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③
翌朝、朝晴はこの日はリモートワークでありかなり時間に余裕があった。この日の天気は曇りで、スマートフォンで確認すれば、予報では雨が降らないらしい。
だが今日は体調が悪いように思えた。昨夜と同様に、頭が何だか重たいのだ。やはり、あのまま雨に打たれていれば、どうなっていたのかと考えてしまう。
そう考えている間にも、スマートフォンの中にインストールしているゲームを起動させていた。ログインボーナスを取得してから、適当に操作していく。だが朝晴はいわゆる無課金ユーザーであるので、まだポイント等が貯まらないことに小さく苛立つ。
早くとも夕方のところで京介から何か連絡が来るのだろうと、そこでようやくベッドから出る。時間はまだ八時で、PCに向かわなければならない九時までにはまだ時間がある。
まずは支度をした後に、昨夜に京介から借りた服と洗剤を洗濯機に入れる。この洗濯機は乾燥までしてくれるので、そのコースを選んでから朝食作りをしていく。とはいえやはり、朝食の内容は簡単なものだ。トーストとコーヒーである。
そろそろ朝食の内容を変えた方がいいのかと思いながら、PCの前でトーストを食べていった。時刻はまだ八時半と、まだ時間に余裕がある。
息をつきながらコーヒーまで飲みきった。一つ息を吐くと、スマートフォンを見る。今から、京介にいつ待ち合わせをするか考えた。しかし定時はいつなのか、残業はあるのかが分からず今から訊ねる勇気はない。
ぼーっとしていると、顔が熱くなってきたよううに思えた。やはり風邪を引いており、症状が重くなってきたのだろうか。
そこで朝晴は、五年も付き合っていた知美との思い出が頭の中を過る。朝晴にとっては人生で初めての彼女であり、恋愛というのはどういうものなのかはっきりと学習できた。そう、恋愛とは当時は楽しいものなのだと。なので知美と本気で結婚を視野に入れていた。
しかし知美に別れを切り出されてからは、朝晴の中では絶望しかない。そして自身の中で何がいけなかったのかくらいは、指摘をして欲しかった。だが今更聞くということは格好が悪いうえに、連絡をしても無視をされるのではないかという恐れがある。
ふとメッセージアプリの友だち一覧を見れば、知美のアイコンがない。これは、確実にブロックをされたのだろう。
あまりのショックに項垂れながらスマートフォンを置いてから、何気なしにPCの電源を点ける。すぐに起動した後に、適当にインターネットサーフィンをしようと考えた。だがそれはスマートフォンでもできるうえに、今は調べたいことなど浮かばない。なのでPCを一旦スリープモードにした、その瞬間に京介からメッセージが来た。朝晴は思わず驚いてしまう。
「……わ!? わ!」
焦りながらメッセージを確認すれば「何時くらいが空いている?」とある。対して朝晴は「十八時以降なら」と返すと「分かった」と来るが、後は返事のしようがないだろう。なのでSMSアプリを閉じた。
そこで洗濯機から電子音が聞こえた。これは乾燥まで行ったと知らせるもので、すぐに立ち上がってから洗濯機に向かおうとする。
視界が揺らいだような気がした。朝晴は慌てて体勢を整えようとするが、それが寧ろ悪手だったらしい。ぐらりと視界が動いた後に、肩から壁に激突した後に体が床に落ちてしまう。朝晴は痛みのあまりに、震えるような息を吐いてしまった。
やはり今日は体調が悪いのかと思えたが、仕事があるうえに京介との約束がある。どちらも自ら潰す訳にはいかないと、腰をゆっくりと上げた。肩が痛い。
苦悶の表情を浮かべながら、朝晴はようやく洗濯機の元に向かう。自分のものも洗濯をしたので、まずは京介に借りた服と仕分けていく。京介のものだけ取り出すと、それを軽く畳んでいく。
さすがにこのまま返す訳にはいかないので、紙袋を探す。どこかに綺麗なものがあったと、部屋の中を頭に浮かべてから考える。すると思いついた。クローゼットの中にあったかもしれないと、そこを開ける。確かにクローゼットの中にあり、それも何枚も畳んでしまっていた。
前の自身の行動を褒めながら、朝晴はその中から適当に一枚取り出す。それに京介の服を入れるが、そこで慣れない香りがした。これは京介の服であるが故なのだが、心臓がどくんと鳴った気がする。いや、これは自宅で慣れない香りを嗅いだせいだ。
自身にそう言い聞かせた後に、朝晴は紙袋に京介の服を突っ込んだ。そしてベッドの上に置くと、首を横に何度も振ってからPCの前に座る。再び電源を点ければ、もうじき仕事を始めてもいい頃合いになっていた。なので頭を切り替えると、朝晴は黙々と仕事をしていく。
時刻は昼になろうとしていた。そこで上司から、昼過ぎにミーティングをするというメールが届く。了承の返事をした後に、昼食を食べようと立ち上がる。やはり足元が覚束ない。
ふらふらとした足取りで、冷蔵庫に向かってから開ける。しかし冷蔵庫は空だ。今朝食べたトーストが最後だったのだろう。
朝から確認しておらず、朝晴は溜め息をつきながらコンビニで何かを買うことを考える。
なので家から出るが、雨は降っていない。それにコンビニはすぐ目の前なので、傘は必要ないと思いスマートフォンと鍵のみを持って行く。
コンビニに入るが、特に食べたいものがない。どうしてなのだろうか、食欲がないのだろうか。首を傾げながら店内を見回すが、やはり食べたいものがない。なのでレジ横にある肉まんを見た後に、それを買うことにした。飲み物は、家でコーヒーを淹れたら充分だろうと。
なので会計をした後に、家にすぐに戻る。まだ熱い肉まんを机のPCの前に置くと、湯を沸かす為に電気ケトルに水を淹れてスイッチを入れた。すぐに沸くとコーヒーを淹れてから、熱い肉まんを食べ始める。熱い。だが美味い。
思わず頬が緩んでしまいながら、昼食を済ませた。その後はベッドの上に横になり、スマートフォンでゲームを起動する。そして何回もの操作をしていけば、ミーティングの時間が迫っていた。
急いで起き上がってから、モニターの上にあるカメラを操作した後に身なりを整えた。時間を確認すればミーティング五分前だ。アプリを起動する直前にに咳払いをしてから、既に待機している上司などに挨拶をしていく。
ミーティングは短いものであったが、途中で上司に「顔色が悪い」と指摘されてしまう。朝晴は否定をしようとしたが、否定ができないくらいに辛いことを自覚してしまう。なので上司に「早く休め」と言われた後に、ミーティングが終わる。
そこで朝晴に限界がきたので、PCの電源を落としてからベッドになだれ込む。幸いにも京介に返す服が入った紙袋は床に落ちてくれた為に、巻き込んでぐしゃぐしゃにするということはなかった。
見慣れた天井を見ていくうちに、視界が霞んできた。眠たいのだろうか。コーヒーを飲んだ直後であるというのに。そう思いながら、朝晴は目を閉じてから眠ってしまっていた。
目を開ければ、時刻はちょうど夕方の五時を示していた。もうじき暗くなるのか、窓から見える夕陽がよく照っている。
飛び起きた朝晴は現在時刻を確認した後に、安堵をする。京介との約束をすっぽかしていないのだと。しかし京介の仕事の具合が分からないし、聞くのは躊躇してしまう。なのでスマートフォンでもう一度時間を確認した後に、目を覚ます為に外に出ることにした。少し眠ったことにより、体調が良くなってきたような気がするからだ。京介の服が入った紙袋と、それに借りた傘を持つ。
外にすぐに出れば、寒い気がした。陽が徐々に沈んでいき、気温が下がってきているからなのだろうか。少し着込めばよかったと、朝晴は後悔をしながらも歩いていく。
既に帰宅ラッシュは始まっており、人々が忙しなく歩いている。ビル群から陽の光が差し込み、眩しいと思えた。だが、この光景が日常を象徴するものだ。それが何と素晴らしいことなのかと、五年前に地震を経験した今でも思う。当時は、目立った被害を被っていないのだが。
空を見ながら歩くと、足はいつの間にか知美と別れたカフェに辿り着いていた。苦い顔をした朝晴はそのまま立ち去ろうとするも、知美との思い出を求めて入ってしまう。そして店員に席に案内された後に椅子に座ってしまう。皮肉と言うべきなのか、席はたまたま知美と別れたところと同じであった。
溜め息をつきながらメニューを見る。そこには知美がいつも飲んでいたココアの文字があり、今はやけに引きつけられてしまう。
するとどうしたことか、朝晴は店員を呼んだ後に、ココアを注文してしまっていた。やはりまだ、頭がぼんやりとしているのかもしれない。
ココアが提供されるまでぼんやりと待つが、ここは駅前である。人々の往来が更に激しくなっている様子をただ見ていた。そしてスマートフォンを見るが、京介からは何も連絡が来ない。
すると、このまま連絡が来なかったらどうなるのだろうかと考える。だが朝晴は京介ともっと会いたいとも会えてしまう。五年も付き合った知美との別れを、ずつと惜しんでいるというのに。
顔を歪めていると、ココアが来た。目の前には、知美がいつも飲んでいたココアがある。店員が去った後に、朝晴はカップを持つ。
知美はこのココアを飲みながら、どう思っていたのだろうか。自身に対して、どのようなことを思っていたのだろうか。それらを考えるが、自分の中で答えが出る筈もない。溜め息をつくと、少し冷ましてから飲み始める。暖かいココアが、胃の中に入っていく。すると体の芯が温まり、自然と前向きな気持ちが溢れてくる。だがこれは一時的なものだろう。
少しは時間が潰せたかとスマートフォンを見ると、唐突に京介からの着信が入る。静かに慌てた後に、一度深呼吸をしてから通話を始める。それくらいでないと、やはり京介と話すことができなくなってしまっているからだ。
『もしもし? 京介さん?』
『朝晴君、今は大丈夫か?』
スピーカーからは雑踏が聞こえ、聞き覚えのある音が聞こえた。これは電車のホームでよく聞く、電車が来るアナウンスだ。なので京介は会社の最寄り駅のホームに居るのだと確信した。
『朝晴君、今はどこに居る? 俺は今は駅のホームだ』
『僕は家の近くのカフェに居ます。もうすぐで帰宅されますか?』
『あぁ、そうだ、駅で待っていてくれ』
すると京介が待っているホームに電車が来たようだ。慌てながら通話を切断されると、時計を見る。恐らくは、あと二十分くらいでここに来るのだろう。そう思いながらも、ココアをゆっくりと飲んでいく。まだココアは冷めておらず、それに半分以上は残っているからだ。
ココアから立った後に消えていく湯気を見ながらも、ゆっくりと啜っていく。すると知美への後悔が、このココアのように消えていくのを感じた。すると一つ息を吐いてから、ココアを一気に飲み込む。
京介はまだ来ないかもしれないが、もしかしたら早く来る可能性もある。どこの駅から乗ったのかも分からないのに、朝晴は置いてある伝票を持って会計をすると外に出た。
外を出れば、小雨が降っていた。それも、室内からは観測ができないレベルであったが、急いで京介から借りた傘を差す。
そこで気付いたが、京介は傘を持っているのだろうか。自身に傘を貸したとなると、傘をもう一本持っていないことを予想してしまう。そして今から家に戻り自身の折り畳み傘を持って来るという考えもある。しかし、どうにもその気が起きないのだ。
このまま、雨足が強くなれば京介と相合い傘ができるのではないか。考えた朝晴だが、そこで自身はもしかしたら、京介のことが好きななのだろうか。いや、違う。証拠として知美のことをまだ引きずってしまっているからだ。裏を返せば、知美への後悔しかないことになる。
頭を掻きながら、足は駅へと向かってしまっていた。この駅の正面には大きな屋根があり、その下で雨宿りしている人をちらほらと見かける。朝晴はまずはその屋根の下に入ると、京介の傘を開いた。色は黒で大人っぽく、自身のような大人とは程遠い雰囲気には釣り合っていないように思える。だが仕方がないと、傘を差してから屋根の下から出た。
スマートフォンを見れば、京介と通話をしてから五分も経っていない。雨はどんどん強まっていき、今から家に帰るという気が削がれてしまった。溜め息をついた朝晴は、様々な傘が広げられている景色を眺めながらひたすらに待つ。
五分後に、スマートフォンが震えた。これは着信を知らせるものであるので、我に返ってからすぐにスマートフォンを取り出す。画面を見ればやはり京介からの着信であった。通話を始める。
『朝晴君、今はどこだ?』
『今駅の正面に居ます』
『分かった。今電車を降りたところだから、すぐに向かう』
一方的に切られた後に、朝晴は京介を待つ。するとすぐに、改札の向こうから京介の姿が見えた。多くの人々が居る中で、京介の姿を確実に迅速に捉えてしまう。それくらいに、京介に会いたかったのだろうか。
するとこちらに気付いたらしい京介が改札を抜け、走って向かって来る。
「待たせてしまったか」
「いえ、大丈夫です。あっ、すみません、傘、またお借りしています」
「いや、大丈夫だ。それより、傘に入れてくれないか?」
ごく当たり前のように京介が言うと、傘の持ち手を奪われた。見上げた時にはもう遅く、京介がしっかりと持ち手を持っている。
「あっ……」
「ん? どうかしたか?」
「いえ、何でも……」
見上げれば、やはり顔が整っている京介の顔が見えた。思わず顔を逸らしてしまう一方で、京介は首を傾げる。しまったと思ったが、もう遅い。
「すまないが、今は傘を持っていないんだ。だからまた、俺と相合い傘をして欲しい」
京介がそう言い切ると、マンションのある方向へと歩いていく。今回はタクシーを使う必要はないと判断したのか、徒歩で京介のマンションへ向かうのだろう。
隣に来ると、ほんのりと顔が熱い気がした。いや、これは歩いたせいなのかもしれない。そう言い聞かせながら、昨日タクシーの車内から見た景色を次はとてもゆっくりと見る。
「あっ……じゃあ、今日も傘を貸そうか。帰る時も、雨が降っていては困るからね」
「あっ、そうでした、すみません、お借りします」
傘と雨のことを考えていなかった朝晴は、思い出した後に謝る。しかし隣の京介の顔は少し曇った。どうしたのだろうか。
「……そこまで、何回も謝らないで欲しい。朝晴君は、特には悪いことはしていないのだろう?」
顔だけではなく、性格も何と良いのだろうと朝晴は思った。自身が女であれば、すぐに落ちてしまうのだろう。
そのような下らないことを考えてから、朝晴は気付く。では男でも、京介と付き合えるのだろうか。そのような思考が浮かんだ直後に、してはならないう考えだと首を大きく振る。隣で京介が驚いているような目でこちらを見た。
「今日も、何だかぼんやりとしているが大丈夫か? やはりまだ治って……」
「大丈夫です!」
なるべく声を張ったが、その瞬間にまたしても視界が揺れた。そこで京介が腕をがしりと掴んでくれると、どうにかアスファルトの上に体が落ちてしまうことを免れた。だがそれよりも、朝晴は京介の顔を視界に入れる。
そして礼を述べることを忘れてしまっている朝晴は、ただ京介の顔を凝視してしまう。
「少し、俺の家で休もう。まだ、体調が優れないようだ」
京介から自身は、どう見えているのだろうか。情けない男だとでも思っているのだろうか。朝晴はそのようなことを考えていくと、顔が青くなっていくような気がした。
「あ……いえ、その……!」
「遠慮することはない」
京介が一言そう告げてから腕をぐいと上げた。殿春が立ち上がることを助けてくれたのだろう。そこで今更になって礼の言葉を言うと、京介はただ頷いてくれた。
「歩けるか?」
「はい……」
返事をすると、京介は再び歩みを再開した。ただし、朝晴の腕を掴んだままでだ。
朝晴はその手を振り払えないまま、京介に着いていく。そして隣に並ぶが、掴んだ腕を離してはくれない。
この手を振り払うことはできた。しかし建前では、京介の善意を無下にはできない。一方の本心は、このまま京介とくっついていたいと思えた。
もう自身はだめだ。京介へは、下心しかない。それも、とても厄介なのが相手が男であるということだ。脈などある筈がない。この想いは、どうすればいいのか。朝晴は深く悩みながら、足を進めていく。だがその足が重いことに、仄かに気付いていたがそれを表に出すことは憚られた。また、京介が無意識に朝晴の心を揺さぶっていく可能性があるからだ。
内心で溜め息をつくと、京介のマンションへ向かって行く。数分で到着をしたが、エントランスに入っても相変わらず腕を掴まれていた。だがその前に、一瞬だけ手を離してくれたことがある。傘を畳む時だ。
二人でエレベーターに乗る。目的の階は既に分かっているので、京介が3と0のボタンを押した後にドアを閉めた。そこでようやく、手を離してくれる。朝晴の中での緊張の一部が、解けたような気がした。
エレベーターが動き出す。一時的に浮遊感を感じながら、朝晴はただひたすら現在の階数を見る。一方の京介も同じことをしているようだが、どうにも気まずい。このまま、無言のまま一階から三十階まで行くのか。実際にはそこまで時間が掛からないものの、体感的にはかなり長く感じた。
ようやく三十階に到達するが、そこまで二人は何も喋らなかった。朝晴は気まずさを引きずりながら、エレベーターを出る。
広い廊下を歩く、その前にと京介が朝晴の腕を再び掴んだ。驚いた朝晴は、ついその手を跳ねるように動かしてしまう。
「あっ……いえ、もう、大丈夫ですので……」
「そうなのか? まぁ、いいか」
二人で短い会話をすると、京介の部屋に辿り着いていた。スムーズに解錠をしたところで、部屋に入る。
「お邪魔します」
控えめに言うと、京介がただ「あぁ」と返してくれる。京介と共に靴を脱いでから上がった。奥の部屋に通される。
「ソファに座るといい」
「はい……」
ここまで来たからには、もう断ることも遠慮する素振りもできない。なので素直に部屋に通されると、言われた通りにソファに座った。いつ見ても広い部屋である。
京介はキッチンの部分に直行すると、電気ケトルに水を入れてから湯を沸かし始める。次に食器棚からカップを二つ取り出すが、やはり同じカップだ。やはり同棲している彼女でも居るのだろうか。そう思った朝晴だが、その可能性を考えたくない自分が居た。悔しくなっていく。
昨日と同じソファに座れば、自然と京介に背を向けることになる。なので同じ柄のデザインのカップを一時的には見れなくなっていた。横には窓があり、その反対側には本棚がある。見ればやはり昨日のように何かの物が倒れていた。他の物はきちんと立てて整列してあるというのに、不自然過ぎる。だが人様の家の物であるので、何かでもい言うことはできなかった。
背後から湯を注ぐ音が聞こえてくると、ふわりと甘い香りがした。コーヒーを淹れるのかと思っていたが、違うもののようだ。だが今の時点では、何なのかは分からない。
足音が聞こえると、そこでようやく振り向くこと居ができた。やはり京介は、同じ柄のカップを一つずつ両手に持っている。
「ココアでいいか? これしか、無いのだが」
「大丈夫ですよ」
ココアを淹れるとは、朝晴にとっては意外過ぎた。京介といえば、やはりコーヒーを好んで飲む大人のイメージがあったからだ。いや、自身も大人と呼べる年齢なのだが。
「ありがとうございます」
目の前に置かれると、礼を述べる。そして京介が向かいに座るが、相変わらず顔が整っている。京介の顔を見る度に、それしか思っていない。しかし事実なのだ。
カップを手に持ち、ココアを啜ろうとする。
「この年になっても、俺は独り身でな……」
「……熱っ!」
京介の発言が、朝晴にとっては朗報なのか悲報なのかはもう分からない。なので考えがごちゃ混ぜになった後に、ココアを勢いよく啜ってしまっていた。口の中がとにかく熱い。
「大丈夫か!?」
京介が慌てて立ち上がると冷蔵庫に向かってから、何やらガラガラと音がした。そして食器棚からグラスを取り出すと、カランカランと音がした。もしかして、氷を持って来てくれるのだろうか。
その予想は当たっていた。京介が急いで、氷が入ったグラスをこちらに持って来る。
「氷を舐めた方がいい」
「すみません、ありがとうございます」
差し出された氷を舐めると、口腔内が一気に冷えていった。そして氷が溶けていき、熱さではなく冷たさが目立ってくる。
「ありがとうございます。火傷は、多分、免れました」
「そうか、よかった」
京介が頬を緩めながらそう安堵しているが、その顔も見たくはないと思えた。
「……やはり、ココアは苦手なのか?」
「いえ、そういう訳ではないです。熱かったので……」
適当な言い訳をすると、京介は納得したらしい。
「すまない、俺は、この年になっても友人が全く居なくてな……そうだ、朝晴君、これも縁だと思うから、急で申し訳ないが、俺と友人になってくれないか? ……嫌なら、大丈夫だ。気にするな」
再びココアのカップを手に取り、熱いココアを少し啜っていく。程よい甘さが広がる。自身の思考を落ち着いたものへと、導いてくれているように感じた。しかし考えが纏まらないでいると、京介が言葉を足していく。
「……分からないが、学生の頃はよく性別問わずに何かに利用されることが多かったんだ。それもあって、人との距離を置いていたら、この様だ。こんな俺なのだが、朝晴君と仲良くなれる気がしたが、朝晴君は、どうだ?」
京介の声に、悲しみが含まれているような気がした。
そして京介の言葉を反芻させるが、何となく嘘ではないような気がした。京介ならではの悩みを、こうして正直に打ち明けてくれたからだ。
だが自身は、京介と友人関係になってでも釣り合うのか分からなかった。まずは趣味が分からないのもあるが、朝晴は京介とは違って平凡なのだ。外見からしてもステータスが違う人間同士で、友人になれるのかは分からない。ステータスが違うということは、即ち価値観が違うことだからなのだから。
それ以前に、朝晴は京介のことが好きなのかもしれない。それが一番のネックだ。これから友人として接することになっても、朝晴は京介のことを意識してしまう。その想いをいつか知られるようになれば、京介はどのような気持ちになるのだろうか。嫌なのだろうか。気持ちが悪いのだろうか。
朝晴は脳内でそのようなネガティブな考えを巡らせていると、一つの言葉が浮かんできた。京介は、自身に優しくしてくれるということだ。その言葉が頭の中に巡ると、一気にネガティブな思考が消えていくように感じた。それくらいに、その言葉の威力が凄まじい。
すると自然に、朝晴は口を開く。
「……はい、喜んで」
言ってしまった後に、京介の方を見る。驚愕の顔をしており、口が半開きだ。まるで、あり得ないとでも言いたげな様子である。そのような京介がようやく正気を取り戻すと、勢いよく立ち上がった。
「いいのか!? と、朝晴君! こんな俺だが、よろしく頼む!」
惚れてしまっていることをまずは頭の片隅に置いた朝晴は、京介の元に歩み寄る。だがその瞬間に、京介が朝晴の手を取った。
「よ、よろしくお願いします」
「こちらこそ! よろしく頼む!」
京介の顔は晴れている。まるで外の雨を吹き飛ばしてしまうかのようだが、対して朝晴は遠慮がちに喜ぶ。このまま、恋から友人へと落ち着けばいいと思いながら。
すると体を引き寄せられると、京介に抱き締められた。驚いた朝晴は京介の顔をまじまじと見てしまうが、それよりも心臓が高鳴っている。呼吸がしづらい。
しかし京介の匂いが、いい匂いだと思えた。ふがふがと嗅いでしまった後に、自分のことが気持ち悪いと思えた。なので鼻で呼吸することを止めるが、口だけでの呼吸ではいまいち苦しい。
そこで京介の体が離れた。心地の良い香りが離れ、心底で残念に思ってしまう。
「はっ!? すまない、つ、嬉しくて!」
「いえ、大丈夫ですよ。僕が男だったからいいものの、異性相手には気を付けて下さいね」
「あ、あぁ……」
京介の形の良い眉が下がる。それを見て何とも可愛らしいと思ってしまったが、もはや重症だと思えた。
このままここに居ては、気がおかしくなってしまうだろう。京介と二人きりでは、自身に次はどのような色の恋の花を咲かせてしまうのかが分からなかったからだ。
まだ熱いが、飲むことはできるココアを一気に飲み干す。そして京介を見た。
「ココア、ごちそうさまでした。今日はもう帰ります。ありがとうございました」
「分かった。お大事に。気を付けて帰って欲しい。あぁ、それに、俺には別に敬語でなくてもいい。友人同士なのに、敬語で話すのはおかしいだろう? それに、俺の名前にさんをつけるのも……」
「敬語は、今度改めます。さん付けは、分かりません。では」
そして朝晴は京介に見送られながら出ると、家に真っ直ぐ帰ったのであった。途中で足元が危なくなると思ったが、その心配はない。京介の家で少しでも休んだからなのか。
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