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第8話
冬心の本、『黒と白noir et blanc』が初めてフランスで4月4日に発売されてから1か月がたった5月上旬には累計売上が200万部を突破した。驚異的な販売で担当のモンターニュ・ブルー出版社はほくほくして増刷に力を注いでいる。5月5日にはとうとう日本でも刊行された。冬心は日本語、韓国語、中国語、英語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、ドイツ語、ロシア語、アラビア語を本人が翻訳することにして、本の表紙も自分で自画像をジオメトリック的にデザインした。
ジャンダ教授の紹介で冬心の本は光出版社が著作権、出版権、翻訳権を持っているため、光出版社が海外出版社と交渉し、海外刊行も締結してくれている。4月のフランスを始め、5月は日本、6月は韓国、7月は中国、8月は英語圏など次から次へと出版される予定でいる。冬心は学校の勉強の傍ら翻訳の仕事に没頭する多忙な日々を過ごしている。
冬心は5月上旬までの計算として印税12%でフランスの税金を抜いた約3億4千万円くらいの収入が入ってきた。光出版社の編集長の望月さんから連絡をもらってインターネットバンキングで確認したら、想像もしなかった巨額を見て肝を潰した。冬心は昨年休戦になったパレスチナのガザ地区の援助のために国境なき医師団(MSF)日本に全額を寄付して感謝状ももらった。マスコミは冬心を善良なる天使だと讃えて絶讃した。冬心は寄付前に祖母に相談して、祖母も快く理解してくれたので気持ちよく寄付した。
20歳までたくさんの人々に支えられて生きられてきたので、その恩返しがしたく、7万人以上の犠牲者が出たガザ地区向けの人道援助が必要な時世に沿って、寄付を決めたのだ。テレビ局や新聞社からたくさんのインタビュー要請があったが、全部断った。世界の冬心のファンたちは静かにパリで勉強に集中したいという冬心の素朴な希望を尊重して静かに見守るサイレント応援活動がSNSでバズっている。
冬心は3月5日にパリに着いた時からツイッターとユーチューブを始めて、パリの日常生活を思い出として記録している。ツイッターには短歌をフランス語、英語、日本語で発信していて、ユーチューブでは日々の生活の動画を撮って編集し、週に1回アップロードしている。おばあさん、ジャンダ教授、愛子ちゃん、鈴木先生、ソフィアさん、エミリなどの知り合いから登録してくれたSNSが、冬心作家かもしれないという噂が4月頃には巷で広がり、たくさんの質問もコメント欄に書かれていたが、冬心は気にせず、学校生活やソフィアさんの家の私生活、パリの美術館や町風景などを記録して発信している。
ソフィアさんは子供たちの顔を見えないように修正してくれるなら、家の中を撮ってもいいと許可してくれた。3月末にブーゴー新人作家賞委員会の招待でマルセイユのブーゴー記念館で受賞記念写真を撮り、フランス文壇の巨匠たちとティータイムを楽しく過ごした。それを動画で撮って発信したため、ユーザーネーム、『camellia』が日本語で椿という意味だから、世界で唯一無二の極優性オメガ椿冬心だと確信したファンたちで噂が広がった。
それで、7月初になったら、ツイッターのフォロワー数は700万人、ユーチューブは登録者が2200万人を超え、膨大な収入も入って、たくさんの会社から広報などの仕事の依頼も増えた。冬心は予想以上の大衆の反応に気にせず、黙々と自分の日常生活を記録している。
その一方で天命は5月5日木曜日の祝日に約束通り、小泉京香と月道神社で結婚式を挙げた。結婚式後、京香はひのき坂にある天命のピースタワーマンションに入って同居し始めた。天命の仕事と京香の公演のスケジュールが合わず、新婚旅行は諦めて冬休みに延ばすことにした。
天命は仕事中毒で遅く帰宅する日が多く、お互いにゆっくり話す時間はなかったけれど、セックスだけは欠かさず毎日強請るので京香は体力的に疲れてしまった。天命は子供が早くほしいからと言って、セックス中、ノッティングを必ずやって京香は体が持たないのだ。京香は公演がある日には天命の誘いを断った。天命も断れたら無理やりには誘わなかった。夫婦の仲は一般の夫婦のように普通で穏やかに見える。だが、京香は本能的に天命が自分を愛してはいないかもという疑問を抱き始める。時折見せる天命の哀愁に籠る虚しい瞳で、京香はこの世の中に独りで取り残されたような心悲しい心境になる。
新緑の美しい水無月に入り、パリは燦々と照らしている柔らかい日差しで陽気に溶けていた。冬心はフランス頽廃文学の官能美的な歴史考察という論文を完成させた。膨大な事例のために、夜遅くまで学校の図書館で籠り、熱心に調査して170ページも書いたのだ。2週間後からは夏休みにはいる。学校の校庭の芝生には快晴の日向ぼっこを楽しむ学生たちで溢れていた。フランス大衆文学論の2限目の受講が終わり、エミリと一緒に1階の人文学部の食堂に行く。
「こっちだよ。冬心、エミリ」
笑顔で手招きするジャンが先について席を取っていた。ジャンは理学部棟で人文学部棟から歩いて15分も離れているが、木曜日は3時限目が空いているので、冬心とランチをするために、わざわざ人文学部棟の学生食堂まで来るのだ。ジャンと冬心は4月末にシャンゼリゼ通りのパラディシネマで会った以後、すごく仲良くなって、毎日ラインのやり取りをしたり、週に2、3回は会ってご飯を食べたり、美術館に行ったり、散歩を楽しんだりしている。
冬心はカリフラワーのフレンチサラダの前菜としいたけやマッシュルームのテリーヌのメイン、そしてスイカのデザートを選んだ。ジャンはアボカドとサーモンのタルタルの前菜とカスレのメインとスイカのデザートを選んで、エミリはオレンジとにんじんのラペの前菜と白身魚のポワレのメインとスイカのデザートを選んだ。
学生食堂は安くて美味しいからいつも混んでいる。3人は料理のトレイを持って席に戻って食べながら話の花を咲かせる。
「冬心、夏休みに日本へ行って来たら、ヨーロッパ旅行は疲れないかな」
アボカドとサーモンのタルタルを口に運びながら、ジャンが訊いてくる。
「うん、一週間くらい行ってくるから、大丈夫だと思う」
冬心が甘酸っぱいフレンチドレッシングで和えられたカリフラワーを噛みながら言った。
「イタリア、スペイン、ポルトガル、スイス、ドイツ、ベルギー、オランダ、デンマークを列車で回るって相当な体力が必要だね。二人、マジで本気なの。それで、何日から何日までの旅なの。以前、聞いたけれど忘れちゃった」
エミリがオレンジとにんじんのラペをフォークで取りながら言った。
「18日の月曜日に東京出発で25日の月曜日にパリへ戻ってくる。そして、ヨーロッパ列車旅行は27日の水曜日の出発で8月28日の日曜日にパリに戻ってくる予定なの。一つの国につき4日間滞在するからそんなに大変だとは思わないけど、せっかくパリで暮らすので色んな国へ行ってみたいし、挑戦するのも楽しいから」
冬心が頭の中で予定をざっと洗い出して水を飲みながら静かに言った。
「では、二人は付き合ってるってことなの。一緒に旅するから、一緒に寝るんでしょね」
エミリはいたずらそうな目つきで意味深長な笑みを浮かべた。
「ゴホゴホ。。。そんなことな~ん。ゴホゴホ」
水を飲んでいた冬心はエミリの途方もない話に突然むせて咳込んで、声がかすれ出た。
「冬心。大丈夫。水をもっと飲んでみぃ。エミリ、お前、本当にいかれてんの。冬心は親友だぞ。一緒に寝たりはするけど、一緒に寝るってっつがエッチのことではないからな。まっぴらごめんだな、下ネタかよ」
ジャンはタルタルソースに絡まったサーモンをぺろりと食べながら、語勢を強くして言った。
「もう、3か月も会っているから、脈ありかなと思ったよ。二人すごく意気投合してるし、よく似合うし、ジャンも元カノと別れてもう半年になるんじゃ。さぁ、そろそろいいかなと感じたっだけよ」
エミリは笑みを口角に浮かべながらフォークを舐める。
「経費を節約するため、一緒に使う部屋を予約している国もある。けど、そんな風に考えたことないから唐突な話でドン引きしちゃった。まだ、翻訳の仕事もあるから旅行しながら翻訳もしなくちゃ。8か国も回るから手荷物をできるだけ軽くしたい。知らないところへ行くってワクワクしちゃうね」
雰囲気を変えようとする冬心の話に合わせて平常心を取り戻したジャンも言い出す。
「俺、今まで色んな国へ行ったけど、7,8月は暑くてや~ばい~す。でも、冬心と一緒ならへちゃらだ。楽しみだな」
ジャンが爽快に笑って言った。
「ね、冬心は今まで付き合ったことないよね。天然記念物だね。ジャンは今までちょこちょこよく付き合ってきたの。もう、いつも友達から始まって、いつの間にか付き合うっていうか、友達が自然に彼女になっちゃったからね。幼稚園児の時から幼馴染と付き合って結婚する、とうかなんか言ってたわ。小学校、中学校、高校でも自然の流れのように付き合って自然と離別しちゃったね。理由はジャンの無関心で疎遠になっちゃったみたいで、大学ではベラと長く付き合ったけど、あ、ベラってのは元カノで、ジャンと同じ学部で友達だったけど、2年生から付き合い始めたのよ。2年近く付き合って、ベラがジャンの無関心で堪えきれず、別な人が好きになっちゃったと言って別れてしまったのよ。でも、ジャンも勉強に没頭したので、快く別れたね。今は普通の友達になってるけど」
エミリのジャンの恋愛話に恥ずかしくなったジャンがエミリの話を遮った。
「もう、過ぎたくだらない話はやめ、ルカスとはノルウェーに行くんでしょ。ガイランゲルフィヨルドやトロルトゥンガやムンク美術館はお勧めだからぜひ、行ってごらん。8月なら気候もいいし、歩き回るのもちょうどいいかも」
ジャンはカスレをスプーンですくってから言った。
「分かってる。ルカスはノルウェーは4回目だって。旅行は全部ルカスに任せてるの。楽しみ。私だけ絶好調かよ。灯台元暗しって言うんじゃん。客観的に見れば、二人はもう付き合っているみたいだよ。毎日ラインで連絡するし、週に2,3回は必ず会って食事や散歩もするし、時々、ジャンが冬心を誘って友達集まりに連れて行くし、上辺では恋人と言わないだけで中身は普通のカップルみたいに付き合っているんじゃないか」
図星を突くエミリの話で冬心が漠然とした。
「親友だから、いいでしょ。友達も冬心に会いたいというから連れて行ったよ。冬心も結構溶け込んで楽しんだからな。冬心がパリにいる間には楽しい思い出をいっぱい作ってほしいんだ。勉強や本の出版で忙しいけど、フランスの魅力を堪能してほしい。まぁ、別荘があるコート・ダジュールは来年行こうぜ。リモデリングするって知らなかった。ごめん」
ジャンの話を静かに聞いていた冬心が瞼を伏せながら丸い声を出す。
「大丈夫だよ。気にしないでね。でも、お母さんが17日、日曜日の展覧会で招待してくださって感謝している。本当にありがとう」
「母ちゃんに冬心と友達だと言ったら、ビックリ仰天してった、本を読んで感心したから会いたいっと言われて、ヨーロッパ列車旅行も一緒に行くことにしたと言ったら、母ちゃんの顔、固まったぞ、それで、17日展覧会に冬心も一緒に来たら嬉しいってさぁ。まぁ、2か月間の展示だから時間は余裕だけれどさぁ、日曜日の夜、一緒に食事したいってね、18日東京出発なのに、こっちがごめんな。疲れたらディナーは断ってもいいから。気楽に言ってくれ」
ジャンが悠長な表情で優しい含み声で言った。
「私、本当に嬉しいの。ジャンもエミリもいつも親切でいろいろ助けてくれてるし、本当に感謝してるの。ジャンからお母さんの展示会に来られるかと聞かれてとても嬉しかった。絵画、大好きだし、この間、ジャンとルーブル美術館やオルセー美術館やオランジュリー美術館に行った時もウキウキしててとっても楽しかった。それに、ジャンのお母さんが画家だって聞いて会いたかったよ。ありがとう」
冬心が頬をバラ色に染めながら柔らかい口調で言った。三人はヨーロッパ列車旅行に関して喋り、笑い、楽しいランチタイムを味わっている。
7月17日日曜日の陽光が眩しい午後12時、冬心はジャンと18区のモンマルトル駅で会い、ジャンが予約しておいたカフェ デ ドゥー ムーランに入って、カプチーノ2つ、クレームブリュレ2つと野菜たっぷりのサラダ・ジェオン1つを注文する。昨日までの期末試験が終わり、もう夏休みに入った。ジャンは誰もが冬心を見ているので、ムッとして不愉快だったが、そろそろ冬心を凝視する人々の興味深い視線には、慣れなくちゃならないと思い直した。
日差しが強くて暑いのに、冬心は白の長袖リネンシャツにライトブルーのストレートデニム、白のキャップ、白のスニーカーを履いていて、お洒落なパリジャンに見える。ジャンは冬心の期末試験の舞台芸術論の評論作文について聞きながら、冬心の奇麗な顔を見つめていて、幸せな気持ちに没入している。
美味しいランチを終えた二人はモンマルトル町のアートギャラリーを見回っている。冬心は明日の東京出発に向けて荷物は纒っておいたが、お土産でよさそうな物を探していた。おばあさん、ジャンダ教授、鈴木先生、宇宙学長と奥様、齋藤助教、他の教授たち、高校の恩師たち、愛子ちゃんと彼氏の佐藤先輩、ピース書店の高橋店長、加奈ちゃんと他のスタッフたち、光出版社の望月編集長とスタッフたち等々、いろいろとローゼデパートで既に買っておいたが、もっといいものがないかなと思い、アートギャラリーや雑貨店を見回っていた。特徴的で印象的なニュアンスの絵画が多く、強く心に刻みつけられる没入感を楽しんで、冬心は絵画の栞や絵葉書を複数買った。
真夏の7月のパリは街中に花や緑が溢れていて、とても美しい花々がどこでも気持ちよく笑って咲き乱れていた。時間が午後4時30分になり、冬心とジャンは花屋さんに寄って白のユリ、白のクチナシ、ピンクの薔薇、ピンクのダリアをかすみ草で包んだ大きな花束を買って、ジャンの母のアートギャラリー『アンジュ』に向かう。
結構な人々で賑やかなアートギャラリーアンジュに入ると、背丈が高くて痩せた黄土色の長いヘアをサラサラ揺らしながらジャンと冬心に近寄ってくるジャンの母、エリザベート・ローランサンが笑顔で迎えてくれる。
「ようこそ。ジャンの母、エリザベート・ローランサンです。いつもジャンとエミリがお世話になっております」
優雅なブラックのレース切替ビスチェ風パフスリーブフレアドレスをお洒落に着こなしたエリザベートが挨拶した。
「初めまして。今回、招待していただきましてありがとうございます。こちらこそよろしくお願いします。これ、ほんの気持ちばかりの品で恐縮ですが、どうぞお受け取りください」
上品で大人レディなジャンの母の優しい眼差しを見つめて、冬心は高雅な花束を渡す。
「ありがとうございます。本当に奇麗な花々ですね。あぁ~いい香りですわ」
エリザベートは顔満々に笑顔を表して大喜びした。
「母ちゃん、俺たち、ちょっと見回ってもいい。人、混んでるから早く見なくちゃ。では」
ジャンと冬心はエリザベートに会釈して回廊を進んで歩く。エリザベートの絵画は童話的で幻想的な独自の審美眼で柔らかい彩色と優しい雰囲気を含んでいた。パリのエミリという児童書シリーズが大人気で、国際児童文学賞も受賞した経歴のある有名な画家であり、児童文学作家でもあった。パリのエミリは自分の娘をモチーフとしたとパンフレットの説明に書いてあった。
冬心は本の表紙を飾っている幼いエミリが親友のエミリとそっくりだと思われ、親しみを感じた。ジャンと冬心が念入りに鑑賞を楽しみ終えた頃に、エリザベートの妹、ニキ・ローランサンが画廊に顔を出した。ニキ・ローランサンは文学評論家として活躍していて、冬心が来るって知ってて再びアートギャラリーアンジュに足を運んで会いに来たのだ。
「叔母さん、先週来たんじゃないか。また来たの?」
ジャンが元気な声で先に声をかけた。
「うん、初めまして。私、ジャンの叔母、ニキ・ローランサンです。私もアーラン教授の弟子で、文学評論家をしています。黒と白noir et blancを読んでとても感心しました。本当に傑作です。中世ヨーロッパの理屈な情勢とキャラクターの心情の綿密な描写が名筆でした。4冊もある長編を高校生の頃にフランス語で書かれたって凄いですね。噂はブーゴー新人作家賞受賞以前から聞いておりました。アーラン教授は今まで会ったことのない偉大な天才がいるって称賛しましたよ。今日、直接出会えて光栄です」
ふくよかな体であどけない少女のようなニキは目をキラキラ輝かせて喜びを全体で照らしていた。
「初めまして。私も出会えて嬉しいです。本をよく評価してくださり、ありがとうございます」
冬心の美しい顔で見とれていたニキは、フランス人よりも奇麗な発音で話す冬心の奇麗な声にうっとりした。3人は画廊を出て、エリザベートの車に乗って、パリ7区の素晴らしい外観を誇るエッフェル塔が見える、グロ・カイユと呼ばれているパリで1番治安の良い高級地区に入る。オスマン様式の建物の魅力を引き立てている優雅なアパートの3階に入ったら、ジャンの祖母と父親が既に美味しい料理を準備しておいて、嬉しく迎えてくれた。
ジャンの父、クロード・ロレンスは劣性アルファの音楽プロデューサーで、フランスの芸術界では超有名な音楽家だ。ザース、シルビー、ゴールドマンなど、有名な大手歌手をプロデュースしたり、シェルブールルの雨傘や愛の悲しみのボレロなどの映画やミュージカルの音楽も作って、ヴィクトワール・ドゥ・ラ・ミュージック賞やカンヌ映画祭の音楽賞などを受賞した実力者だ。ジャンを思わせる錆利休色の大きな瞳は物事を見透かすかのような鋭い光を帯びていて、インテリジェントな雰囲気が漂っている。ジャンの祖母、リリ・ボニスはベータのチェリストで、77歳の現在でもパリドビュッシー大学の名誉教授として教壇に立っている。
大理石風の12人掛けの大きなテーブルにはレーズンとカッテージチーズ入りのキャロットラペ、じゃがいものガレット、サーモンやカッテージチーズをのせたカナッペ、カニかまと夏野菜のテリーヌ、煮込んだ夏野菜とベーコンのラタトゥイユ、 とろりとしたオニオングラタンスープ、こんがり焼いてグラタンにたらのブランダード、ポテトフライを添えたステーク・フリット、白ワインでコトコト煮込んだ梨のコンポートのデザートまで食欲をそそるフランスの家庭料理がずらりと並んでいた。料理好きなジャンの父と祖母が腕前を振るって頑張ったのだ。冬心がローゼデパートで買ってきたロマネ・コンティの赤ワインも開けて、皆で快くサンテと言って乾杯する。
食卓を囲んだジャンの家族は、世界唯一の極優性オメガの美しい冬心の話題で、5月中旬に5月上旬までの印税収入をパレスチナのガザ地区の援助のために国境なき医師団(MSF)日本に全て寄付した件と、5月は日本、6月は韓国、7月は中国でも刊行されて、6月末までフランス、日本、韓国で総累計売上4百万部を超え、6月下旬までの印税の巨額な全額を7月上旬に国境なき医師団(MSF)フランスに寄付した件について話を盛り上げながら、料理も美味しく食べている。
冬心は穏やかな雰囲気と余りにも美味しい料理に酔って普段より食べていた。ジャンは普段よりよく食べている冬心が可愛くて、冬心の奇麗な顔を見ながら、冬心の取り皿が空いたら、すぐに色んな料理を取ってあげたりして、嬉しそうな表情を浮かべていた。それを見ていたジャンの両親と祖母は、ジャンがどんなに冬心を愛しているかを肌で深く感じていた。
ジャンの祖母、リリはジャンが15歳の冬休みの頃、カナダのインヴァーメア山でスキーをしていたら急に雪崩が起きて重い雪に巻き込まれ、大怪我して入院されたという話を言い出す。意識不明で2週間も入院され、やっと目を覚ましたが、脳のホルモン線の異常で劣性アルファからベータになり、病院側もいろいろ手を尽くしたものの、これ以上助けることができないと言われ、退院して帰国したことを言った。
暗い悲しい話をしたが、ジャンの母は気の毒に死亡者も3人出たのに、ジャンは生き返られて不幸中の幸いだと湿っぽい瞳を潤ませて言い、今はできればスキーはやらせたくないとすぐに気を取り直して明るい声で言い付ける。冬心は余韻のように震える声で、生きて良かったと繊弱を帯びて言う。
美味しい食事時間は冬心の話題で燃え上がったが、食事後のティータイムではジャンの母の絵画の話やジャンの父の音楽の話で楽しい話の華やかな花々を咲かせる。ジャンの祖母、りりは堪能なフランス語で丁寧に話す冬心がとても気に入って、ずっと微笑んでいた。ジャンは小さい頃からバイオリンを学んだので、その腕前を冬心に見せると言って、奥の部屋からバイオリンを持ってきた。ヴァルディの四季の夏を演奏したいと言い、力強く弓を弾く。気持ちが高ぶるように、力を弾ませたり緩めたりして楽しそうにバイオリンを弾いているジャンを見て、冬心の胸の奥は熱くなった。
ジャンは演奏を終えて、今度は冬心の演奏を聞きたいと言い出す。以前、クラシック音楽コンサートに行ったとき、冬心が小さい頃から、オメガ支援施設で無料の音楽レッスンを受けられたと話したことを思い出したのだ。冬心はピアノ、バイオリン、チェロのレッスンを高校生まで、無料で学んだと楽しく言ったのだ。唯一の極優性オメガなので、日本政府の手厚い福祉支援を受けられたのだ。
頬を赤らめた冬心はジャンからバイオリンを受け取って、同じくヴァルディのラ・フォリアを奏でる。ジャンは急いで奥の部屋から余分に置いてあったバイオリンを持ってきた。序章はゆっくりと静かな緩めの弾きで、急に強烈な早いテンポになり、ジャンと冬心の手は素早く踊り出す。二人の調和は素晴らしく、クライマックスの力強く弦を弾む躍動感ある華麗な演奏では、皆は息を飲み込んで聞き入っていた。
10分ほどの演奏だったが、とても高揚感に満ちた旋律で皆は拍手して称賛した。ジャンの叔母、ニキが冬心にピアノとチェロの音色も聞きたいと熱く頼むから、冬心は白のグランドピアノの前に座った。リストのラ・カンパネラを鐘が高鳴るように弾いて、高音域の美しい音色がリビングルームに響き渡る。素晴らしい演奏に皆は感動した。次に、ジャンの祖母、リリの相棒のチェロを受け取った冬心は、ジャンにピアララのリベルタンゴをピアノで弾けるかと訊く。ジャンはできると言い、ピアノの前に座る。
初めての共演なのに二人は力強くテンポが速い演奏を始める。ジャンの独創的な癖のあるピアノの音色と冬心の優華で精強な旋律は心身の芯を揺さぶるパワーがあった。ジャンの祖母、リリはスラッと痩せていた冬心が力強く尽きるパワフルなエネルギーを出して演奏する技巧が興味深かった。
二人の演奏に息を殺して浸っていたジャンの父、クロードがピアノ前に座って皆で一緒に歌おうと促した。皆はピアフの愛の賛歌を楽しく歌い、後はジャンの父親クロードの要請で冬心がエイッキーの恋はみずいろを清明な歌声で披露する。ジャンの父、クロードは冬心に本格的に音楽をしないかと尋ねる。歌も演奏もどちらも素晴らしいから、一緒に仕事をしたいと言い出した。
冬心は演奏も歌も大好きだけれど、予期せぬお願いでちょっと戸惑った。でも、ジャンの父親だから信頼できるので、ちょっと悩んだ末、一緒にやらせていただきたいと伝えた。ジャンはびっくりして思わず冬心を強く抱き締めた。ジャンとは初めての抱擁で冬心はビックリして心臓がドキドキと高鳴った。
時間はいつの間にか夜10時30分を指して、冬心はジャンの祖母、リリからバイオリンを、母、エリザベートからはエリザベート自身の幻想的な絵画が奇麗にプリントされたクッションカバーを6つもらって、挨拶をして地下鉄エコール・ミリテール駅に向かう。皆、ワインを飲んだから運転が出来なくて、いつもの通り紳士的なジャンが冬心の家まで送ることにした。
7月半ばなのに、かなり高い緯度にあるパリの涼しげな夜は夜10時過ぎでようやく日が落ち暗く染められ、快楽を求めてもぞもぞする観光客で活発に溢れていた。奇麗にライトアップされて浮かび上がったエッフェル塔がイルミネーションで輝くパリの情趣ある街並みを俯瞰している。エコール・ミリテール駅に着いたら、人々で混んでいてジャンは冬心と逸れないように手を繋いだ。
押し掛けてくる人々の波に冬心が転びそうになったから、ジャンは腕を伸ばして冬心の華奢な肩を抱いて歩く。夏の観光繁盛期が始まったので、夜遅くになってもかかわらず、人々で満ちた満員電車で、ジャンは別の人が冬心を触らないように気を使って、冬心を両腕で抱きしめて、自分の胸の中で保護した。冬心は恥ずかしかったが、隣の男がわざとらしく腕で触れてくるから、ジャンの腕の中に包囲されて安心できた。
冬心の顔はジャンの硬い筋肉の胸に密着していて、ジャンの心臓がドクンドクンと大きく鳴り響く音を聞きながら顔を赤く染めていた。ジャンは愛おしい冬心を抱きしめて、心臓が熱くて、はち切れそうに震えだして困惑している。冬心から醸し出される薔薇の神秘的な奥深い良い香りに酔っていたジャンは、明日日本へ出発する冬心を離したくないという強い気持ちで、衝動に駆られる本能を耐えて、抱き締めている腕に力を入れ過ぎないように踏ん張っている。
クルセル駅に着いたら人波は減って町は静寂の色を帯びていた。二人は手を繋いだまま閑静な高級住宅街を歩いた。深夜の町には誰も歩いていなくて、二人は銀色に照らされて躍る月光に揺れながら、お互いの体臭を探っている。緑で塗られた新鮮な空気に、ほんのりと温かみがある落ち着いたサンダルウッドの香りが冬心の鼻を突っ込んできた。ジャンは気付いていないけれど、冬心のフェロモンの影響で、眠っていたジャンのフェロモンがほのかに浮かび出たのだ。
冬心がお世話になっている壮大な邸宅の前まで来て、ジャンがやっと銀月の魔法にかけられた恍惚感から飛び出して慎重に口を開いた。
「冬心。好きだ。初めて会った時から、違う、ブーゴー新人作家賞受賞式をテレビで見た時から好きだ。今まで、結構恋愛はしてきたが、こんな気持ちは初めてだ。友達のままじゃいやなんだ。俺と付き合ってください」
緩んで輝いている大きな瞳をウルウルしながら、冬心はジャンの深愛に陶酔している優しい瞳をじっと見つめてゆっくり頭を頷く。ジャンは冬心の小さくて奇麗な顔を両手で優しく撫でて、艶かしくてぼってりとした柔らかい唇にキスする。二人は時を超えて、しばらくお互いの甘い唇を堪能していた。しかし、時間はそよ風のようにめくられてもう、18日の月曜日に流れていく。
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