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第39話 花楓side  君の前

 湊の無機質な返答だけが、寝室に響き渡る。窓から下を見ると湊が、金城の車に乗り込むのが見えた。  自然と流れてくる涙が、ポタポタと落ちていく。湊がいない時で良かった……涙を止めて、笑うのなんて得意だ。  心を殺してなんでもないフリを、すればいいんだから。無理だ……自分でも驚くくらいに、大きな声が出てしまった。  とにかく今は電話しないと……あのクソ兄が何を吹き込んだのか、知らないと対処のしようがない。 「なんだ、花楓か? 別れたか?」 「ふざけんなよ。何、言いやがった」 「おーこわ、マーキングと同化のことだよ」 「チッ……余計なことを」  俺が怒っているの、分かってるだろ。それなのに、声色ひとつ変えずにふざけたことを抜かしている。  俺は舌打ちをして、爪を噛んでしまう。しかしその後の、言葉に俺は何もいい返すことが出来なかった。 「つーかさ……こんな程度で別れるとか、お前らがその程度だったってことだろ」 「……るさい」 「フッ……身の程を弁えろよ、妾の子が」  そう言って無惨にも、電話は切られてしまう。そして俺は、その場にへたり込んでしまう。  結局どいつもこいつも、俺を見下していたんだ。どこにも俺の居場所なんて、なかったんだ。  花向兄だけは違うって、信じていたのに……そうか、信じていた人に裏切られるって……こんなに、辛くて惨めな思いをするんだな。  俺は立ち上がって、涙が溜まっている目を擦る。冷蔵庫から今日、食べる予定だった蟹を取り出す。  袋に氷を入れてその中に入れて、湊から貰ったキーケースを握りしめる。車に乗り込んで、金城の家に向かって玄関のチャイムを鳴らす。 「社長、湊なら。今風呂に」 「……これ、食べて」 「これ、蟹? あっ、社長!」  金城に袋を渡して俺は、家に戻ってきた。そこで玄関に来て、もう一度泣きじゃくってしまう。  止めようと思っても、頑張ってみても……とめどなく溢れてくる……可笑しい……いつもなら、簡単に止められるのに……。  俺は仕事部屋に行き、机の引き出しからタバコを取り出す。ライターで火をつけて、久しぶりに吸ってみる。 「クソ不味い」  いつの頃からか何か嫌なことがあると、吸っていたな……最近は湊のおかげか、吸わなくて大丈夫だった。  人はそんな簡単には変わらない。リビングに行って適当に、酒を集めてソファに座って飲み始める。  酒って何が美味いんだろうな……俺にはこの美味さが分からない……湊に会いたい……だけど、マーキングや同化のこと知って拒絶したんだ。 「拒絶しないでくれよ」  俺は何も考えたくなくて、ただひたすらに……酒とタバコに手をつけていた。どれぐらいの時間か分からないが、そこらじゅうに酒の空き缶が転がっている。  タバコの匂いが充満していて、鼻が可笑しくなってきた。そんな時だった……玄関のドアが開く音がした。 「あっ……花楓」 「……何しに来たんだよ」 「……謝りたくて」 「お前が俺を拒絶したんだろ」  思っていないことを、口走ってしまう……好きなんだよ。俺はお前が本気で……知らなかったとはいえ、取り返しのつかないことをした。  心から優しい湊でも、今回ばかりは謝っても許してはくれないだろう……逆の立場だったら、絶対に許せないだろ。  クソ兄がどこまで話したか知らないが、相手のことを考えていない行為だったんだ。許してくれないよな……。  湊の顔を見ると、酷く傷ついていた。何やってんだよ……人に散々偉そうに、分かったような口聞いておいて……。  ――――一番最低なのは、俺自身だろ……。  それでも、そんな顔させたいわけじゃない。湊が裾をギュッと握っていて、下を向いている顔を見て心がギュッとした。  俺は何も考えずに、湊を優しく抱きしめた。タバコのせいで湊のあの優しい香りが、しなくて急に不安になってしまう。  俺よりも辛いはずの湊が、俺のことを心配してくれる。やめてよ……君のその優しさが、俺の醜さを露呈させてしまう。 「ごめん、手……痛かったよね」 「……俺こそ、ごめん」 「花楓って、いつも優しいよね。だけど、それって僕のこと信用してないからでしょ」  そう言われてまたもや、何も言い返すことが出来ない。いつもなら、もっとスマートにできるはずなのに。  直ぐに解決案を出して、その場で一番の解決案を導く。妾の子だと言われ、後ろ指を刺されても……。  誰に何を言われても、俺はいつも自分の心を押し殺してきた。だから慣れているはずだろ……なのに、なんで……。  ――――君の前だと、それが出来ないんだ。  そんなの分かりきっているじゃないか……俺が思っているよりも、俺は君のことが好きなんだよ。  嫌われたくない、失望されたくない。君だけには、絶対にしてほしくない。何を言われても平気だった。  君にだけは分かって欲しいんだ。俺の勝手な自己満足だったとしても、それで君が離れていってしまっても……。 「マーキングのこと、聞いたんだろ」 「うん、同化のことも……なんで、教えてくれなかったの」 「信用してないとかじゃなくて、湊に嫌われるのが……怖かったんだ」  それから俺は今までのことを、全て話した。誰にも言えずに、心に溜め込んでいたものを。  俺の話を湊は優しい瞳で聞いてくれた。優しいよ、君は本当に……誰にも渡したくない…。  好きだ、大好きだ……愛してる……俺は静かに目を見て、ソファに座るように促すと座ってくれた。 「座ろうか……」 「うん……あの、花楓……」  俺たちはソファに身を寄せ合って座った。そして湊の膝に頭を乗っけて、もう一つ大事なことを伝える。 「あの時、俺は人生に絶望していた。全てを放棄して、人生を終わりにしたかった」 「……そこまでだったの」 「ああ、でもその時に出会ったんだ。天使のような笑顔に」  って言ってもあの時、話したわけでもない。俺が勝手に好きになって、勝手に暴走していただけ。  それだけのこと、そう思っていた。でも湊の言葉は、俺が思っていたこととは違っていた。 「顔は覚えてないけど、匂いは覚えてたよ。柑橘系のいい匂い」 「覚えててくれたんだ……嬉しい」 「名前も名乗らずに、行ってしまったから。なんとなくだけど」 「あー、中学の俺にはそこまで考えれなかったから」  あの時は中学生の俺には、何も出来ないと思ってしまった。今思えば、それでも名前ぐらいは伝えるべきだったんだ。  そうしたらもう少し、早く湊と仲良くなれたかもしれない。湊が傷ついている時に、傍で支えられたはずだ。  でもそんなこと、今更思っても過去は変えることは出来ない。それならこれから出来ることを、精一杯考えて行くしかないんだ。  ――――俺と湊の二人で、乗り越えていくんだ。  でも今くらいは、甘えてもいいよな。膝枕している状態で、腰に抱きつくと頭を撫でてくれた。 「嫌わないで……俺のこと、一人にしないで」 「うん、もちろんだよ」  俺は立ち上がって、湊の目を見て軽く触れるだけのキスをする。タバコの香りのほかに、湊の太陽のような陽だまりの匂いがした。  それだけで俺の不安で、押し潰されそうな心が晴れていく。優しく微笑んでくれて、俺はますます湊のことを好きになった。

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