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第1話
薄暗い細道を、冷たい空気に包まれながら力なく歩く椿冬心 。
欠けた月が放つ淡い月明かりの下でも、その端正で美しい顔はひときわ映えていた。
丸く大きな薄茶色の瞳は神秘的で、長く豊かな睫毛が柔らかくカールしている。高く凛とした鼻筋に、薔薇色のぷっくりとした唇は、ほのかに妖艶な色気を漂わせる。
雪のように純白で、磁器のような艶を持つ肌。
栗皮色の艶やかなショートヘアが、さらりと揺れていた。
冬心の全身は、優雅なオーラをまとって静かに輝いている。
オメガらしい線の細いスリムな体からは、ほのかに甘い薔薇のフェロモンが漂っていた。
オメガとしては珍しい177センチの高身長で、蒼白く儚げに見えるが――実は体育が得意で、芯の強い健康的な青年。
書店でのアルバイトを終え、一人で考え事をしながら歩くこのぐねぐねと曲がりくねった細道が、冬心は何よりも好きだった。駅やマンション、店舗が立ち並ぶ中心地から離れて、約20分歩く。その道をさらに進み、ぐねぐねとした坂道を10分ほど上ると、アイボリー色の5階建て公営アパートが姿を現す。そこは、低所得者向けの住宅だった。
愛しくて大好きな、80歳になる祖母が待っている我が家。
疲れで沈んでいた小さな顔が、パアッと明るく微笑む。
2LDKに小さな風呂とキッチン、そして居間がある。
5年前に建てられたそのアパートは、二人で暮らすには十分な広さと、清潔で美しい佇まいを備えていた。
「ただいま……」 足音を忍ばせて祖母の部屋を覗くと、しわだらけの穏やかな寝顔があった。その安らかな表情を見た瞬間、冬心の心は解きほぐされていく。
ドアをそっと閉めてから鞄を自分の部屋に置き、風呂場に向かう。
温かいシャワーを浴びて、鈴木先生からいただいたオメガ専用クリームを全身に丁寧に塗った。
居間には、鈴木先生からいただいた二人用の茶色いレザーソファと、木製の茶色いテーブルだけが置かれている。小さな祖母の部屋には、先生から贈られた小さなテレビと介護用ベッドが静かに並ぶ。
白く清潔感のあるキッチンに入り、冷蔵庫を確認した冬心は、ふっと安堵の息をついた。
今朝作っておいた牛肉のお粥やナムルが、すべてなくなっている。
祖母がちゃんと食べてくれた証――そのことが嬉しくて、思わず鼻歌までこぼれた。
ベージュ色の壁紙に、茶色の無地カーテン。
綺麗な木製のベッドには、ベージュ色の水玉模様の布団が、皺ひとつなくすっきりと敷かれている。隣には木製の茶色い机と本棚があり、整然とぎっしりと本が並んでいる。
冬心の部屋の家具も、やはり鈴木先生からいただいたものだ。
並ぶ本の多くは両親の遺品で、ときに鈴木先生から贈られたものも混ざっている。
倹約家だった両親だったが、本だけは不思議なほど豊かだった。
医学、科学、文学、天文学、スピリチュアル……ジャンルも多岐にわたり、その多様性は冬心の知的な創造性を育んだのだった。押し入れ式のクローゼットには、鈴木先生の娘さんからいただいた綺麗な洋服と、上品な鞄がきちんと整えられて並んでいる。
綺麗に整理された机の上に置かれた額縁には、事故で亡くなった両親と、今よりもずっと若く健康だった祖母に抱っこされている、幼いころの冬心が写っている。
それは冬心が大切にしている、かけがえのない宝物だ。
この家で飾られているものは数えるほどしかない。
そのひとつがこの写真で、ほかには、小・中・高校生時代に全国美術大会で三度も優勝した野生の花の水彩画、祖母の肖像画、そして宇宙を描いた抽象画。
それらが、この家にあるすべての飾り物だ。
来訪者がこの家に入ると、祖母はいつも絵の前に立ち、誇らしげに指を差して言うのだった。
「この子は天才なのよ。ほら、こんなに絵が上手で、賞も取ったんだから」と。
冬心は椅子に腰掛け、大学の課題に取り掛かった。没頭するうちに、時計の針は深夜2時を回る。 「……よし」 机を片付け、ベッドに潜り込む。冬心の充実した一日が、静かに幕を下ろした。
朝6時。アラームの音が静かに響き、冬心はゆっくりと起き上がる。
風呂場に向かい、顔を洗い、歯を磨く。そのあと、オメガ専用のクリームを顔全体に、丁寧にムラなく塗り広げた。一日の始まりに、心と身体を整えるささやかな儀式のようだった。
冬心はキッチンに移り、冷蔵庫からいんげん豆、玉ねぎ、人参、カボチャ、じゃがいも、豆腐、そして豚肉を取り出す。丁寧に下ごしらえをしながら、祖母の好みに合わせて豚汁を作っていく。手際よく、祖母が好きなもやしのナムルも作り上げた。
丸く白い食卓に朝食を並べ終わると、ちょうどそのタイミングで祖母がドアを開けて部屋から出てきた。
「ほら、私が作りたかったのに……ごめんね」
「いいえ。料理は楽しいし、全然無理してないから。おばあちゃん、胃もたれはよくなった? 病院には行かなくても大丈夫? 腰はどう?」
「あぁ、もうスッキリしたよ。心配かけてごめんね。そろそろ、オメガ支援施設にも行けるように頑張らなくちゃね」
「え、まだ続けるの? 無理しないほうがいいって、先生にも言われたでしょ」
食卓に座り、スプーンを手に取った祖母が笑顔で言った。
「あぁ~、豚汁、美味しいね。体の隅々まで染み渡るわ。……でもね、年を取っても働き口があるってありがたいことなのよ。家でひとりテレビを見てるより、外に出て人と話したり、体を動かすほうがずっと楽しいし。お金も入るし、一石三鳥ね」
「僕、バイトしてるし、成績優秀者奨学金ももらってるから。無理はしないでね、おばあちゃん」
「うんうん。このナムルもしゃきしゃきして、美味しいわ。冬心も、早く食べなさいね」
祖母が元気そうな様子にほっと胸をなで下ろした冬心は、食卓の片付けを終えると大学へ向かうため玄関へと足を運ぶ。5階から1階までエレベーターで降りた。
新しく建てられた公営アパートには、こうした設備も整っていて――冬心はその便利さに、静かに満足していた。
1、2限の授業が終わると、講義室は学生たちのざわめきとともに賑やかに空になっていく。
冬心は鞄を手に持ち、静かにトイレへ向かった。そこはオメガ専用のトイレだ。
世界的にも、日本国内でも優秀な人材しか入学できないピース大学の名門校。稀少なオメガも在籍しているだけあって、設備は非常に充実している。専用トイレもそのひとつだった。
トイレで丁寧に手を洗った冬心は、1階にあるカフェテリアへ向かう。
多くの学生は学生食堂へ流れていくが、金銭に慎重な冬心は無料のコーヒーを目当てに、暖かな日差しが差し込む窓辺の席に腰を下ろした。
無料のアメリカーノを手に取り、鞄から消毒用のウェットティッシュと弁当箱を取り出す。
カフェテリアには、静かな雨音のようなジャズが流れ、学生たちはそれぞれ一人でコーヒーを飲んだり、本を読んだりしている。
ピース大学は規模が大きく、各学部の建物にはカフェテリアや食堂、保健室、図書館などが揃い、設備も申し分ない。
冬心はナムル、キムチ、じゃこの炒め物、卵巻き、そして雑穀米を頬張りながら、静かに食事を楽しむ。
大学に入るまでは、冬心はいつも人々の熱い視線を浴びていた。
美しく、すらりとした容姿が人々の目を引き、心を惹きつけていたからだ。
けれど、ここは優秀な人材ばかりが集まる大学。
入学当初こそちらほら視線を感じていたが、今では誰もが自分のことで精一杯で、冬心の存在にも慣れ、気にする様子はない。冬心にとって大学は居心地がよく、学びも楽しくて、心から好きだと思える場所になっていた。
高校時代の不運な出来事が原因で、冬心は今も強迫性不安障害による潔癖症を抱えている。
当時、大きな支えとなってくれたのが鈴木美知子先生だった。
今も親しくしている彼女は、稀少な女性の優性オメガであり、形質研究の第一人者として活躍する、優秀な50代の医師である。
ゆっくりと昼食を終えると、冬心は消毒用ウェットティッシュで手と口元を丁寧に拭き、静かにコーヒーを啜った。その後、空になった弁当箱を鞄にしまい、手を洗うためにトイレへ向かう。まだ30分ほど時間が余っているため、冬心は図書館へ足を運び、本を読むことにした。
3、4、5時限の授業が終わると、冬心はバイト先であるピース書店へ向かう。
「じゃあね、冬心」
「うん、じゃあね。愛子ちゃん」
愛子は入学式で初めて出会って以来、今でも仲の良い友人だ。
入学式の日、愛子が「写真を撮ってください」と声をかけてきたのがきっかけで、二人は親しくなった。
彼女はベータで英米文学を専攻しており、仏文学科の冬心とは共通の教養科目で時折顔を合わせる。身長161センチのぽっちゃり体型で、明るくて可愛らしい愛子には、すでに彼氏ができていた。薔薇色に染まったホヤホヤのキャンパスライフを、彼と一緒に満喫している。
毎週水曜日と木曜日、そして金曜日は愛子が彼氏と食事に行く日だ。
そのため冬心は今日も一人でランチを取った。
これまで何度か誘われて3人で一緒に食事をしたこともあるが、気を使わせたくないと思った冬心は、さりげなく理由をつけて一人で食べるようになった。二人の時間を邪魔したくないという気持ちもあるし、何より一人で過ごす方が気楽で、のんびりできるからだ。
愛子の彼氏は同じ英米文学科の先輩で、背が高くてがっしりした体格に、穏やかな雰囲気が漂う人物だ。何度か彼から「友達を紹介しようか」と言われたこともあったが、そのたび冬心は誠実に、そして真面目に断ってきた。
ピース書店は、日本国内はもちろん世界中に展開する大手チェーン書店であり、ピースデパートの7階に店舗を構えている。取り扱う書籍のジャンルも幅広く、スピリチュアルから漫画まで豊富に揃い、店長の話では蔵書数はおよそ200万冊にのぼるという。寛ぎの読書スペースや、美味しいコーヒーを味わえるお洒落なカフェも併設されており、いつも様々な人々で賑わっている。
在庫確認と出庫作業を担当している冬心は、ユニフォームに着替えた後、書店の裏側にある倉庫へ向かって作業に取りかかる。
平日の夜7時から10時までの短い時間ではあるが、冬心はピース大学の優等生で成績優秀者奨学金の受給者ということで、特別に雇われている。時給は2000円と高く、冬心が作成する本の見出しは評判がよく、毎月1冊の本がプレゼントされる特典もある。
週末は朝10時から夕方5時まで勤務している。
今日も変わらず一生懸命に働く冬心。
その姿を、ひっそりと見守る人がいる――店長の高橋幸雄だ。
初めて本部から冬心の履歴書が届いたとき、写真に映る端正な顔立ちに、高橋は思わず「カウンターに立たせたら騒ぎになるのでは」と心配し、裏方である倉庫作業を担当させることに決めた。
実際に会ってみると、真面目で純粋な青年だと感じた。
もちろん初対面の瞬間はその美貌に息を呑み、思考が一瞬止まりかけたが、大人としての理性で高橋はすぐに自分を取り戻した。地味で静かに仕事に励む冬心は、誠実で素晴らしい青年だと高橋は思っている。
しかし、本部の常務の秘書・橘が直接連絡をしてきて冬心を採用するよう指示してきたことについて、高橋の疑問は次第に膨らんでいくばかりだった。
夜10時、別れの音楽が流れ始めると、書店は戸締まりの準備に入る。
パソコンでのデータ入力を終えた冬心は従業員室に向かい、制服から私服に着替えたあと、トイレに立ち寄った。その後、仲間たちに「お疲れさまでした」と挨拶をしてから、大きなマスクをつけて、デパートの裏側の従業員出口をくぐり抜ける。
デパート前のひばりヶ丘駅から副都心緑線に乗り、10分ほど走ると星空駅に到着する。
星空駅から徒歩でおよそ30分の場所に、冬心が暮らす『銀河水公営アパート』がある。
駅周辺には交番や複数の防犯カメラが設置されており、パトロール中の警察官も頻繁に目に入る。
この周辺は『星空町』と呼ばれ、希少なオメガたちが集まって暮らす地域であるため、国が保安・防犯対策に特に力を入れている。冬心がこの公営アパートに入居できたのも、鈴木先生の推薦書によるものだった。
5階の窓から明かりが漏れている。
「おばあちゃん、まだ起きているんだな」と思いながら、冬心は足早に家へ向かった。
玄関を開けると、すぐに祖母の声が聞こえてきた。
「冬心? おかえり。ご飯は食べたの?」
「ただいま。今日のお昼はお弁当で、夜は書店でサラダを軽く食べたよ。おばあちゃん、体の具合はどう?」
「うん、大丈夫。腰も痛くないから、来週からはオメガ支援施設にまたバイトに行けそうだよ。ふふふ」
「無理しないでくださいね。夕飯は……?」
「うん、食べたよ。冷ご飯を豚汁に入れて食べたら絶品だったわ。冬心、料理人になったらきっと成功すると思うよ。まあ、画家でもいけるね。ばあちゃんはね、冬心のこと、いつも応援してるよ」
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土曜日の朝6時、冬心は熱心に朝食のカレー作りに取り組んでいた。
「ご飯、できたよ」
「うん、いい匂いね。もっとゆっくり寝ていてもいいのに。掃除はばあちゃんがやるからね」
「せっかくの週末だし、掃除も僕に任せてください」
朝食を終えた冬心は、皿洗いと片付けを済ませ、祖母を部屋に休ませてから、居間の大きな窓とキッチンの小さな窓を開けた。掃除機をかけた後、水雑巾で床を丁寧に拭いていく。
それから自分の部屋へ移り、窓を開けて換気しながら、本棚や机、ベッドなどを水雑巾で隅々まで拭き取った。
まるで、過去の辛い記憶――自分の“黒歴史”を消し去りたいという、静かな執念が感じられるようだった。
11月になり肌寒くなってきたが、冬心は掃除を欠かすことがない。
祖母も冬心の潔癖症を気遣い、彼が心地よく暮らせるよう、日々掃除に力を入れている。
冬の季節でも、日差しのある日は欠かさず布団を干すのだ。
祖母が部屋から出てきたのを見て、冬心は微笑んだ。
「おばあちゃん、ここはもう掃除が終わったから、次はおばあちゃんの部屋をやりますね」
冬心は居間の大きな窓を閉めて、ボイラーをつける。
掃除機を手に取り、祖母の部屋の掃除に取りかかった。
1時間以上の掃除を終えた冬心は、洗い終えた洗濯物を乾かすため、ベランダに干す。
今朝は大掃除にかなり時間を費やしたため、星空駅まではバスで行くことに決めた。
週末はいつも忙しく、時間に追われてしまうのだ。
ピース書店に到着した冬心は、「おはようございます」と丁寧に挨拶してから、職員室へ向かった。今日もがむしゃらに働き、午後1時の昼休みになると、書店併設のカフェへ寄った。
そこで販売されているサラダボウル、パン、飲料を無料で受け取れるからだ。
職員特典として食費がかからないのは、冬心にとって本当にありがたいことだ。
サラダボウルとアメリカーノを手にした冬心は、デパート裏側の従業員休憩室へと向かった。
ピースデパートは、従業員の満足度を高めるために、福祉制度の充実に力を尽くしている。
その取り組みの一環として、従業員休憩室はとても清潔で美しく整えられており、大きな窓を開け放てば心地よい風が入り、居心地も抜群だ。
室内にはふわふわとしたお洒落なソファが複数並び、少し開いた窓から柔らかな日差しと新鮮な空気が流れ込んでいた。
穏やかで暖かい雰囲気の中、従業員たちはゆったりとした時間を過ごし、リラックスして休息を取っている。休憩室に入ると、周囲の従業員たちがちらちらと冬心に視線を送ってくる。
それは悪意のあるものではなく、ただ「綺麗だなぁ」と見とれてしまうような、羨ましげな眼差しだった。
冬心は、静かに流れるピアノの甘い旋律に耳を傾けながら、ゆっくりとサラダボウルを口に運ぶ。スマホでニュースを眺めていたそのとき、愛子からラインが届いた。
<冬心、バイト。
私、彼の部活の付き合いで大学来たよ。
ねえー、いま、日本文学科の掲示板に全国大学生文芸創作コンテストってチラシ、
貼ってたけど、
うちのピース財団主催だってね。賞金が100万円だよ。
優秀賞が100万円で、特別賞が50万円で原稿用紙100枚までの短編だって。
これ、2年に1回開催される有名なコンテストだって。
わー、うける。
私、やるからね。
冬心も挑戦したら、 あぁー彼、呼んでるわ。
行かなくちゃ。
チラシ、写真撮って送ってやる!
じゃね! 来週また会おう!>
冬心は、愛子がすぐに送ってくれたコンテストのチラシの写真をじっくりと読み込んだ。
応募要項をじっと見つめる冬心の、薄茶色の綺麗な瞳。
その奥で、神秘的な光がキラリと輝いた。
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