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①
まずはある地震が起きた。日付は十一月一日と、そろそろ冬に入る頃である。
場所は日本で二番目に大きな都市で、人口はやはりかなりのものだった。時間帯は夜の七時であり、帰宅ラッシュ。震度は五弱と、ある程度大きい。だがこの地域は比較的新しい建物が多く、目立った被害はない。しかし人々のパニックが連鎖するには、充分のものである。
桃井朝晴二十二歳、社会人一年目で職業はシステムエンジニアだ。そしてこれが、人生で初めての経験である。
その当時、朝晴は駅構内に居た。電車を利用して退勤をしており、ちょうど最寄り駅に到着して改札を抜けたところである。大きな揺れと共に周囲の人々のつんざく悲鳴とそれに、何千台もののスマートフォンから緊急地震速報として不快な音が鳴り響いた。朝晴にとっては、まさに地獄のような光景である。
幸いにも見えるところに被害は無かったが、複数人の駅員がパニックになっている人々を外に避難させていた。勿論、朝晴もその中に加わる。
スマートフォンを確認してみれば、現時点での推定震度は五で、震源地は周辺の海である。津波注意報は沿岸部に発せられており、内陸部には今のところ無い。それでも、余震の恐れがある為に、警戒は解けない状況だ。
外に出れば、朝晴のようにスマートフォンの画面を注視している人で一杯だ。だが時折に密集しているせいで、電波が悪いという者も散見できた。不満の声が多く聞こえる。時代からして仕方がないものの、朝晴は気味が悪いように思えてきた。なので空を見上げれば、高層ビル群に埋め尽くされている。溜め息を一つついた。
見れば次第に、早急に公共交通機関が再び動いてきていた。対応の早さに、朝晴は「凄い」などと思うことしかできない。
すると視界に、一人の女性が入る。様子は困っているように見え、顔が少し青い。助けるべきなのか迷う。だが朝晴は今まで彼女は居らず、異性と話すのは得意としていない。なので躊躇が心を食っていくものの、このような状況だ。勇気を持って話しかける。
「あの……どうかしましたか?」
女性との身長差はおおよそ十センチだろうか。それでも、朝晴はなるべく視線を合わせる。
「いえ、何でも……」
女性はそう答えるが、当たり前の反応だろう。見知らぬ異性に、そう話しかけられたのだから。
しかしやはり女性は困っているようにしか見えない。鞄の中を必死にまさぐる動作をしており、傍から見ても何かを探しているようにしか見えないからだ。
朝晴はなるべく緩やかに、もう一度同じ言葉を掛ける。その頃には、女性は何かを諦めるような顔をしていた。なのでか、ようやく女性が答え始める。
「お金が……持ち合わせが無いんです。ICカードの残高がちょうど無くて、バスに乗って帰れないんです……」
女性は朝晴につむじを見せる。そして聞けば相当な困り事なので、朝晴はすぐに財布を取り出した。千円札が数枚あり、あとは小銭だけだ。だが小銭だけでは心許ないだろう。なので千円札を一枚取り出すと、女性にそれをそっと差し出す。
「千円くらいで足りますか?」
「いえ、そんな……!」
女性は驚愕の目をこちらに向けているが、それも当たり前の反応を示した。
「帰れないのでしょう? この状況ですし、危険過ぎます。そうだ……これが、たまたま鞄の中に入っていたことにしましょう」
朝晴は自身でできるかは分からないが、頬を緩ませた。できるだけ、女性を安心させる為である。
「……わ、分かりました。ありがとうございます」
女性が数秒考えた後に、千円札をそっと受け取った。その際に指先が触れるが、とても冷たかった。一言、朝晴は言葉を付け足す。
「冷えますし、途中でもいいのでココアでも買われるといいでしょう」
寒い中で「ココア」という単語を聞き、女性の顔から緊張が無くなり始める。
「はい……ですが、後日、お礼をささやかでもいいのでしたいのですが、差し支えなければ連絡先を教えてもらうことはできますか? ご、ご迷惑でなければ!」
女性の顔に、朱が入り始める。そこで朝晴は何と可愛らしいと思えた。なので下心もありつつも、頷いてしまう。異性に気を使われてしまったことは、少し情けないと思いながらも。
頷いてからスマートフォンを取り出した。そしてメッセージアプリを開くと、女性も同様の操作をしていたらしい。まずは先に朝晴がQRコードの画面を見せると、女性がそれにカメラのレンズを向けた。すると一瞬で、メッセージアプリの友だち一覧に見慣れないアイコンが表示される。これが、女性のアカウントらしい。朝晴にとっては、これが家族以外では初めての異性の連絡先だった。口角を上げようとしたが、それを必死に耐える。
「友だち追加されましたか?」
「はい、ありがとうございます」
連絡先を交換したところで、周囲に居た筈の人々が少なくなっている気がした。地震により止まっていた公共交通機関が、徐々に回復しているおかげなのか。この調子では、帰宅難民が続出することはないだろう。
「では、本当にありがとうございました」
女性が深々と頭を下げるが、朝晴は大したことをしていないとなだめた。そして女性がバスに乗る為の列の方へと歩いて行く。無事に並べたことを確認すると、朝晴は無事に帰られることを祈った。
朝晴は自宅へ帰る為に歩き出した。ここから徒歩でおおよそ十数分である。バス乗り場とは反対側なので、踵を返した。
行き交う人々を見れば余震を恐れている者や、必死に通話して安否を確認している者も居る。それを横目で見ながら、歩道を歩いて行く。
道路で数台の市営バスが通ったが、人がぎっしりと詰め込まれたように乗っている。乗車率は満員を越えているところなのだろう。だがそれを見ても朝晴は何もできない。なので視線を前へと戻していった。
スマートフォンをちらりと確認してみるが、女性からは何もメッセージが来ていない。なので立ち止まってから改めて女性のアカウントを見れば、名前が知美とある。これが女性の名前なのだろうか。少し、自身の名前と似てると思った。それも、たったの二文字しか似ていないのだが。
スマートフォンの画面を暗くしてから、再び歩き出す。駅から離れると、いつもの景色が見えてきていた。パニックになっている人の数は減り、普段の営みをしているような顔で歩いている人間が多い。
それを見た朝晴は、まるで先程の地震や人々のパニックが無かったかのように思えてしまう。しかしそのようなことはよくないと、首を横に振る。
スマートフォンが何かを知らせる通知音を鳴らした。気付いた朝晴は立ち止まり、通知の内容を見る。そこには先程の女性、知美からメッセージが来ているものであった。詳細を確認すると「無事にバスに乗れました。ありがとうございます」と、丁寧な文章のメッセージが来ている。朝晴は安堵をすると共に、それを現す為に返信をした。内容は「乗れましたか、よかった」とだ。
だがそこで会話を途切れさせていいのだろうか。知美は人が押し込まれているバスの中で、不快になりながら目的のバス停に到着するのをただ待っているに違いない。
スマートフォンをしまおうとした朝晴は、文章を打ち始める。自ら話題を出して、知美を少しでも安心させたいからだ。スマートフォンを見る余裕はあるのだろうかと思いながらも「名前、僕と少し似てますね」と打った。すぐに送信をすると、既読と表示される。朝晴とのメッセージ画面を、まだ開いていたのだろうか。
すぐに知美から「たしかに、そうですね」という文章が返ってきた。
画面を見て少し笑ってしまった朝晴だが、これではいけないと思いながらも、もう少しメッセージのやりとりをしたいと指を動かす。素早く「バスから降りたら、家はもうすぐですか? 大丈夫ですか?」と打って送信をするとすぐに「はい、バス停で降りたら家はすぐそこです」と来たので安心をした。最後に「気を付けて下さいね」と打って送信すると、朝晴はスマートフォンをしまってから、帰り道を歩く。
自宅であるアパートに到着する、その直前に知美から無事に帰宅できたという連絡が来た。なので胸を撫で下ろしながら、自分の部屋の扉の前に立つ。
解錠をしてから暗い部屋に入る。しかし暗がりであっても、外の人工的な灯りのおかげで部屋の中がぼんやりと見えていた。倒れた家具や物は確認できず、朝に家を出る前と景色は変わらない。このアパートは割と最近にできたおかげなのか。
朝晴はゆっくりと照明を点けると、狭いリビングとキッチンが見える。部屋の奥にあるベッドに向かうと縁に座った。
外ではサイレンの音が目立ち始めたが、地震の影響なのか。朝晴はスマートフォンを取り出してから、地震についてのニュースを確認する。既に死傷者が確認されており、現時点では死亡者数が一名、負傷者は三名でいずれも軽いものだという。原因は建物が崩れたらしく、その下敷きになったらしい。
朝晴は胸が痛んだと同時に複雑な気持ちになる。やはり下心が無いとは言えないが、人生で初めての異性と知り合いになるきっかけができたからだ。
生憎にも平凡な見た目に、ゲームが好きというオタク趣味。異性が寄りつく筈がないと、溜め息をつく。
そこで知美から「自宅に帰ることができましたか?」と聞かれたので「はい。帰宅できました」と返すと、ベッドにスマートフォンを投げる。小さく弾んだ後に、しばらくの間画面を照らし続けた。
そして知美に話しかけたことを思い返すと、知り合い、いやまずは友達になりたいと考えた。知美の外見は大人しいが、朝晴の好みに入っている。女性らしい言動に外見の大人しさ、朝晴はしばらく知美のことを考えるが、冷静にならなければならない。
一旦、知美のことを頭の隅に追いやることができると、シャワーを浴びた。浴槽に浸かることは、今からでは面倒になったので止める。なので浴室からすぐに出てから寝る支度をしていった。そしてベッドに入ると、朝晴にしてはまだ眠るには早い時間だというのに、すぐに眠っていった。
※
翌朝の七時前に、知美からメッセージが来ていた。内容は今日の夜でも借りた金を返したいとのこと。時間はあるのかと聞かれるが、生憎にも朝晴が起きたのは八時である。気付けばかなり眠っていたが、余震の恐れがある中でよく眠れたと悪い意味で感心をしてしまう。
今日は在宅での仕事なので、特に夜であれば幾らでも時間は空いている。勿論、いつでも空いていると返した後にベッドから離れる。
スマートフォンで昨夜の地震の続報をチェックする。結局は死亡者は一名のままで、負傷者が数名増えている程度。余震は震度が二が数回で、目立ったことは起きていない。倒壊した建物は複数確認されているらしいが、古くなってしまっている会社や住宅が多いらしい。
把握をした朝晴はスマートフォンでニュースを確認することを止めると、手が震えていることに気付く。無意識のうちに怖くなっていたのだろう。
次にゲームアプリを起動した。ログインボーナスを受け取り、今や慣れている操作をした後にようやく朝食のことを考え始める。
「さて、ご飯ご飯……」
冷蔵庫を開けるが、空だ。何も無い。そこで昨夜は夕飯を食べていないことに気付いた。途端に腹から盛大な音が聞こえ、朝晴は溜め息をつく。
一度外に出て、食事の調達をしなければならない。だがコンビニで済ますか、それとももう少し待ってからスーパーに行くべきか。どちらにするか迷った挙げ句に、前者を取ることにする。
洗面所に向かい、震える手で顔を洗い歯磨きをした。そして外に出られる服装に着替えてから外に出た。既に通勤している者や、通学をしている学生などが歩いていた。いつもの日常が一夜にして戻っており、朝晴はそこでようやく手の震えが止まった。
近くのコンビニに行くと、客が数名居た。今日の新聞が突っ込まれているラックを見れば、見出しがよく見えていた。勿論、地震というワードで溢れている。朝晴はその地震というワードの波に再び飲み込まれそうになったが、無理矢理に目を逸らしてからおにぎりが陳列されているコーナーへと歩き出す。
そこには既に他の客が居た。朝晴よりも身長が高いスーツ姿の男性だ。何を買うか迷っているのかは分からないが、立ち止まっている。ふと不思議な匂いがしたような気がしたが、空腹のせいだと思いながら他のコーナーへと行く。次は冷凍食品のコーナーだ。
「ここのでいいか」
思い出したが米は炊いていないので、冷凍の炒飯にすることにした。それを一袋と、飲料コーナーで適当なコーヒーを手に取る。会計をした後にコンビニを出ようとしたが、おにぎりのコーナーにまだあの男性が立っていた。朝晴は首を傾げてから、ようやくコンビニを出てから家に帰る。
腹を満たした後にPCの電源を点ける。そして向かうと、黙々と画面を見ながら仕事をしていった。
昼になり昼食をどうすべきか悩む。そこで知美から返信が来ていた。単純に了承の返事だけであったが、朝晴はどんどん知美を意識してしまう。だがこれは知っている。恋心なのだと。
自覚してしまった朝晴は、途端に今着ている服を見る。明るい色のセーターにジーンズと、地味な服装であった。しかし同じ世代のトレンドなど分からないので、これで行くしかないと思った。なので諦めながら、昼食や今夜の夕飯を買う為にスーパーに行って買い物をしてから、夕方を待つ。
知美との待ち合わせ場所は出会った駅の近くのカフェ。知美がそこを指定した。そこは何度か行ったことがあるので、場所はよく分かっている。しかし知美は一度も来たことがないらしく、遅刻する場合があるらしい。
それならば他の場所にしようとしたが、思いつく場所がない。ゆっくりと、知美と話せる場所をだ。なので知美が遅刻することを前提にしながらも、待ち合わせ時間の五分前にカフェに入った。
案の定、知美は十分程度遅刻した。だが事前に知らされていたので、朝晴が怒る義務はない。寧ろ労りながら、向かいの席に座るように促した。知美は小さく会釈をしながら座る。
「昨夜はお世話になりました」
「いえ、とんでもありません」
互いに事務的な会話をしてから、知美が鞄から細長い茶封筒を取り出した。それをこちらに差し出す。
「昨夜お借りした千円です。ありがとうございました。それに、助言の通りに帰り道にコンビニがあったので、ココアを買って飲んだら、かなり落ち着きました。ありがとうございました」
椅子に座りながらも、知美が深々と頭を下げる。だが朝晴は大したことはしていないと「滅相もありません」と返す。
頭を上げた知美は「ありがとうございます」と、笑みを浮かべている。朝晴はそれを見て、やはり可愛いと思えた。しかしこれを声に出してはならない。例え遠回しでも、そのようなことは言ってはならない。知美とは、まだ知り合ったばかりなのだから。異性と交友関係を持ったことがない朝晴でも、それを弁えていた。
二人で何か一杯飲もうと、メニューを取って見る。だが朝晴は選ぶ心の余裕がない。なので適当にコーヒーと決める一方で、知美はメニューを真剣に選んでいた。初めて来たのもあり、何があるのか分からないのもある。
「決まりましたか?」
すると知美がそう話しかけてきたので、朝晴が頷く。
「はい。知美さんは?」
名前にさん付けで呼ぶと、知美は笑顔で頷いてくれた。やはり好きだ、そう思いながら何を頼んだのか訊ねる。
「私は……ココアにします」
「分かりました」
聞いた朝晴は、近くを通りかかった店員を呼んでから注文をする。待っている間に、朝晴は何か話題を出そうと思った。
「あの……」
「朝晴さんは……」
そこで二人でほぼ同時に発言をしてしまう。なので互いに笑った後に、発言の譲り合いをした。だがどちらが話を始めるか決まらないところで、注文したものが提供される。なので二人では、カップを持ち上げた。
いつも飲み慣れている一方で、知美にとってはこの店の飲み物の味は初めてとなる。なのでドキドキとしていると、知美が一口含んでから笑顔をこちらに向けてくれる。美味しいらしい。
「美味しいですね」
二人の間に柔らかな雰囲気が流れると、自然と会話が続くようになる。なのでこの日は、約三十分は二人でカフェに滞在していた。
後日も週に一度の頻度で会う。そして一週間のうちに会う頻度が増えていくと、二人はいつの間にか友人ではなく恋人同士になっていた。朝晴にとっては理想の彼女のでき方で、大変喜んだ。友達から恋人に変化するならば、付き合いやすい。
休日になると二人は遊ぶ約束をしたが、誘うのは殆どが知美の方だった。朝晴は積極的だと思いながら、誘いを受ける。勿論、朝晴は知美とのデートを楽しんだ。知美もそうに違いないと思いながら。
すると長く長く付き合い、知美の両親に挨拶するまでの間柄になっていた。
だが幸せな日々は、突然に終わりを告げる。
数年後の十一月のある日、朝晴はいつもの待ち合わせ場所となったカフェに呼び出されていた。互いに五分前に到着するのだが、今回だけは知美が先に来ている。テーブルを見れば既にココアを注文しており、飲み切った後である。
向かい側の椅子に座ると「もう来てたんだ」と笑いながら言い、メニューを見ることなくお冷やを持って来た店員にコーヒーを注文する。そして店員が去った後に、知美はこう言う。「私達、別れましょう」と。
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