守電を聞いてしまった手前、無視をするわけにいかない。
それに此奴の性格上、忠犬のように玄関扉の前で和幸が出てくるまで待っていてもおかしくはなかった。流石に三歳下の幼馴染を氷点下の中、置き去りにできるほどの薄情ではない。
和幸は足取りを重たくさせながら玄関先へと向かい、鍵を開ける。
扉を開けた先には案の定、名前を出すもの嫌悪するほどの和幸の天敵、矢木田慎文(やぎたやすふみ)が立っていた。
母親同士が同級生で仲が良く、家も隣同士で幼い頃から見飽きるほど合わせていた顔。
和幸の自宅に泊まる気満々であろう、黒くて大きいボストンバックを右肩に提げて、手元には紙袋と保冷バック。
慎文は玄関先へと足を踏み入れるなり、手元のバック類を全て三和土に置くと、扉を開けて廊下に佇んでいた和幸の腹部を目がけて思い切り抱きついてきた。
「久しぶりっ。カズくんっ‼」
「うわあああああ」
腰のあたりに腕を回されて、恐怖に慄いた和幸は慎文の勢いのあるタックルも相まって、盛大に尻餅をついた。抱きつかれてはいるものの、慎文は和幸より一回りほど体格が大きいので抱き締められているみたいになる。
「お、おいっ。やめろっ、離れろよ。重いし近いっ」
ズルズルと這うようにして、顔に近づいてくる慎文の額を抑えてどうにか抜け出そうと試みるが、大きい体から逃げ出すのは至難の業だった。
「連絡の返事がなかったから、家に居ないんじゃないかって怖かったんだよ」
慎文が来ると分かって怖かったのは自分の方だと言ってやりたいが、言ったところで此奴には何一つ響かない。此奴が言っているように何日か前に本人からご丁寧に『カズくん、今週末遊びに行くからね』と連絡は入っていたが、既読しただけで無視をしていた。
それを今の今まで忘れていた自分が悔しい。憎たらしいほど満面の笑みを浮かべて見つめてくる慎文に苦笑を浮かべながらも身じろぎ続ける。
和幸が既読無視をして遠回しに訪問拒否をアピールしていても、週末の早朝に押しかけてくるのだから完全に確信犯である。
「早くカズくんに会いたくて、昨日の夜からバスに乗ってきたんだ」
「だ、だからなんだよ。いい加減に離れろよ」
慎文の額を抑える手が微かに震える。迫ってくる此奴が和幸にとっては恐怖の対象でしかない。
「カズくん……。キスしたい」
「はぁ⁉」
そんな相手に急にキスを迫られて和幸の思考が驚きのあまり停止する。慎文とキスでもしたらそれだけでは済まされないことは明確だった。考えただけでも悍ましい。
「ダ、ダ、ダメに決まってるだろっ。此処は外国でもなければ日本だっ。同性同士でするなんて道理に外れてる」
「でも、俺はカズくんのこと好きだから」
「いいから、離せよ。お前が俺のことを好きでも俺はお前が好きじゃない。それにいい年をした三十代のおっさんに君付けするな」
半ば強引に腹部を蹴って慎文から脱出をすると、漸く離れてくれたことに安堵する。
慎文は素早くその場に立ち上がると、少しだけ落ち込んだ表情を浮かべた後、三和土に置きっぱなしにしてあった荷物を拾いに戻った。
「これ、小母さんから預かってきた食べ物。カズくんの好きなもの入ってるって。あと保冷バックの方は、うちの牛乳も入ってる」
「だから……。もういいや、ありがとう」
君付けを指摘したそばから『カズくん』と呼ばれて、何度注意したところで直ることはない。和幸は深く溜息を吐きながら紙袋とバックを受け取った。
リビングまでの廊下を歩きながら、紙袋の中身を覗くと畑の野菜や地元のお土産、ちゃんと保冷してある乳製品やらが沢山入っていた。
慎文が靴跡で濡れた三和土に放り投げたものだから、紙袋の底が濡れていて今にも破けそうであったのが気になったが、実家の野菜は馴染みあるものばかりだし、一人暮らしの和幸には非常に助かるものだった。
慎文はというと「お邪魔しまーす」と部屋中に響き渡るくらいの声量で挨拶しては、後ろについてくる。
リビングへと入ると、荷物をカウンターキッチンの台の上に下ろし、冷蔵庫に中身を仕舞った。
その間、慎文はアウターを脱ぎ、ソファの背もたれに畳んで置くと、カウンター越しに此方を見つめてくる。
ふと和幸が冷蔵庫に食材を仕舞い終わって振り向いたら、不気味なくらいニヤニヤとしながら見てくるので、怪訝な表情をして慎文を睨んだ。
「なんだよ」
「パジャマ、可愛いね。もしかしてカズくん寝起きだった?」
縦縞で紺色の綿素材の寝巻。奴に言われて、自分が起きたばかりで、パジャマのまま玄関先へと出てしまっていたことに気づく。
「お前が常識考えずに早朝から来るからだろっ。着替えてくるからそこで待ってろ」
年下の嫌いな幼馴染に指摘された恥ずかしさを悪態吐くことで誤魔化すと、和幸は颯爽と寝室へと向かった。寝室のドアノブを握ったところで、漠然とした不安を覚えた和幸は、踵を返してソファの端に行儀よく座っている慎文の前に立つ。
「絶対に部屋に入ってくんなよ」
「もちろん‼」
慎文に念を押したものの、玄関先で抱きついてくる此奴が、云うことを訊くかは信憑性に欠ける。今のところ奴が此処にいる間に寝込みを襲われるだとかは起きたことがないが、油断のできない男に内心では怯えていた。
和幸は寝室に向かうと速やかにドアを閉めて部屋へと籠る。一人になった途端の安堵から深く息を吐いていた。
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