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二十四話※ 瞳、唇

 ドロップに陥っていても、陣床几に腰掛けて、鍛錬に励む子ども達に指導を飛ばすことは出来る。  由利と佐久良、そして夏目の三人が朝から道場で子ども達に稽古を付けていた。  表向きには、由利は軽い腹部打撲ということになっている。  同時に、車を借りる方便で足を挫いたことになっている佐久良も激しい動きは控えていた。  由利と佐久良が同時に故障したならば、大半の者は佐久良を心配して由利のことなど忘れてしまう。    由利のドロップを気取られぬようにするには良い注意の逸らし方だった。  ただ、浄世講に支配されていた時代の記憶が薄く、道場に通わせてくれる程度には由利を嫌悪していない家庭の子供達は、由利のことも心配してくれた。  その度に由利は、俺くらい強くても怪我は防げへんねんから間違っても餓鬼だけで邪機を退治してやろうなんざ考えるなよ、と言い聞かせるのだった。    筑紫の姿が目に入る。グレアが出せるようになったかどうか外見からは分からないし、周りに人が居る以上訊くことも憚られるが、すっかり元気を取り戻しているように見えた。  子ども達を帰し、三人は詰所へ移る。  しかし鹿島に邪機の発生状況を訊くと、稀に見る少なさだ、と返ってきた。 「オーオンの修理に総動員されてて人里へ下りて来る間もあらへんのでしょうか」  この程度のことは予想していたので、意外でも何でもないといった様子で夏目が言う。 「出撃するだけ電気代の無駄やな。  今夜は休みや。  栗栖と相馬には俺から電話しとく」   佐久良が言うと、由利は溜め息を吐いた。 「こっちが準備万端でも獲物が居らな仕事が出来ひんってのは、狩りの辛いところやな」 「邪機の死骸のストックやったらまだありますよ。  当分狩りが出来ひんくても無給になりやしません」 「金の心配やない。期間が空いて腕が鈍る方が困る」  生活や金のことより剣の心配をしている相変わらずの由利を、夏目は困ったように覗き込む。 「大丈夫ですよ。皆、修練を欠かしやしません。  由利は自分の体を休めることだけ考えなさい」  夏目は由利の焦燥をよく理解していた。  牢獄のような部屋の中で、孤独に刀を振るい続ける由利を側で見ていたからだ。  正直なところ不安で仕方ないが、仲間を信じてやりたいという気持が勝ち、由利は頷いた。 「ほな帰ろか」 「ああ」  夏目に言われてつい返事してしまったが、今はここが由利の家だ。  由利は慌てて言い訳する。 「いや、俺は暫く詰所に残るから、夏目は先に帰ってくれて良え。  休養中何もせえへんのも性に合わんからな、佐久良に読み書きでも教えてもらお思て……」  言い訳しようと必死になるあまり、由利にしてはつい喋りすぎてしまった。  そんな必死にならずとも、そもそも夏目は他人の事情にずけずけ踏み込んでくるタイプではない。  不自然に並べ立てた言葉を怪しまれはしないかと由利は身構えていたが、夏目はあっさりと了承してくれた。 「そうですか、頑張ってください。  佐久良、勉強が終わったら由利のこと送り届けたってもらえますか」 「勿論」  佐久良が返事すると、夏目は微笑んで詰所を出て行った。  二人きりになった途端、視界が真っ黒になる程の眩暈に襲われて由利は畳に蹲った。 「由利!」 「っ、平気……周りに人が居らんなって、気い緩んだだけや」  震えている由利の背中を佐久良は擦る。  その手を由利が鷲掴みにした。  佐久良の肩がびくりと跳ねる。 「佐久良、頼んでええか」  そう言って振り向く由利の表情は、激しい闘志で満ちていた。  十分後、由利はまたもや三階の佐久良の部屋で、雲のようなラグマットの上に正座していた。  ドロップに陥って弱々しい姿を晒す自分に苛立ち、進んで責め苦を強請った。  これは治療だと心の中で繰り返しながら、正面に立つ佐久良を見上げる。  佐久良の恰好は、衿を抜いた若衆振袖に、高めに結んだ柔らかな兵児帯。  黒地の身頃に一つ大きく染め抜かれた「月に蝙蝠」の図案や、経文に使われるような古代文字が刺繍されたリボンを編み込んだ髪などは、なかなかに尖ったセンスではあるが佐久良は難なく着熟している。  由利の側には首輪と乗馬鞭の他に、浅鉢が置かれていた。  佐久良は、その手に持っていた袋の中身をさらさらと浅鉢へ注いでいく。  何の変哲も無いコーンフレーク。  容器が床に直置きで、スプーンが用意されていないことを除けば、嬉しい間食だ。  明日からはもっと猫らしく扱ったる――佐久良は昨日、確かにそう言った。  由利の首に首輪が装着されるのが合図となり、最初のコマンドが告げられた。 「Strip(脱げ)。ズボンだけで良い」  ズボンを脱げば、由利は赤黒ボーダーの薄手のセーターと下着、そして首輪を身に纏うばかりで、脚がすっかり剥き出しという情けない格好になってしまう。  一緒に風呂に入る方がよっぽど肌を晒していた筈なのに、寝室で中途半端に脱いでいる方が、余程居心地が悪い。  しかし、ドロップを絶対に治すという強い意志で、佐久良から目を離すことはしなかった。  佐久良もまた、由利をじっと見つめている。  これからプレイをするDomとSubというよりは、斬り合う寸前の戦士とでも題が付きそうな光景だ。 「……可愛い猫ちゃんに、ご飯を用意してみてん。  食べてくれたら御主人様はめっちゃ嬉しいな」  優しげな台詞に反して、佐久良の眼は冷ややかに伏せられている。  有無を言わせぬ支配者の眼だ。  由利が反応に困っていると、佐久良は続けて問うてきた。 「ご飯、貰てくれる?」 「……はい……御主人様が用意してくれたの、食べたい、です」 「そうか。やったら、Crawl(這え)」  プレイの流れを考えてコマンドを下すのは佐久良であって、由利はただ彼に従っていればいい。  しかし佐久良はいつもコマンドの前に、責め苦が欲しいと由利が強請るよう仕向ける。  そして佐久良は言質を取ったとばかりに、由利の「お強請り」を叶えるのだ。  狡猾とも言えるリードに、Subとしての本能は掻き乱される。  由利は這い蹲ると浅鉢に顔を突っ込んだ。  少し首を捻って、フレークを口に迎え入れていく。 「Good boy(良い子)」  咀嚼音の向こうに、佐久良がぽつりと呟くのが聞こえた。  口の中に入ってきた長い前髪をフレークと一緒に噛んでしまう。  嫌な感触に眉を顰めると、佐久良が傍らに屈み込んできた。 「Look(見ろ)」  命令されて見上げると、佐久良は手を伸べてきた。 「じっとしとって」  佐久良が指で摘まんでいたのは、鼈甲模様のスリーピンだった。  顔の右側を覆い隠す赤い髪をそっと撫でつけ、ピンで纏め上げてくれる。  二人の間に、妙な沈黙が流れる。  由利からすれば、用が済んでも佐久良が視線を外してくれないので思わず見つめ返してしまったのだ。  涅色の瞳の中に映る自分の姿を見て、由利はハッとする。  いつもは長めの前髪を下ろしている顔の右側が額まで顕わになっていた。  大きな傷が歴戦の武人らしい貫録を演出している左側とは違い、右側には年相応のあどけなさがある。  幽閉から抜け出すと同時に複雑な立場に置かれた由利は、舐められない為に威厳を出そうと無傷の半面を陰にしていた。  前髪を作ってからというもの、人前でこんなに顔を晒したのは初めてだ。  佐久良も、いつもより青臭く見える由利に物珍しさを覚えたに違いない。 「ありがと……ございます」  ヘアピンの件への礼を、また敬語を忘れかけながらも述べてから、再び浅鉢に顔を突っ込んだ。  佐久良は由利の腹の下に手を差し込んで、何やらごそごそしてから立ち上がる。  佐久良が丁度真後ろに立った時、彼が何をしていたのかを由利は察した。  首輪に繋がる鎖を由利の腹の下に通して、脚の間から引っ張り出していたのだ。  由利の肩甲骨辺りに、そっと何かが乗せられる。  肩越しに振り向いて見れば、それは佐久良の右足だった。  足で由利の背を踏み付けながら、手では股を潜る鎖をぐっと引き上げている。  這い蹲って犬食いさせられるのみならず、足蹴にされて尻だけを高く上げさせられるという酷い体勢を取らされた。  屈辱の奥で、Sub神経が昂っているのを感じる。   昨日のプレイよりも頭がぼうっとして何も考えられないのは、肺が圧し潰されて脳に酸素が行き渡らないせいだ――きっと。 「猫がお尻を上げて見せてくれるのは、飼い主を信頼しとる証拠なんやて。嬉しいな」  無理矢理引っ張っておきながら「見せてくれる」だなんて随分身勝手な物言いだが、それが堪らなく心地好かった。  セーターが胸の方に摺り落ちてきて用を成さなくなる。  普段から穿いているソングタイプの下着がこんなにも心許なく感じられたのは初めてだ。  服に下着のラインが出ないようにこういったデザインのものを穿いている訳で、和服をよく着ている佐久良なら理解してくれると思うのだが、やはり布面積が少ない以上は煽情的な意味を多少なりとも持ってしまう。特にこんな状況では。 「体勢崩したらあかんで」  由利の動揺を知ってか知らずか、佐久良は鎖を手放し、由利の前に回り込んでくる。  その頃には既に浅鉢の底が殆ど見えており、僅かに残ったフレークを、伸ばした舌で舐め取らねばならなかった。  見苦しく行儀の悪いことをしている由利の頭を、佐久良はそっと撫でた。 「綺麗に食べて偉いな」 「は、う……」  ひっきりなしに甚振られていたぶん、撫でられた折の充足感は凄まじかった。  思わず声が漏れたのが情けなく、さりげなく頭を振って佐久良から逃れた。  手を退けてくれた佐久良は、手持無沙汰になっている間、乗馬鞭を由利の腰にぺちぺちと軽く叩き付けた。 「猫って腰をぽんぽんしたら喜ぶよな。あれ、何でなんやろ」  鞭はつうっと尻臀の方へ滑っていく。  次のプレイでは尻を叩こうとでも佐久良は考えているのではないか。  ひとえに、オーオンを倒すために。  再び未知の感情が由利を襲う。  佐久良の痣を見付けた時とは少し異なる気がする、寒々とした気持ち。  ドロップで抑鬱状態に陥っているせいだと結論付け、その感情を忘れるよう努める。  やっとのことで浅鉢を空にすると、首輪を外され、佐久良の膝を枕に横たえられた。  そして口元の食べかすを、濡れた手拭いで浄められる。 「汚いて、自分で拭く」  由利が頭を振るが、佐久良は逃してくれなかった。 「アフターケアやぞ。  ドロップを治すのには必要や、大人しくしとれ」  そう言われると反論出来ず、されるがままの状態に甘んじるほかなくなる。  外はまだ明るく、子どもたちのはしゃぐ声が聞こえる。  下肢を放り出し戦友の膝枕に頭を預けている姿を、世界中から責め立てられているかのような気分だ。  佐久良が口許を拭き終えたのと同時に、由利は身を起こそうとする。  しかし肩を掴まれて阻止されてしまった。  男の大して柔らかくもない太腿に頭を打ち付けられ、くぐもった声が漏れる。 「まだ終わってへん。  今回はアフターケアをあんまり挟まんとコマンド出し続けたから、じっくりやっとかんと」  そして佐久良は帯の隙間からリップスティックを取り出す。  濃藍色にラメを鏤めたダークながらも透明感のあるデザインの容器。  セイロンカットのイミテーションジュエリーが鎮座するキャップを外し、淡いピンクの色が付いたリップを由利の唇に塗った。  いつもはコンシーラーで唇の赤みを抑えてから落ち着いた色の紅を乗せている。  それも前髪と同じで、威厳を出すための工夫だ。  なのにコンシーラーごと唇をすっかり拭われて、こんな可愛らしい色のリップを塗られてしまえば、威厳などあったものではない。  思わず佐久良から顔を背けそうになったが、タイミング悪く頭にぽんと手を置かれ、動きを封じられてしまった。  続いて佐久良は、首輪で擦り切れてはいないか確かめるように、由利の頤から鎖骨までを滑らかな指先で撫で下ろす。  アフターケアを受けていると、その時間だけ重力が軽くなったかのように身体がほわほわとする。  「一個訊きたいことあんねんけど」  気恥ずかしさを誤魔化す為に由利が切り出す。 「何で俺は猫なんや? 本で見たペットプレイの例は犬と馬やったやろ。  碌に言うこと聞かへん動物やのに、Subを猫になぞらえるって、どういう拘りや」  すると佐久良は少し気まずそうに視線を逸らしながら答えた。 「……餓鬼の頃、近所の奴に、よう噛む犬をけしかけられてから、犬は苦手や」  餓鬼の頃というのは、新人類だからという理由でUsualに迫害を受けていた時のことだろう。  しかし、佐久良にも苦手なものがあったとは初めて知った。  一緒に居る時に犬と擦れ違ったことだってあったが、怯えた素振りなど一切見せなかった。  佐久良とは、いちいち口に出さずとも互いに何でも分かり合える友人のつもりでいた。  しかしそれは所詮、考え方が似ているために導き出す事実が同じだというだけなのだと思い知る。  由利は今まで、佐久良の心の中に触れたことは殆ど無かったのだ。  敵に包囲された時に彼が取る行動は予想出来ても、感情や好悪は察せない。 「そら酷い話やな」  由利がその場に居たら、近所の悪餓鬼の頭に納豆をぶちまけて、そいつが犬に追い掛けられるようにしてやっただろう。  犬は納豆が好きだというのは、加賀見が教えてくれたことだ。 「それに、由利は猫っぽい」  佐久良が訳の分からないことを言ったので、由利は顔を顰めた。 「俺のどこが? あ、自分勝手なところか?」 「違う。全体的な雰囲気の話や。  由利は錆猫っぽい……オッドアイの錆猫」  佐久良の答えを聞いて、由利はぎくりと固まった。  まず一つは、野良猫に餌を遣るのが好きだった己波が唯一可愛くないと言って冷遇していた柄が錆猫だったせい。  もう一つは、オッドアイという言葉の意味が分からなかったせいだ。 「オッドアイって?」 「左右で眼の色が違うことや」 「それと俺に、何の関係が」 「……もしかして、気付いてへんのか?」  佐久良は一人で合点して驚いている。  そして由利の左頬の傷を指先でなぞった。 「光に当たるとよう分かる……刀傷を受けてからは、左眼の方がほんの少し色が薄い」  小路に顔を斬られてから五年が経つが、自分の瞳の色が左右で異なるなどと気付かなかった。  指摘する者も居なかった。 「いつから気付いとったんや、そんなん」  そう言う自分の声が上擦っているのを由利は感じていた。 「……ずっと前からや。  戦いが終わって間も無い時から、ずっと知っとった」  戦い、とは由利が顔に傷を負った浄世講との戦いのことだろう。  佐久良は由利の髪を留めていた鼈甲模様のヘアピンを外すと、手の中で弄ぶ。 「この髪留めみたいな綺麗な模様で良えやろ。錆猫」  彼が言ったことは、己波とは全くの正反対であった。  ただ、どちらがより好ましいかなんて分かりきったことだ。  ああ、と一言首肯するだけで良かった。  しかし由利はどうしても、たったそれだけのことが出来なかった。  少し残っている事務仕事を片付ける為に佐久良が階下へ下りて行ってから、由利は鏡台に近付いて、螺鈿の飾りに囲まれた大きな鏡に顔を映した。  言われてみれば確かに、左眼の方が虹彩の色が薄い気がする。  それから唇に視線を移し、思わず、げっと声が漏れた。  透明感のある見事なチェリーピンクに染まっている。  決して似合わない訳ではない。  むしろ似合い過ぎて、由利本来のあどけなさを引き出している。  それが由利にとっては都合が悪いのだ。  だからといって、洗い流してしまうのは良心が咎めた。 は今日は風呂に入るまでこのまま過ごすか、と由利は覚悟を決めた。

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