3 / 3

第3話

太古の昔から、この世界は三つの血脈に分かれていた。 アルファ。 獰猛で、力に満ち、戦場を血で染めながら勝利を掴み、国を統べる王や英雄となる者たち。 剣を握れば誰も止められず、吼えれば大地が震えた。 一方、オメガ。 壊れそうなほど繊細で、芸術の女神に愛されたような魂の持ち主。 甘い香りを漂わせ、美しい容姿でアルファの傍らに寄り添う。 古の時代には「お番」と呼ばれ、歴史に名を残す偉大な王たちの隣には、必ずといっていいほど一人のオメガがいた。 誰もが羨む、運命の伴侶として。 かつては、そんな特別な血を持つ者たちが人類の100人に一人ほどいたという。 けれど長い時が流れ、血は薄れ、希少なものへと変わっていった。 今、この世界の現実を告げると―― アルファは、わずか6%ほど。 オメガは、3~4%。 残りのほとんどが、ただのベータ。 穏やかで、平凡で、何も持ってない大多数のベータに比べて、オメガはあまりにも希少だった。 だからこそ、近世まで続いた恐ろしい制度があった――『オメガ狩り』。 王や貴族に献上するためだけに、オメガを探し出し、連れ去る専門の狩り班まで組織されていた時代だ。 けれど、日本だけは違った。 神道の精神が根付くこの国では、オメガを神の化身と見なし、畏れ敬い、崇拝の対象として扱ってきた。他の国々がオメガを「宝物」や「所有物」として争う中、ここでは静かに、しかし確実に守られていた。 ……それでも、中世の暗黒は容赦なかった。 黒死病が街を覆い、飢饉が人々を蝕むなか、民衆の間で恐ろしい噂が広がった。 「オメガの下り物が病に効く」 根も葉もない迷信だった。 それでも絶望した者たちは信じた。 オメガ狩りは、もはや制度ではなく、血に飢えた狂気へと変わっていった。 貴族の家以外でオメガが見つかれば、即座に高値で売り買いされた。 形質子を宿せば、その子さえも再び売り物に――そんな悪しき連鎖が生まれた。 オメガの体は、元来とてもデリケートだった。 無理やりな交わりでできた子は、出産そのものが命懸けになる。 死産、流産、そして……オメガ自身の命が失われることもしばしばだった。 そんな時代を生き延びたオメガたちは、どれほど深い傷を抱えていたのだろう。 今も、どこかでその血が、静かに脈打っている。 時は流れ、世界は少しずつ変わっていった。 1776年、アメリカの地でついに火蓋が切られた。 長きにわたるオメガ狩りへの怒りが爆発し、民衆の声が一つになって、オメガ人権保護法が公布されたのだ。 それから13年後、1789年。 フランスでは、貴族たちがオメガを独占し続けていたことへの憎悪が頂点に達し、ついに『フランス・オメガ革命』が勃発する。 血と叫びが交錯する中、オメガを「所有物」として扱う時代に終止符が打たれようとしていた。 世界各地で、オメガをめぐる争いは止まなかった。 戦争さえも引き起こすほどの熱狂だった。 1807年、アフリカでは強制的なオメガ繁殖制度がついに廃止され、形質者貿易禁止令が発令された。 わずかに残されたオメガたちを守るための、必死の動きが始まった瞬間だった。 そして1945年。 日本はWHRC(世界人権協力)に加盟し、オメガを含む形質者の人権と安全を守ることを、世界に約束した。 それからは、国際的な目が厳しく光るようになった。 絶滅危惧種とまで呼ばれるようになったオメガの人権運動は、ますます高まっていった。 アメリカでは、1963年8月28日。 クイーンズの牧師たちが中心となり、首都ワシントンで歴史的な大集会が開かれた。 『ワシントン大行進』――30万人以上が集まり、著名な哲学者や芸術家、ありとあらゆる市民が声を上げた。 リンダーによるオメガ狩り禁止宣言100周年を記念する、この巨大な行進は、世界中に衝撃を与えた。 その波は遠く日本にも届いた。 国内のオメガに関する古い法律が見直され、人道的な支援体制が急速に整えられていった。 今も、世界の多くの王族はアルファの血統で成り立っている。 日本の天皇家もまた、長くアルファの系譜を継いできた。 けれど、オメガの数は近現代に入って急激に減少し、もはや絶滅危惧種と呼ぶほかなくなった。 かつては、天皇家の嫁となることがオメガに課せられた義務だった。 しかし、時代は変わった。 人権という言葉が重みを増し、オメガもまた、自由意志で生き、愛し、結婚できる存在となった。 もはや、法律がオメガを縛ることは許されない。 そんな時代が、今ここにある。 歴史を振り返ってみれば、 科学や天文学、スポーツといった分野では、圧倒的にアルファたちが輝いてきた。 アインシュタン、エーソン、ガリレラ……彼らのような偉人たちが、世界を何度も塗り替えてきたんだ。 一方で、音楽、美術、文学といった芸術の世界では、オメガの才能が美しく花開いてきた。 ダ・ヴィラー、モーツァリア、ゴッボン……彼らの生み出した美は、今も世界中の心を捉えて離さない。 そんな試練と無知の時代を乗り越えながら、人類は少しずつ、調和と平和へと歩みを進めている。 そして今―― 世界大学ランキングで堂々の第3位に輝く、日本の名門・ピース大学。 澄み切った空気と柔らかな陽光に包まれたキャンパスは、今日も生き生きとした学生たちの声で満ちている。 人文学部の前庭。 おしゃれな木製ベンチに腰掛けた冬心と愛子は、両手に温かいコーヒーを抱え、楽しげに笑い合っていた。 風が木の葉を揺らすたび、二人の会話もまた、穏やかに、優しく揺れている。 愛子はピンクのふわふわ毛糸帽子を少し傾けて、コーヒーカップをくるくる回しながら、にこっと笑った。 「ふぁー、来週の期末テスト終わったら、いよいよ冬休みだね〜。冬心、何か予定あるの?」 冬心はカップに口をつけて、ゆっくりと息を吐いた。 「うーん、最近ちょっとバタバタしてて……バイトもあるし、文芸創作コンテストの原稿も書かなきゃだし、本ももっと読みたいし、おばあちゃんと散歩もしたいし……やりたいこと、めっちゃいっぱいなんだよね」 「もう、冬心ちゃん忙しすぎ! 私と遊ぼうよ〜。先輩の友達も一緒で、ソウル行く予定なんだけど、一緒に来ない? 絶対楽しいって!」 「誘ってくれてありがとう。でも、バイト抜けられなくて……ごめんね。代わりに、休みの日に美味しいランチでも行けたら嬉しいな」 「えー、大学一年生なんだから今が一番遊べる時期だよ? 書店のバイトじゃなくてさ、私の従弟の家庭教師やらない? 時間もお金も余裕できるよ〜」 「ごめん、家庭教師はちょっと……。僕のフェロモンで何かあったら困るし。それに、今の書店のバイト、ほんとに好きなんだよね」 「うちの従弟、ベータだよ? まぁ、冬心の顔見たら変なスイッチ入るかもだけど……家には家政婦さんとか使用人もいるし、危ないことなんてできないはず。すっごいお金持ちだから、給料もめっちゃいいのに……」 「ほんとに気にかけてくれてありがとう。でも、今のバイト、けっこう満足してるんだ。本に囲まれてるの落ち着くし、ランチとかコーヒーもタダでもらえるし、みんな優しいし……なんか、居心地いいんだよね」 「わかった〜! あ、そうだ。ねぇ、そのコートめっちゃいいね。紫なのに全然重くなくて、すっごく似合ってる! どこのブランド? ちょっと教えてよ〜」 「うーん、よくわかんないんだけど……鈴木先生の娘さんのお下がりなんだ。手触りがすごく良くて、あったかくて。なんか、いいものもらっちゃったなって、ほんとにありがたいよ」 「ちょっと見せて! ……首元のタグ……うわっ、やっぱり! ルイス・ボトンじゃん! いいやつだよ〜。いつもおしゃれな服着てるから、金持ちのお嬢様かと思ってたけど、男の子だったね。ふふっ」 「そんなに有名なの?」 愛子はスマホをサッとタップして、中古ブランドサイトを開き、冬心の顔の前に突き出した。 「これ見て! 中古でもこの値段! 間違いないよ。ここ、超信頼できるサイトなんだから。私もこのファンシーバッグ、10万で買ったの。定価15万なのに、状態良くて大満足!」 「え……ルイス・ボトンって、どうして定価が表示されてないの?」 「ちょっと待って、公式サイト見てみよっか。同じなんだよ」 画面を切り替えて公式ページを見せると、そこにも価格はなかった。 「そうよ、超有名ブランドだから、為替とか状況でその時々で値段が変わるんだって。オーダーメイドもあるらしいよ。キャサリンナ妃とかジュリアナ・ロバーツも愛用してるって! 鈴木先生の娘さん、相当なお金持ちだね……」 「うん、ハリウッドの女優なんだって」 「えっ!? なにそれ、今言う!? 名前知ってるの!?」 「うん……鈴木先生のご主人がウェイン・ワイズ博士で、娘さんはアイリ・ワイズ。2年前に結婚して、今はアイリ・クルーズって名前になったみたい」 「うわぁぁ鳥肌立った!! 超有名女優じゃん!! 『ティファニーで夕食を』とか『エドモンド郡の橋』、『パリの休日』、『風の中に去りぬ』、『愛のゴースト』……もう全部名作すぎる!!」 「うん、私も全部見たよ。でも名前だけじゃピンとこなくて……鈴木先生も『ハリウッドの女優』ってしか言わなかったし」 「ねぇ、サインもらえない!? 私、中学生の頃から大ファンなんだよ!! アイリって中学生デビューした超大スターだし、母親が日本人って聞いたことあるけど、プライベート全然出さないから知らなくて……しかもハーバー大学卒で頭良くて超美人! 冬心とそっくり! あ、そうだ、俳優のジョージ・クルーズと結婚したんだよね! 結婚式も超非公開だったって! お願い、一生のお願いだからサインもらって!!」 「よくわかんないけど……次の健診のとき、鈴木先生に聞いてみるよ。でも、難しいかもしれないから、あんまり期待しないでね」 「うん、ありがとう!!」 二人が笑いながら盛り上がっているその背後。 少し離れたベンチでは、天命が仕込んだガードたちが、静かに耳を澄ませながら、周囲に鋭い視線を走らせていた。 誰も気づかない、静かな監視の目が、そこにあった。 時間は穏やかに流れ、12月の期末テストも無事に終わり、待ちに待った長い冬休みがやってきた。 街はもうすっかりクリスマスムード。キラキラと輝くイルミネーションや、巨大なツリーがあちこちで迎えてくれて、冬心の胸も自然と弾む。バイトに向かう道中も、冷たい空気の中に漂う甘いホットチョコレートの香りに、思わず笑顔になってしまう。 祖母も最近はすっかり元気を取り戻し、オメガ支援施設で掃除のバイトを張り切っている。 「冬心のプレゼント、楽しみにしてるよ」なんて、照れくさそうに言ってくれるのが、なんだか嬉しかった。 クリスマスまで、あと3日。 17時でバイトを終えた冬心は、デパートのフロアを隅から隅まで歩き回っていた。 祖母へのプレゼントを探すために。 バイト先のピース書店では、年末の特別ボーナスとして、スタッフ全員にデパートの商品券1万円分が配られた。 8月の祖母の誕生日に贈ったシルクの白い帽子が、すごく喜んでもらえたのを思い出す。あの時の笑顔が、今も胸に温かく残っている。 ピースデパートの1階のロビーでは、華やかなクリスマスの飾りつけが一気に視界を埋めた。 きらびやかなライトが天井から降り注ぎ、大きなツリーのオーナメントがキラキラ揺れる。 BGMに流れる優しいクリスマスソングが、なんだか心まで柔らかく溶かしていくみたいだ。 店内は人でいっぱいだった。 手をつないで歩く、幸せそうなカップル。 おしゃれな女性グループがガヤガヤと笑いながらウィンドウショッピング。 ニコニコしながら売り場を回る、仲良し家族連れ。 穏やかな笑みを浮かべてゆっくり歩く老夫婦。 そして、真剣な顔で品物を選ぶ、ひとりきりの人たち――。 冬心は2階の婦人売り場に差し掛かり、大きな『スカーフセール』のポップに目を留めた。 近づいてみると、色とりどりのシルクスカーフが、1万円でずらりと並んでいる。 タグの下には「定価5万9千円」の文字。 (これは……お得かも) どれも上品で素敵で、なかなか決められない。 でも、心は楽しくて、わくわくが止まらない。 ふと、視界に飛び込んできたのは、落ち葉が優雅に舞うデザインのワインカラーのスカーフ。 広げてみると、金と銀の葉が光を浴びて、キラキラと華やかに輝いた。 深みのある赤ワインのような色合いが、祖母の優しい肌色にぴったり合いそう。 (うん、これだ) そう思った瞬間、隣の店員さんが柔らかく声をかけてきた。 「見る目がありますね。とてもいいお買い物ですよ」 店員さんの話によると、これは3年前の在庫で、今年初めてセールに出された特別な品だという。冬心は商品券をそっと差し出し、支払いを済ませた。 袋を受け取った瞬間、心がふわりと浮き上がるような喜びに満ちた。 これを祖母に渡す時の笑顔を想像するだけで、 クリスマスが、ますます特別なものに感じられた。 クリスマスイブ。 街はきらきらとしたメロディーに包まれ、どこもかしこも華やいでいた。 冬心はそんな賑わいの中でも、いつも通りピース書店でアルバイトに励んでいた。 今夜は祖母と一緒に、温かいチキンスープとイチゴケーキを囲む予定だ。 それだけで、胸が少し温かくなる。 17時までの店内は人で溢れ、慌ただしい時間があっという間に過ぎていった。 仕事を終えた冬心は、すぐにピースデパートの地下1階へ向かう。 予約していたイチゴケーキを受け取ると、心がふわりと軽くなった。 ありがたいことに、3千円から3万円まで幅広いケーキが並んでいて、 一番小さな3千円のケーキを買えたことが、なんだかすごく嬉しかった。 ケーキの表面には可愛らしいサンタクロースのチョコレートがちょこんと乗っていて、 真っ赤なイチゴが円を描くように綺麗に並んでいる。 見るだけで幸せな気持ちが込み上げてくる。 家路につく冬心の足取りは、まるで音楽に合わせて踊るように軽やかだった。 瑠璃色の広い空には、星々が宝石のように散りばめられ、 この世のクリスマスイブを静かに祝福するような、幽玄な光が降り注いでいた。 一方その頃、年末のイベントやパーティーで心身ともに疲れ果てていた天命は、 今夜もチャリティーパーティーに参加していた。 政財界、学界、官界、芸能界――名だたるセレブたちが一堂に会する、華やかな夜。 天命は秘書の橘から、冬心が無事に帰宅したという報告を受け、ほっと胸を撫で下ろす。 手にしたシャンパンの泡が、静かにグラスの中で踊っていた。 その時、防衛大臣の愛娘であり、女優の小泉エリカが近づいてきた。 「久しぶりですね、天命常務。相変わらず格好いいですわ」 派手なドレスに身を包み、きらきらとしたネメシアのフェロモンを纏う彼女は、 日本最高峰の優性オメガ女優。 174センチの長身、30歳になった今もその美貌と演技力で、世界中のファンを魅了し続けている。 エリカと天命が出会ったのは、二人が25歳のとき。 チャリティーコンサートの後のパーティーで、偶然の出会いだった。 一瞬で惹かれ合い、燃え上がるような恋に落ちたが、たった3か月で別れを迎えた。 お互いに自己中心的で、飽きっぽい性格。 激しく燃え上がった恋は、軽く触れただけで冷めてしまうほど脆かった。 3か月間、セックスへの情熱だけが支えだった。 エリカは天命との身体的な相性には満足していたが、彼の利己的な態度には次第に耐えられなくなっていった。 それでも、あの短い時間が彼女の記憶から消えることはなかった。 小泉家は、歴代首相を何人も輩出してきた政界の名家だ。 エリカを含む親族の多くが、日本屈指の名門・ピース大学の卒業生である。 エリカ自身、中学生の頃から芸能界に身を置き、今では日本のみならず世界でも名を知られる女優となった。 「何の御用だ」 「相変わらず無愛想ね。先週、私の従妹とお見合いしたんでしょ? うわさになってるわよ。 本気で結婚するつもりなの? 京香は無垢で純粋な子よ。あなたにはもったいない。やめてちょうだい」 「好きで出たわけじゃない。祖父の頼みだ。それに、俺のタイプじゃない」 「じゃあ話は早いわね。断って」 「まだだ。政略結婚だ。利益が優先だ」 エリカの美しい顔が、怒りに震えた。 「あなたみたいな女遊びの激しい男に、京香は必ず傷つけられるわ」 「遅い。京香はもう俺に夢中だ。毎日ラインも送ってる」 「京香は24歳まで恋愛経験もない純粋な子なの。バレエ一筋で生きてきたのよ。お願い、京 香から離れて!」 天命は、細く繊細な顔立ちの京香を思い出した。 これまで華やかな美人ばかりと付き合ってきた彼にとっては、どこか地味に映った。 170センチで48キロという細身の体は、彼の好みとは少し違っていた。 ただ、悪くはなかった。 静かで控えめな雰囲気には、どこか心地よさがあった。 ピースホテルのVIPルームで昼食を共にしたとき、京香の食事の仕方がどこか機械的に感じられた。 ゆっくりと噛み、満腹感を引き出すように食べる癖が、天命には少し気になった。 京香は以前から食欲を抑える薬を服用していたため、たくさんは食べられないと説明した。 メインの鮪料理も半分ほど残し、デザートのピスタチオムースと旬のフルーツアイスには手もつけなかった。 それでも、彼女には普通の女性にはない、静かな美しさと品のあるオーラが漂っていた。 京香は13歳からオーストリア・ウィーンの王室バレエ学校に留学し、ウィーン大学を卒業した優れたバレリーナだ。 その家系もまた、無視できないほどの名門。 祖父は日本銀行の会長、祖母はグローバル証券会社の会長。 父は最高裁判所長官、母はピース大学臨床心理学科の教授。 伯父は防衛大臣、叔母はグローバル通信会社の社長―― まさに政財界の要人たちが揃っている。 そんな背景を持つ京香との縁談は、単なる恋愛では済まされない重みを持っていた。 天命は、濃くメイクされたエリカの美しい顔を、ゆっくりと視線でなぞるように味わった。 確かに、世間が認める美しさだ。 完璧に整えられた眉、輝く唇、きらめく瞳。 でも、そこにないものがあった。 魂の奥底まで染み入るような、静かで神秘的な輝き——冬心が持つ、あの、触れられない光。 シャンパンを一口、喉に流し込みながら、天命は小さく息を吐いた。 これまで、数え切れないほどの人間と恋をし、ビジネスで出会った人間の本質を見てきた。 その経験が、彼に人を“見抜く”目を養っていた。 「エリカ、お節介だな。京香が決めることだ。失礼」 震えるエリカを背に、天命は静かにホテルのテラスへ歩を進めた。 12月24日。 珍しく寒さが和らいだ、澄み切った夜空の下。 細い煙草に火を点け、清らかな空気を肺に吸い込む。 煙がゆっくりと夜に溶けていく。 天命の思考は、自然とピースグループの未来へと向かっていた。 今まで、自由に恋愛を楽しんできた。 それは祖父の配慮——若いうちに思う存分遊び、時が来たら勧められた相手と結婚する、という無言の約束だった。 もう30歳。 来年には31になる。 短くなった煙草を指で弾きながら、天命は藍色の空を見上げた。 星々がきらきらと瞬き、この夜の静けさを優しく讃えている。 「……綺麗だな」 その瞬間、ふと夜空に浮かぶように、冬心の顔が脳裏に現れた。 優雅で、神秘的で、魂がふわりと喜ぶような深い美しさ。 冬心は19歳。 俺とは11歳差だ。 優性アルファとして生まれた天命は、幼い頃から常に注目されてきた。 16歳でピース大学に飛び級入学、医学部で神経外科医の資格を取得。 23歳でアメリカのハーバー大学大学院に進み、経営博士号を手にしていた。 順風満帆なキャリアの裏で、さまざまな女性と関係を重ねてきた。 常に相手の意思を尊重し、別れの時には秘書を通じて誠実に礼を尽くす。 それが、彼にとって最も安心で、安全な方法だった。 芸能界の女優やモデルたちは、天命に選ばれることを渇望していた。 なぜなら、彼に選ばれた者には、ピースグループの広告やスポンサー作品への出演チャンスが約束されていたからだ。 ハリウッドの女優やモデルとも関係を持ち、芸能界ではその名を知らない者はいない。 ピースグループ傘下のJ&Jエンターテインメントは、まさに彼の遊び場であり、縄張りそのものだった。 天命は、冬心という名前を、ずっと前から知っていた。 世界で唯一無二の「極優性オメガ」。 天命が15歳の頃、父親と祖父の会話を偶然耳にしたのだ。 「世界では30年ぶり、日本では50年ぶりの極めて稀少な存在」 祖父はそう言い、将来、孫たちの伴侶に迎えたいと考え、裏で手を回していた。 しかし、政府の厳格な保護政策のため、当時は連絡すら取れなかった。 冬心の父親は、エンライトメント公立大学研究所の契約研究員で、形質者の脳神経発達を専門にしていた。 母親は韓国からの留学生で、同じ大学の形質者心理学部の助教を務めながら、特別奨学金で博士課程に在籍していた。 母親はアメリカ人と韓国人のハーフ。 写真を見ると、息を呑むほど美しい女性だった。 母方の祖父はアメリカ空軍出身で、その血が彼女に独特の、韓国人でありながらアメリカ人にも見える風貌を与えていた。 二人は恋に落ち、間もなく冬心を授かった。 貧しくても、幸せに暮らしていたという。 それ以降のことは、天命も詳しくは知らない。 今では、世界中で形質者の人権が尊重され、 密やかに、静かに生きたいという彼らの意思も、自然に受け入れられる時代になっていた。 天命は煙草の最後の一服を深く吸い込み、ゆっくりと吐き出した。 星空の下で、静かに、冬心の名を心の中で繰り返した。 天命が27歳のとき、明星の不品行がきっかけで、ついに冬心と直接出会うことになった。 その時、冬心は激しいパニック障害に襲われ、意識が朦朧としていて、天命の顔をはっきりと覚えていなかった。視界が揺れ、息が苦しく、ただただ怖くて、誰かが助けてくれるのを待つことしかできなかった可憐なオメガ。 後の手続きはすべて、秘書の橘が冬心と直接会って進めてくれた。 橘が調べてくれた報告書には、冬心の過去が淡々と綴られていた。 冬心は10歳のとき、両親を交通事故で失っていた。 原因はトラック運転手の居眠り運転。運転手自身もその場で即死した。 しかもそのトラックは保険に加入しておらず、運転手は個人で下請けの配送業をしていた。 残されたのは、13歳の息子ひとり。 身寄りもなく、結局、国営の児童養護施設に引き取られたという。 当然、金銭的な補償は一切行われなかった。 両親は公立大学の研究員だったが、給料は薄く、ほとんどを研究費に回していたため、貯金はわずか50万円しか残っていなかった。 両親が亡くなった後、冬心は祖母のわずかなバイト代と年金だけで、なんとか生き延びてきた。 それでも冬心は、いつも笑顔を絶やさなかった。 悲しい涙など、祖母に一度も見せたことがなかった。 芯の強い子だった。 それは、母親が何度も言い聞かせてくれた言葉のせいだった。 「もし私たちに何かあっても、おばあちゃんを助けて、たくましく生きなさい」 母親は優性オメガらしく、予知能力を持っていたらしい。 一般的に、優性オメガは第六感が鋭く、未来の断片をぼんやりと見るといわれている。 きっと、あの言葉は、母親が感じていた予感を込めてのものだったのだろう。 成績優秀だった冬心は、13歳のときに文部科学省から飛び級で大学進学を勧められた。 でも、「学校生活を楽しみたいんです」と理由をつけて断った。 本当は、注目されたくなかっただけだ。 中学2年の頃、祖母の体調が急に悪化し、病院を転々とする中で、エンライトメント公立大学付属病院で「脊髄管狭窄症」の手術を勧められた。 しかし、国からの補助金はごくわずかで、手術は先送りになった。 祖母が働けなくなってからは、年金とわずかな貯金を切り崩しながら、二人で質素に暮らしていた。 高校は、全学年成績優秀者に与えられる奨学金を得て、ピース大学付属のピース私立高等学校に進学した。 冬心は勉強も運動もできて、誰とでも自然に仲良くなれる子だった。 入院中、天命は橘を通じて、冬心の過去や家族の事情をすべて知った。 そして、できる限りの支援を、目立たないように続けた。 天命は、冬心が好きだ。 心の底から、強く、静かに惹かれている。 でも、自分は世故に長け、欲望にまみれた人間だ。 純粋で、高雅で、まるで光そのもののような冬心は、あまりにも眩しすぎる。 だからこそ、 天命は遠くから、そっと見守ることしかできない。 それが、今の自分に許された、唯一の距離だった。 冬のテラスに、冷たい風が静かに吹き抜けていく。 天命は欄干に寄りかかり、藍色の夜空を眺めながら、渋い冬の愁いに浸っていた。 そのとき、気づけば正直日報の林社長が、足音も立てずにテラスへ姿を現した。 「宇宙常務。いい風ですね」 「ええ、空気が澄んでいます」 林はゆっくりと隣に並び、夜空を見上げながら、穏やかに切り出した。 「小泉最高裁判所長官のご令嬢、京香さんとの婚約の噂が広がっていますが……事実でしょうか」 天命は小さく息を吐き、グラスを軽く傾けた。 「まぁ、可能性はありますね」 「それは恋愛結婚ですか? それとも……政略的なご縁でしょうか」 天命の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。 「ふふ、想像にお任せします。では、失礼」 軽く会釈をすると、天命は振り返ることなく、賑やかなホテルの会場へと消えていった。 林は一人残されたテラスで、冷たい風に頬を撫でられながら、静かに目を細めた。 30年以上の記者人生で鍛え抜かれた嗅覚は、天命の女遊び——特にオメガとの関係——に関する噂を、とうに掴んでいた。 だが、そんな程度の噂話では、彼を本気で叩き潰すには到底足りない。 日本屈指の巨大企業、ピースグループの御曹司ともなれば、 どんな些細なスキャンダルだって、世間の注目を一気に集める「大ヒット」になるはずだ。 だからこそ、林はこれまでずっと、アンテナを張り続けていた。 (誰にでも、必ず落ち度がある) そう信じて、天命の周りを探り続けた。 家柄、容姿、学歴、コネクション、慈善活動……どれを取っても完璧すぎて、軽々しく手を出すわけにはいかなかった。 ホールの奥からは、静かなクラシックのアンサンブルが優しく流れ、テラスには冷たい風だけが吹き抜ける。 林はその寒さの中で、妙に清々しい気持ちになりながら、苦く笑った。 (完璧すぎる男ほど、どこかで脆い……) 煙草に火をつけ、ゆっくりと煙を吐き出す。 夜空の星が、冷たく瞬いていた。

ともだちにシェアしよう!