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二十五話 纏わりつく過去

 次の日の朝。  佐久良と由利は、中の間で朝食を摂っていた。  焼きおにぎりを軽く解して三つ葉を乗せ、薄味の出汁を掛けた出汁茶漬け。  食べやすいサイズに切られたさつま揚げやじゃこ天などのバリエーション豊かな練り物。  ほうれん草のおひたしの小皿。  どれも佐久良が用意してくれたものだ。  朝食を終えるとすぐ、佐久良は台所へ消えて行った。  サプレッサーを飲みに行ったのだろう。  Switchである由利に気を遣ってか、佐久良は由利の前ではサプレッサーを飲まない。  戻って来た佐久良は、由利の隣にぽつねんと座る。  道場は休み、狩りも休止、それに伴って事務仕事の大半がストップ。  やることが無くて途方に暮れているようだ。 「鍛錬はせえへんのか? 佐久良もどっか悪い?」 「いや、そんなことは……」 「やったら、俺のことは気にせんと道場に行ってきたらええ。遠慮すな」  佐久良は案の定、何よりも誰よりも強さに固執する由利が刀を取れなくなってしまったことに対して遠慮して、自分だけが鍛錬するのは申し訳ないと思っているらしい。 「調子悪なったら無線で連絡するから」 「……せやったら、行ってくる」  佐久良は寝間着から着替える為に三階へ上って行く。  由利も三階で本の続きを読んでいようと思ったので付いて行った。  階段の途中で佐久良は立ち止まり、また由利を先に行かせてくれる。  部屋に入ると早速、箪笥の前で佐久良は浴衣を脱ぐ。  佐久良は黒いストッキングを履いてガーターで留める。  長く綺麗な脚だ、と由利は思わず見惚れていたが、すぐに邪念を振り払って浴衣を寝台に置くと、書き物テーブルに備え付けられた椅子に腰を下ろして本を開く。  佐久良はノースリーブで裾に大きくスリットが入ったマオカラードレスを着て、共布のオペラグローブを嵌め、その上から羽織を纏う。  艶やかな黒に包まれた姿は、鴉のように映る。  一見華美だが、軽い素材のドレスも、グリップ機能の高いグローブも戦闘向きだ。  鏡台に向かい化粧を施す彼を、由利は無意識のうちに本の陰から覗いていた。  はっきり引いたアイラインを、黒のアイシャドウで巧みにぼかし、赤や紫のアイシャドウで瞼に色を加えていく。  生来豊かな睫毛をマスカラで更に際立たせ、アイメイクの仕上げにグリッターを塗す。  ルージュは深いプラム色。  髪を適当に纏めていた組紐を解くと、背中で一本の幅広な三つ編みに結び直す。  その耳には今日も、タッセルのピアスが揺れていた。 「行ってくるから、何かあったらすぐ呼べ」  脱いだ浴衣をベッドに置き、無線機とガゴゼを持つと佐久良は道場へ出て行った。  由利も寝間着から着替えようと思ったが気が向かず、切りの良いところまで本を読み進めてからで良いか、と椅子に深く座り直した。  書庫から借りて来たのは、一八〇年前に出版された『乗り物図鑑』だ。  写真が多く、平易な文で書かれているので、漢字辞典と国語辞典を駆使すれば一時間で見開き二ページ分の内容くらいはどうにか解読出来る。  今はロストテクノロジーとなってしまった飛行機や鉄道、『海』の無いネオ南都では珍しい船など、見ているだけで飽きない。  説明文も、好奇心や想像力を掻き立てた。  特に、表紙に大きく印刷されている新幹線なるものは、いかにも乗り物の花形といったサイズ感とフォルムをしている。  しかも、かなりの速度が出るらしい。  新幹線よりずっと鈍足ではあるが機関車というのも悪くない見た目だ。  剥き出しになった動輪やピストンが複雑に絡み合う様は武骨な美しさがある。  今でもバイクや車は好きだが、仮に生まれた時代や場所が違ったなら鉄道の運転手かパイロット、船乗りなんかを夢見ていたとしてもおかしくない。  それ程真剣に図鑑を読んでいる自分が居た。  詰所の前の通りを、笑い声を上げながら子ども達が駆け抜けて行く。  それに目を遣って集中が途切れた時、脳天から背骨に沿って熱した楔を打ち込まれるような痛みが走り、由利は声にならない悲鳴を上げた。  また身体中のSub神経が禍々しい赤に光っている。  視界がどんどん霞んでいき、天地の感覚が失せていく。  慌てて無線機を引っ掴むと、まだ目が見えているうちにベッドへと転がり込んだ。  頭を布団に埋めれば、間違っても頭を打つことは無いだろう。  図鑑と、卓上の物が幾つか床に散らばる音が背後から聞こえた。  脳裏に映像が浮かぶ。  遠くからこちらを睨みつけるざんばらの髪の少年。涅色の瞳に宿るのは殺意。  ――ドロップが作りだす幻に惑わされてはならない。  『今』の佐久良は、大切な友人ではないか。  ベッドに横たわり、痛みと幻に藻掻くことしか出来ない自分の不甲斐無さに怒りを感じる。  由利以外に知る者は居ない、新人類が生まれた原因。  この奇妙な本能、生態で誰かに恋焦がれたり苦痛を味わったりする意味。残酷な真実を。  気を抜くと感情が爆発してしまいそうで、みっともない姿を見られたくないがために佐久良を呼ぶことは躊躇われた。  身体を丸めて震えていてもドロップが軽くなる兆しは無い。  むしろ、オーオンに襲われたその日より悪化している気さえする。  その時、花を敷き詰めたかのような甘ったるい香りが由利の元に届いた。  闇に包まれた視界の中で薫香の正体を手繰り寄せると、それは佐久良が置いて行った寝間着の浴衣だった。  いつも焚き染めている白檀に加え、汗や獣に似た、生々しく毒気のある匂いが混ざっている。  しかし嫌な気はしない。  浴衣を掻き抱き、絣の波間に溺れゆく。  すると不思議なことにドロップの症状が和らいできた。  暫くすると、階段を上って来る足音が聞こえた。  佐久良だ。  慌てて浴衣を手放すと仰向けに寝転がった。  数秒後に御簾を潜って来た佐久良は、肌に赤い線が浮かんだままベッドに居る由利を見て、駆け寄って来た。 「由利!?」 「大丈夫や。ちょっと怠いから寝転んでただけ。  佐久良を呼ぶまでもあらへん」  余裕ぶって手をひらひらと振る。  しかし佐久良には通用しなかった。 「その割には、慌てて寝台に潜り込んだようやな」  言いながら床に散らばった物を見渡している佐久良に、由利は自身の虚偽の破綻を悟った。 「しかも、二十分くらい寝転んどったみたいやないか。  それのどこが、ちょっと、なんや」  佐久良は床から砂時計を拾い上げる。  三分の二程の砂が下に落ちた砂時計は、由利が机の上から落としてしまい、その拍子にひっくり返ったものだった。 「取りあえず治したる」  左手に持っていたガゴゼをテーブルに置くと、羽織を脱ぎ、佐久良はベッドに入って来る。  道場は大型の扇風機を稼働させており、多少滲んだ汗も殆ど羽織や肌着が吸い込んだせいか、由利に触れる佐久良の身体はさらさらとしていた。  赤い線が現れた箇所を撫でられると、あれ程全身を蝕んでいた痛みが軽くなる。  そして不思議なことに気付く。浴衣から放たれていた強い香りが、いつの間にか消えていた。  佐久良が不意に由利の腕を引っ張り、半身を抱き起させる。  戸惑う由利の前で、佐久良は深呼吸した。  すると桜色の光が寝台いっぱいに広がる。  かなり手加減してあるが、発生源となるDomの強力さをSubの本能に叩き込む凄味のあるグレアだ。  佐久良が遠くへ行ってしまう。  無性にそんな不安に襲われた由利は、身を強張らせ、息の仕方も分からなくなる。 「何で俺をすぐ呼ばんかった」  静かに問い掛けられ、由利は返事に詰まった。  貴方の浴衣を嗅ぐのに時間も忘れて夢中になっていたので呼ぶのを忘れていた、などと言える筈もない。  グレアに怯んではいたが、適当な言い訳を捻り出す程度の頭は働いた。 「手首を握っとったらドロップが軽くなった気ぃしたから……経絡を押して試しとった」 「結果は」 「成果無し」 「……研究熱心なのは良えけど、もう少し早く見切りを付けるべきやったな」  佐久良は溜め息混じりに言って、どこからともなく取り出した乗馬鞭で由利の輪郭をなぞった。 「約束しろ、これからは、離れとる時にドロップが酷なったら一分以内に俺を呼ぶ」 「はい……約束します」  由利が頭を垂れると、やっと佐久良はグレアの放出を止めた。  由利の喉から胸にかけて未だ赤く輝くSub神経を見て、佐久良はほんの少し眉を顰める。 「まだエラーが出とるな。  余程体調が悪くなければ、プレイした方が治りが良いと思うけど……」 「頼む、佐久良……」 「ああ。由利、Down(伏せ)」  佐久良は、掴んでいた由利の腕を放す。  由利はコマンドに従って俯せになった。 「由利、これ出来るか」  そう言って佐久良は枕元に一冊の本を広げて置く。  細々と書かれた文章は由利には読めずとも、挿絵で察する。  メイド服の少女が、令嬢らしき人物の手で豪華なソファに俯せで押さえ付けられ、捲られたロングスカートとタブリエから覗く下肢を乗馬鞭で打たれている絵だ。  上気した二人の頬から、単なる折檻以外の意味があることは容易に読み取れた。 「これも、昔の罰や。  今もDomとSubのプレイではよう使われるシチュエーションやねんて」  佐久良が説明を付け足してくれる。 「出来ます」  由利は即答した。  戦場に戻る為なら、これくらい何てことはない。 「ほな悪い子になろか、由利」  理性を手放せと言わんばかりの、佐久良の囁き。  期待に下肢が疼いてしまう。 「……ドロップが悪化しても佐久良様を呼ばんかった俺は、駄目な奴です」 「その話はもう済んだ。怒ってへん」 「やったら、何を……」  怒っていない、というのは安心したが、では何を罰してもらえば良いのかが分からなくなる。  すると佐久良の手が、由利の腰を鷲掴む。 「御主人様に隠し事する悪い子やろ?   打たれたくて仕方ないくせに平気な振りして」  無意識のうちに腰が浮いていたらしい。  新人類の本能が見せる浅ましさに、虚しい思いが込み上げてくる。  新人類なんて種族が誕生しなければ、ネオ南都の死と憎しみの歴史は無かった。  佐久良と由利も、普通に出会い、普通の友達になれていただろう。  こうして佐久良に好きでもない相手とのプレイを強いずとも済んだ筈。  憎しみや悲しみに呑まれ、互いを見失った過去だって無かった筈だ。  友人である佐久良に、恋人じみたプレイなどさせたくない。  しかしドロップを治さなくては、再び佐久良と戦場に並び立つことは出来ない。  そしてあらゆる煩悶を裏切るように、由利の身体は佐久良の『悪い子』になりたがっている。 「ごめんなさい……叩いてください、佐久良様」

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