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②
十一月の雨がよく降る夜に、朝晴は傘など差さずに立ち尽くす。
原因は何年も付き合っていた知美と別れたからだ。どうしてなのか、どうして知美は自身と別れようと思ったのか。朝晴は自身の行動を振り返ってみるが思い当たる箇所はない。そして知美は、理由を告げないまま、すぐに立ち上がってカフェを去っていく。
皮肉にも、テーブルには千円札が置いてあった。これはココア代なのだろうが、一杯だけというには高すぎる。朝晴は出会った頃のことを思い出してしまい、涙をどんどん流していた。だがそれは上から降ってくる雨により、どんどん流れてしまう。どれが涙で雨粒なのか、分からなくなってしまう。
「どうして……」
知美から別れを告げられたのは約一時間前である。そして現在居るのカフェから出てすぐそこにある駅前だ。様々な傘が通り過ぎる中で、朝晴は傘を差していない。いや、折り畳み傘を一応持っているのだが、差すという思考になかなかなれなかった。
そして朝晴は思った。知美と出会ったのは、ちょうどこの時期だったと。よく二人で記念日を設定しては楽しんでいた。だがもう、その日は永遠に来ない。知美とは、もう別れてしまったのだから。
人々がちらりと朝晴を見ていくが、誰も最終的には見て見ぬふりをする。当然だろう。男が傘を差さずに立ち尽くしていては、誰も話しかける気になれまい。だが女であれば、話は違っていただろう。
朝晴は冷たくなってきた息を吐きながら、このまま家に帰るのか考えた。しかし全身がずぶ濡れで、帰った後に濡れた服を脱いでから、悲しみに明け暮れながらシャワーを浴びベッドに入るのは嫌だと思えた。ならば友人を頼ればいいものを、彼女に振られたなどとは言えずに俯く。
この雨はいつ止むのだろうか。そう考えていると、雨が落ちてこなくなった。不思議に思いながら見上げれば、上には傘がある。傘を、誰かが差し出してくれたのだ。
驚きながら周囲を見渡し、ようやく傘の主を見つける。目の前だ。相手は朝晴よりも身長の高いスーツ姿の男であった。通勤鞄のようなものを持っているが、仕事帰りなのだろうか。それも、男の朝晴から見てもかなり顔が整っている。年齢は朝晴よりも上だということが、雰囲気で分かった。まるでモデルか俳優のように見える。
あんぐりと口を開けていると、男が口を開く。
「風邪を引くぞ」
外見と相応の低く落ち着いた声で男がそう言った。朝晴は何か返事をしようとするものの、返事が思い付かない。そもそも、どうして見ず知らずの自身に傘を差し出したのか疑問しかない。それ以前に、傘など差さない自身に問題があるのだが。
朝晴は男に対して何も答えない。いや、答えたくないのだ。寧ろ何か言いたいことでもあるのかと、睨みつけた。しかし男に効果はないようだ。後ずさりをすると、ぐいと男に腕を掴まれる。傘の中に入れてくれようとしているのだ。
頭上で溜め息が聞こえた。呆れているのだろうと思っていると、男が再び口を開く。
「来い」
「……えっ?」
驚きの一言である。朝晴は気の抜けた返事をするが、思考を働かせる。するとこの男は不審者なのではないのかと思えた。なので手を振り払おうとすると、男の頭や肩が濡れていることが分かる。傘が朝晴の方へと傾いているから故に。なので雨は次第に、男の体を包もうとしていた。
「風邪を引くぞ」
まるで同じことしか言わないゲームのNPCのように、そう繰り返す。そこで朝晴は、諦めて男に手を引かれた。もう、どうにでもなれと。
男が手を引いていくと、傘に二人で入る。だがこのような形で相合い傘をするのは最悪過ぎる。男とというのもあるが、今の朝晴は結婚を考えていた彼女に振られた後というのもあった。
男の方を盗み見してみると、朝晴と相合い傘をしていても特に嫌な顔はしていない。寧ろ自然とした態度である。
何だこの男は。どうして見知らぬ自身に、雨に濡れてまで傘を差し出したのか。朝晴は不思議で仕方がなかった。なので理由でも聞いてやろうとすると、男が言う。
「タクシーに乗るぞ。寒いだろ?」
耳を疑った。相合い傘した挙げ句にタクシーに乗るなど、どうかしている。だが着いて行くことになった朝晴にも非があるので、素直に男に着いて行く。向かう先は、タクシー乗り場である。
すぐにタクシーを拾うことができると、自動でドアが開いた。
男がまずは運転手に雨に濡れていることを伝えた。だが運転手が嫌がることは当然である。しかしこちらは客なので運転手は拒むことはできない。それよりも、朝晴はタクシーに乗っていいのかと考えてから、男にそれを言おうとした。そこで、男は鞄を開けてまさぐり始める。
何かを取り出すのだろうかと手元を見ると、男の鞄から大きなビニール袋を取り出す。これを、座席に敷いていいかと運転手に尋ねていた。すぐに了承を得ると、後部座席にビニール袋を敷いてから、先に乗るように促す。朝晴は次第に申し訳ない気持ちになりながら、座席に座った。朝晴が運転席の後ろで、男が助手席の後ろだ。ビニールのかさかさという音が、動く度に鳴る。
次に男が傘を畳みながら乗ると、ドアが閉まったところで行き先を告げる。ランドマークとなる場所であるが、朝晴の自宅アパートの近くであった。思わず男の顔を見ると、男がどうしたのかと言いたげにこちらを見てくる。
整った顔を再度見たところで「いや、何でも……」と言って視線を逸らした。そこでタクシーが走り始める。運転手は、何だか少し機嫌が悪い気がした。
雨は未だに降っているので、雨粒が車体に落ちる音がよく聞こえた。その音があるので、車内が静まりかえっていても気まずくはない。朝晴は見慣れた景色を、後部座席の窓から見ていた。
数分を要して、目的地に到着した。このタクシーは電子決済も利用できるので、男がすぐに交通系ICで支払うと運転手に述べる。すると運転手が端末を操作した後に、男がスマートフォンを取り出して支払いを済ませた。すると男がタクシーから降りた直後に、傘を差す。男が更に雨に濡れるが、やはり本人は気にしていないようだ。
次に朝晴が降りるがその際に敷いていたビニール袋を持つ。座席には、目立った濡れがない。運転手がそれを確認すると、機嫌が直った。どうやら、座席が濡れていないか不安だったらしい。
朝晴は運転手に礼を述べると、ドアが閉まってタクシーが走り去った。それを見送っていると、男が「偉いな」と褒めてくれる。思わず、朝晴は男の方を見上げた。
「何か文句でもありますか? あと、ここまで連れて行ってくれてありがとうございました。僕は傘を……って、どこに行くんですか!?」
言葉の途中で、男が朝晴の手を引いた。なので朝晴がその手を振り払うと、男が不思議そうな顔をしている。
「どこって、俺の家だが?」
「はぁ!?」
おかしい。この男はおかしい。なので敷いていたビニール袋を男に押しつけた後に、傘から出た。しかし再び雨に当たり、急激に寒気が走ったのだ。朝晴は思わず立ち止まってしまう。
「ほら、入れ」
「……はい」
何だか悔しいが、朝晴は傘に入る。そして男がどこかに指を差すので、朝晴はその方向を見た。目の前には、綺麗な高層マンションがある。朝晴は男とマンションを交互に見てしまった。
「風邪を引くから早く入れ。俺も寒いんだ」
「あっ、すいません……」
男がかなり抑揚をつけながらそう言うので、朝晴は何故だか謝ってしまった。そして男と共にマンションに入る。自動ドアを通り抜けた。
そしてもう一枚自動ドアがあるのだが、側には何やら腰くらいの高さまである機械がある。それは0から9までの数字ともう二つのボタンで構成されているのだが、男は慣れた様子で操作した後に自動ドアが開いた。
「行くぞ」
「……はい」
男に着いて行き、自動ドアをくぐり抜けるとすぐに閉まった。ここはオートロック式になっているのだろう。朝晴はそう思った。
そして前を見れば広いエントランスがあり、男はそこを当たり前のように歩く。住民なのだから当然だろうと思った一方で、朝晴は初めてこのようなマンションに入っていた。なので猫背気味になりながら男に着いて行く。
空いているエレベーターに入るが、そこで朝晴はようやく寒いと思えた。ここは暖房が効いているせいで、ようやく感覚が戻ってきたのだろう。体を震わせると、男が溜め息をついてからスーツのジャケットを脱ぐ。それを朝晴の肩に掛けてくれた。
「えっ……?」
「寒いんだろ?」
「は、はい……」
このようなことは、男である朝晴によりも彼女にしてやるべき行動だろう。だがジャケットは男の体温を充分に吸っているので温かい。思わず、安堵の息が漏れてしまう。
またしても男がエレベーターのボタンを操作した後に扉が閉まる。そして僅かな浮遊感が襲いかかってきた後に、エレベーターが動く。見れば目的の階は三十階で、最上階らしいのが分かる。
エレベーターが上がっている間は、二人は何も会話を交わさなかった。朝晴は気まずいと思いながら、エレベーターの天井を見つめる。明るい照明がよく光っており、視界でさえも温まってきた。
そうしているうちに、ようやく目的の階に到着した。扉が開けば広い廊下があり、交互に幾つかのドアがある。壁は木を模した茶色の壁紙が張ってあった。まるでホテルのようだ。自身が住んでいるアパートとは、ほど遠いくらいに何もかもが違い過ぎる。
男がまたしても先頭を歩き、朝晴がその後ろを着いて歩く。床には灰色の落ち着いた絨毯が敷かれているので、足の裏でその感覚をよく拾う。柔らかかった。
「もうすぐだ」
男が歩きながらそう言いながら、正面を指差した。朝晴は男の広い背中から覗くようにその方向を見れば、奥に一つのドアがあった。恐らくあそこが、男が住んでいる部屋なのだろう。
「はい……」
小さく返事をすると、そのドアの前に到着をした。男が鞄からカードのようなものを取り出すと、ドアの横にある端末のようなものにかざす。解錠音が聞こえた。
「入るぞ」
「はい」
この男が、犯罪者だったらどうするのだろうか。朝晴は今更ながらにそう思ったがもう遅い。玄関に入ってしまうと、ドアが閉まってから自動で施錠されたらしい。ガチャリと音が鳴った。
男は朝晴のことを確認しないまま靴を脱ぐが、そこでようやく振り向いた。
「どうした? 上がれ」
「え、えぇ……? は、はい……」
朝晴は遠慮気味に答えてから、靴を脱ぐ。しかし靴下までも濡れているのだが、本当に上がってもいいのかと思える。見れば玄関までも広く、そして掃除が行き届いていた。短い廊下があり左右に交互にドアが二つずつあり、突き当たりに一つドアがある。相当に広い部屋があるのだと思えた。
だがもう躊躇はしていられない。この男が考えていることが全く分からないのだが、朝晴は自分自身で賭けをする。この男が善意でなのか、或いは悪意を持ってなのか。朝晴はこの男を今更疑うのかと問いかけた後に、前者を取ることにした。靴を脱ぎ、綺麗な床を濡れた靴下で汚す。
「よし、風呂に入れ。脱いだものは洗濯機に入れろ」
「えっ……? あ、はい……」
男がとあるドアを指差すが、そこが浴室なのだろう。なのでドアをゆっくりと開けると、脱衣所が見えた。洗面台や洗濯機もあり、やはりここも掃除が行き届いている。棚もあるが、洗剤やタオルがきっちりと並べられていた。
振り返れば、男の姿は無い。しかし探す訳にはいかないと、ドアを閉めてから濡れた服を脱ぎ始める。だが皮膚に張り付きなかなか剥がすことができない。今の服装は男に借りたジャケットにセーターにジーンズなのだが、特にジーンズは苦労をした。ようやく脱ぎ終えると、それらを洗濯機に入れていく。そこでジャケットはどうすればいいのか分からなかった。なので洗濯機の縁に掛けておく。
次に洗濯機の操作はどうするのだろうか。そう思った朝晴だが、そのような疑問は後にすることにする。ここは、自宅ではないのだから。
全裸になった後で、浴室に入る。やはりここも広く綺麗だ。朝晴はあまりの社会的なステータスの違いがあり、恐ろしくなり震えたりもした。しかし今は体を洗うしかないと、操作に慣れないシャワーコックを捻る。
冷水が出てきたものの、すぐに温かい水が出てきた。頭から被っていく。朝晴の体が温まると、生き返ったように錯覚してしまう。それくらいに、朝晴の体は冷え切っていた。
もうしばらく温水を体に掛けていると、体の芯が温まった気がした。なのでシャワーを止める。濡れた髪を掻き上げながら、浴室から出る。するといつの間にか洗濯機が回っており、男が操作してくれたのだろうと思った。
足元にはマットが敷いてあり、その上に足を乗せる。そこで着替えはどうするのだろうと思っていると、目の前の棚に見慣れない布があった。もしかしてこれが着替えなのだろうと、それを手に取る。新品の下着と、少しよれた上下のスウェットがあった。これを着ろということらしい。朝晴はそれらを身に着けていく。だがスウェットは朝晴の身長ではだぼだぼだが、文句は言えない。ズボンの裾を上げてから折ると、歩き出す。
脱衣所を出ると、すぐそこに男が立っていた。未だにワイシャツ姿なのだが、寒くはないのかと思える。
「とりあえず座れ」
男は着いて来いと言うように歩き出す。向かう先は朝晴でも何となく分かっており、突き当たりの一つのドアだ。
予想通りに、男がそのドアを開いたので、朝晴は何も言わずに着いて歩く。この部屋はリビング兼ダイニングキッチンらしく、広さは中々のものだ。
男が部屋の奥のソファに向かう。ソファは二人掛けのものが向かい合って置いており、男が壁側の方に座った。対して朝晴はその向かいである。近くには本棚があり、上の段には何かが倒れているように見えた。だが人様の家で勝手に何かを探ることはできず、朝晴は視線を逸らす。
そして男が一つ息を吐くと、口を開いた。
「どうして、雨の中を、傘を差さずに立っていた? 何かあったのか」
かなり今更になる質問だが、朝晴はここまで来たので正直に答えることにした。男の整っている顔を見ながら、はっきりと答えていく。
「……五年付き合った彼女に、振られました。それで、あまりのショックに、傘を差さずにいたんです。その……情けないところをすみません」
「振られたのか。俺も何度もあるから気持ちは分かる」
男の返事に、本当なのかと疑いたくなった。その整った顔に、このような住まいではさぞかし異性が放っておかないのかとしか思えない。それにこの部屋の広さからして、異性と同棲でもしているのかと予測した。なのでただの適当な同情かのように聞いていく。
そして次は朝晴が質問をする番だと思えた。なのでとても重要な質問をしていく。
「まずは、助けて下さりありがとうございました。ですが、どうして見ず知らずの僕を助けてくれたんですか? 僕は、貴方と知り合いではない筈ですが……」
男が一つ頷く。そして答えを述べようとするが、内心では怖くなってきていた。この男の行動は先程から不明過ぎる。なのでこの男の本意を少しでも知ることができる筈なのだが、朝晴はどうしてなのか恐れがあった。分からない。またしても、この男が善意を持って自身に話しかけてきてくれたのか分からないのだ。
朝晴は固唾を飲みながら男の回答を待つ。
「何となくだ」
「えっ」
一瞬にして肩の力が抜けてしまった朝晴は、そこで体が崩れかけた。あまりにも予想外でかつ、理由が大雑把過ぎるからだ。
しかし朝晴はまだ分からないことがある。この男の名前だ。一方的に聞くことはできないので、まずは朝晴から名乗る。
「あの、僕の名前は桃井朝晴と言います。それで、貴方の名前は?」
「……ん? もしかして、俺か?」
「他に誰がいますか?」
この男はどうやら少しズレている、朝晴はそう思えた。
「安東京介だ」
男、もとい京介は何ともないような様子で答える。そして朝晴はやはり京介のことを知らない。なので溜め息をついていると、脱衣所のある方向から僅かに洗濯機が揺れている音が聞こえる。とても規則的だ。
「君は……朝晴君は、早く帰った方がいい。明日も平日で、君も仕事なのではないのか?」
「はい、分かっています。ここまでして下さって、ありがとうございました。お借りした服は、近いうちに返します」
頭を下げる朝晴だが、そこで京介が何かを考えている様子を示す。どうしたのだろうと思っていると、京介が思い出したように言う。
「すまないが、貸した服は明日返して貰えるか? 俺は、あまり服を持っていないんだ。このままでは寒い中で全裸で寝る羽目になってしまう」
朝晴は頭の中で情報を取り入れようとしたが、いまいち渋滞してしまっていた。服をあまり持っていない、それは良いとして、全裸で寝るとは何なのだろうか。想像をしたくないが、朝晴はつい想像してしまう。
「わ、分かりました。あと、待ち合わせとかあるので、よろしければ連絡先を教えて頂けますか。お借りした服は、なるべく明日にでも返しますので」
「そうしてもらいたい。では……」
二人は同時にスマートフォンを取り出し、そして朝晴はメッセージアプリを開いた。どうせ服を返すまでの関係になるだろうし、いいだろうとアプリ内でQRコードを表示させる。それを京介に向けた。
続けて、真似をするように京介もスマートフォンの画面を見せてきた。その必要はないと指摘をしようとすると、名前と電話番号が表示された画面がある。二人は同時に「えっ?」と疑問の声を上げていた。
「……あの、このアプリ、使ってないんですか?」
「あぁ……そうなのかもしれない」
「かも……しれない?」
見たところ、京介は機械音痴なのだろうか。或いはスマートフォンにあまり関心が無いのだろうか。
この世には様々な人間がいる。朝晴の中でそのような思考が回ったところで、メッセージアプリを閉じた。代わりに京介のようにアドレス帳を開いてから、名前と電話番号を表示させてから見せる。京介に合わせたのだ。
「すまないな、疎くて……」
「いえ、大丈夫です」
やはり京介とは年代が違うのだと痛感させられた。しかし年齢はどれくらなのかは分からない。年上だということしか分からない。
内心で首を傾げながらも、二人は連絡先を交換した。朝晴は礼を述べる。
「ああそうだ、体調を崩すことはないか? 今は大丈夫なのかもしれないが……」
「大丈夫ですよ」
軽く笑った朝晴は立ち上がるが、そこで立ちくらみがした。それに頭が重いように感じるが、嫌な予感がした。それでも京介に迷惑を掛ける訳にはいかないと、頭を振る。
「あれ……?」
それがいけなかったのか、体が崩れようとしていた。すると京介が慌てて立ち上がり、朝晴の体を支えてくれる。
京介と密着をするが、逞しい体だと思えた。対して自身は痩せ気味で、何とも情けない。気持ちを暗くしながらも、小さく礼を述べてから挙言う助から離れようとする。だが、京介が離してくれないのだ。それに京介の整った顔が間近にあり、同性である朝晴でさえも心臓が高鳴った。
「大丈夫ではないだろう」
京介の声には静かな怒りが籠もっていた。思わず朝晴は眉を下げてしまう。
「すみません……」
朝晴が謝ると、そこでようやく京介が体を離してくれた。そこでつい、京介の体が傍に居らず寂しいと思えた。そこで朝晴は首を横に振る。このようなことを考えている場合ではないと。
「ん? どうした? 顔が赤いが……熱か?」
「えっ!? あっ、そ、そうかもしれません! あの、それで……」
朝晴は遂に京介と顔が合わせられなくなる。分からない、この感情は何なのだろうか。熱のせいなのだろうか。
頭がぼうっとしていると、頭上から再び声がする。
「少し休むか?」
「いえ! 大丈夫です。あと、今日はお世話になりました。僕はこれで!」
言い切ってから踵を返す。玄関に向かうと、京介が着いて行ってくれた。自身の濡れた靴に辿り着くと、履こうとする。
だが冷たく濡れているのは当然なので、躊躇を見せてしまった。朝晴はここで履かなければ帰ることはできない。そう言い聞かせてから、靴に足を入れる。予想通りに冷たく、そして気持ちが悪い。ついには苦い顔をすると、京介に微かに笑われた。
「……いや、すまん。あ、あと俺のだがこれを使ってくれ。因みにだが、ここから家まではどれくらいだ? 答えたくなければいいが」
「歩いて数分です」
「数分か。では近いな」
京介が見上げながらそう言うが、脳内で地図を展開しているのだろうか。その様子を見ていると、脳内の地図をしまった京介が傘を後で渡す。順番が逆なのではないのかと思った。しかしそれを口に出さないまま、礼を述べてから傘を受け取る。
傘は先程京介が使っていたものだが、いいのかと顔を見た。京介は頷く。
「もう一本あるから大丈夫だ。あ……迷うだろうから、エントランスまで送って行こう」
頷いた京介は革靴を履くと、共に出た。施錠はやはりここもオートロック式なのか、ドアが閉まると途端に施錠音のようなものが聞こえる。
「さぁ、行こうか」
「はい、すみません」
再びホテルのような廊下を歩き、エレベーターに乗る。そして京介が操作をすると、一階へと真っ直ぐに降りていった。
一階に到着すると、ドアが開く。エントランスに出るがここの辺りは外と同じ気温なのか寒い。朝晴は思わず体を震わせる一方で、京介は未だにワイシャツ姿で何も羽織っていない。なので「寒くはないのか」と問いかけると、京介が首を横に振った。
「少し……寒いな……」
声が震えていた。そのような姿では無理もないと思いながら、本日何度目か分からないくらいの礼をする。
「では、今日はありがとうございました。では、明日には必ずこの服を返しますので、よろしくお願いします」
「あぁ、また明日」
京介が手を振ってくれる。そのときの表情はとても楽しげだが、やはり優しい人間だと思えた。警戒していたことを自身の中で反省した後に、エントランスを出る。ここはエントランスよりも格段に寒い。冷たい風が当たるせいでもある。
あのままずっと雨に打たれていれば、どうなっていたのだろうか。朝晴はぞっとしながら、帰宅していった。
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