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七十三話 誘惑
次の日、佐久良が目覚めた頃には由利はもう料理房に居て、スぺイス・オダティーを口遊みながら夕飯の仕込みをしていた。
既にカレーの香りが回廊まで漂ってきている。
狩り以外にも事務仕事を熟して疲れているであろう佐久良を、起こさずにおいてくれたのだ。
佐久良が料理房に足を踏み入れるより早く、由利は歌うのを止めてお玉片手に振り向いていた。
さすが、気配に敏感だ。
もう少し歌声を聴いていたかったと思いつつ、佐久良は由利の肩に頭を擦り寄せる。
「おはよ」
「おはよう。良え香りしとる」
さりげなく由利の手からお玉を取り、底を混ぜ返す役は佐久良が担う。
鍋の中の玉葱はどれを見ても均等な飴色に透き通っている。
仄かに香るのはナンプラーとココナッツミルクだろう。
本当に手の込んだカレーだ。
由利がうんと背伸びすると、赤い髪が潤んだように優しく輝いた。
数週間前にここでサプレッサーを飲む飲まないで揉めた悲しい記憶も、その光に溶かされて思い出として昇華されていく。
「星空の歌のこと、別れの歌ちゃうかって言ったことあるやん」
由利が話し出す。
「その解釈、やっぱりしっくりこおへんくてさあ。
撤回するわ。
多分これは、もっとこう……運命に対して前向きな歌や」
「良え解釈やな。何でそう思ったんや」
「勘」
それから由利はふと鍋を覗き込むと、困ったように眉根を寄せた。
「二人前にしては、ちょっと作りすぎたかな……。
レシピ読み間違えてしもたかも」
「皆に分けたったら良え。
それに俺は、由利が作ってくれたもんやったら何食連続同じメニューやろうと文句言わへん」
「佐久良が良くても俺が嫌や。
しゃあない、明日はカレードリアにでもするか」
「なんか美味しそう」
やはり美味しいものを沢山知っているのは由利の方だ。
こんがり焼けたソースやチーズと、由利が大振りに切ったほくほくの具材を頬張るのを思い浮かべるだけで胸が暖かくなる。
「佐久良は、カレー余らしたらどないしてた?」
「食パンに挟んで食べるか、リゾットにしてた」
「良えな。今度作ってや」
表情も声色も変わらないが、由利が甘えているのだと佐久良には分かる。
由利は目的の為なら容赦なく他人を動かすが、些事で人に頼ることは無い。
そんな彼が、容易いことを強請ってくる。
「ああ、明日にでも」
佐久良は鍋底を焦がさないよう必死で手を動かしながら、由利の方を何度も盗み見た。
仕込みを終えると二人は戦闘服に着替えた。
今回も鍛錬と狩りがある。
戦化粧を施し、残るは唇に紅を差すだけとなった時、由利は佐久良の方に手を伸ばした。
「たまには雰囲気変えてみるか。リップ選んで」
「うん」
佐久良が迷わず右手に取ったのは、煌びやかな濃藍色の容器だった。
しかしそれを由利に渡すことはせず、差し出された手には左手を乗せた。
狼狽えて開きかけた由利の唇に、佐久良が手ずからチェリーピンクを塗る。
更に由利の腔内に指を咥えさせ、唇の内側に付いた色味を拭った。
その手付きが妙に淫靡で、しかしわざわざ指摘するのも恥ずかしく、由利はまごつきながら鏡を覗き込んだ。
「この色か。ちょっと幼すぎひん?」
「そんなことない。似合う」
「佐久良がそう言うなら」
やがて詰所に夏目、栗栖、相馬、そして子ども達が集まってきた。
もう、怪我人の振りをして道場の隅に座っている必要は無い。
袋竹刀をぶつけ合って子ども達の成長を、目指す剣術の円熟を全身で感じるのは、自分が今ここに生きているということを教えてくれる。
鍛錬を終え、子ども達が次々と帰って行く中、庭の長椅子で由利は筑紫に話していた。
どうしても言わねばならないことがあったのだ。
「Switchはサプレッサーを飲まれへん。
欲求が溜まったら、誰かとプレイするなんて夢を見てまうかもしれんけど、後ろめたく思う必要はない。
多分、脳が夢を見せて身体を守っとるだけや。
やから、その時が来ても本能を認めたってほしい」
自分がSwitchだと最近気付いたばかりの若い少女にはまだあまり実感を伴わない言葉だろうが、筑紫は神妙に聞いてくれていた。
「ほんまはもう少しはよ言うとくべきやってんけど……俺が自分の夢を許せへんかったせいで、隠し事にしてしもた。ごめんな」
「ううん、良えよ」
筑紫の視線は、由利の顔というより、いつもより鮮やかな口元に向いていた。
それから彼女は由利のカラーに目を遣って、大人びた微笑を浮かべる。
「もしかして、由利兄ちゃんの夢って結構叶ってたりする?」
「まあな」
「由利兄ちゃんが佐久良さんと引っ付いてくれて嬉しいな」
「何で?」
「やって、私は由利兄ちゃんのことも佐久良さんのことも好きやもん。
尊敬してる二人が恋人同士になるなんて最高やわ」
「そういうもんか」
「うん! ところでさあ、二人が並んで立ったら由利兄ちゃんの頭のてっぺんが佐久良さんの目線の高さに来るやろ?
それってキスしやすい身長差らしいて。実際どうやった?」
ませた少女が、無邪気に祝うだけで話を終える筈は無かった。
絵に描いたように完璧な恋人と暮らす由利へ、憧れの眼差しが遠慮なく注がれる。
しかし由利は、それに答えてやることが出来なかった。
「どうって言われても……したことないから何とも」
「ゔええ!?」
筑紫の絶叫を聴いて、丁度道場を出て来ていた栗栖と夏目が声を掛けてきた。
「どないしたん」
「由利兄ちゃんと佐久良さんが、まだキスしたことないって!」
筑紫の言葉に、栗栖は吹き出した。
夏目は由利を睨み付けてから、後に続いて道場を出ようとしていた佐久良に振り向いた。
当の佐久良はぽやんとしているが、隣に立つ相馬は呆れ顔で佐久良を見上げていた。
「理由を聞かせてもろてええかな」
由利と佐久良を並んで立たせてから、夏目が問い詰める。
「タイミングが掴めへんかっただけや」
由利は正直に答えた。
色事に疎い由利も、ここ最近は恋人同士だからこそ出来る行為について知識を吸収しつつある。
キスもその一つで、いつかは佐久良にしてみたいと思っていたが、どう切り出せば良いか分からずにいた。
「何や、お互い照れて誘われへんかっただけか~」
にやつく栗栖に、佐久良は頭を振る。
「俺は、由利を傷付けへんように色々調べてるうちに行為の意味すら分からんくなってしもて……キスの文化史とか動物行動学を調べてたら何週間か経っとった」
馬鹿馬鹿しい理由に、夏目達は閉口する。
「何てこと言うねん……」
呟いた由利を、そうだぞ言ってやれ、と皆が心の中で応援する。
「確かに意味分からへんやん……何で付き合い始めた途端に唇くっつける行為が解禁されるんや?」
由利は真顔で佐久良に同調した。
佐久良もこくりと頷く。
「せやろ」
「せやろとちゃう!
そんなもん、取りあえずやってから考えろ!」
夏目は二人の肩を掴んで叱り付けた。
それでも由利と佐久良は疑問を払拭しきれず、苦しげに唸っている。
「頭が切れすぎるのも難儀やなあ」
「ほんまですよ」
栗栖と相馬は苦笑する。
数分前までは御伽噺を聴いているかのように輝いていた筑紫の目は、憐れなものを見る目になっていた。
特異点を離れるのは、あくまでも『少しずつ』だ。
狩りを終え、先に湯浴みを済ませた佐久良は私室の物書きテーブルに向かい、やすりで爪を磨いていた。
由利は今、一人で風呂に入っている。
佐久良としては今日も引っ付いて風呂に入りたかったのだが、暑苦しいから嫌と断られてしまった。
湿度の高い気候を恨みながら爪を見事なショートオバールに整え終えた頃、ひたひたと階段を上って来る音がした。
振り向くより早く、部屋の照明が落とされた。
とはいえ、屋外から差し込むネオンライトのために完全な真っ暗闇というものは生まれない。
由利の姿を克明に捉えるのは容易だった。
百合の花が刺繍されたオーガンジーの打掛ただ一枚を纏っただけという淫靡な格好。
清らかな生地に秘された肌は湯殿の余韻を帯びて艶めかしく赤らみ、顔も仄かに火照っている。
「もう寝るか? それとも……もうちょっと一緒にのんびりする?」
そう言って肩に寄り掛かってくる由利の声は震えていた。
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