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第2話

 アレクシアは一日中働いている。とくに夕方は忙しい。  修道院を走り回って何百もの蝋燭に火を灯さなければならない。夕食の準備をし、皿洗いや掃除もしなくてはならない。  この日、すべての仕事が終わったのは真夜中近くだった。 「やっと終わった⋯⋯」  厨房の隅っこで疲れた腕を撫でながらやっと自分の食事——薄いスープとカチカチのパン——を食べようとしたとき、料理長に声をかけられた。 「フロリック聖女さまが寝る前のココアをご所望だ、持っていっておくれ」 「はい、すぐに行きます!」  急いでミルクたっぷりのココアを作り大きなカップに注ぐ。それから厨房の裏口から中庭へ出た。  外はもう真っ暗だ。秋の虫の声が聞こえている。 「足元に気をつけないと⋯⋯」  薄暗い中庭をゆっくりと進んだ。聖女たちの宿舎は中庭の奥なのだ。 「⋯⋯あれはなんだろう?」  宿舎の近くまで来たときだった。闇の中を白くて小さなものがヒラヒラと飛んでいた。蝶だ。どうやら羽を怪我しているようで、今にも地面に落ちてしまいそうだ。 「かわいそうに⋯⋯」  片手を差し出すと、蝶は逃げもせずにアレクシアの手のひらにそっととまった。 「大丈夫だよ、すぐに治してあげるからね」  思いやりのこもった優しい声でつぶやく。目を閉じて祈りはじめた。 「天にまします我らが主よ⋯⋯」  祈りとともに蝶はみるみる元気になった。ふわりと夜空に飛び立つ。 「治ってよかったね」  サラサラと流れるような美しい銀髪に囲まれた小さな愛らしい顔に、この日初めて笑みが浮かんだ。  アレクシアは『白百合の奇跡』と呼ばれる癒しの力で傷ついた蝶を治したのだ。  蝶が飛び去ると、アレクシアの足元の地面がふわりと明るくなり、真っ白に輝く白百合の大輪が咲いた。  聖女が奇跡をおこなった印だ——。  アレクシアが咲かせた白百合はとても大きい。一点の汚れもなく真っ白で美しい。 「いつかは僕も、だれかのお役に立てたらいいのになあ⋯⋯」  白百合を見つめながらそう思った。  平民のアレクシアには人間を治す力はない——と、先輩聖女に言い聞かされてきた。  だからまだ一度も人を治したことはない。治したことがあるのは虫や動物だけだ。 「⋯⋯さあ、宿舎へ行こう」  歩き出したとき、怒り狂った声がいきなり聞こえた。 「アレクシア!! その白百合はおまえが咲かせたのか!?」 「え?」  振り返ると、白い夜着姿のフロリックが立っていた。赤い髪を振り乱して怒っている。 「うすのろのくせに!」  フロリックは怒鳴りながらアレクシアが持っているココアのカップを叩き落とした。 「あっ⋯⋯!」  深夜の中庭にフロリックの大きな声とカップが割れる音が響きわたる。  宿舎の窓がつぎつぎに開いて、聖女たちがいぶかしげな顔をのぞかせた。 「どうしたんだ?」 「なにがあったの?」  フロリックの怒りは収まらない。手足を振り回してアレクシアを殴った。 「のろまのくせに! 平民のくせに⋯⋯!」 「やめてください、フロリック聖女さま——!」  アレクシアには訳がわからなかった。  どうしてフロリックはこんなに怒っているのだろうか?  しばらくすると聖女たちが外に出てきた。杖をついた白髪の聖女もいる。大聖女のエリザベートだ。 「いったい何ごとですか⋯⋯」  と、言いかけて、大聖女エリザベートは顔色を変えた。 「その白百合を咲かせたのはだれです?」  皺深い老聖女の顔が見つめているのは、アレクシアが咲かせた大きな白百合だ。 「⋯⋯あの、これは僕が」  アレクシアが答えようとしたときだった。 「僕です!」  フロリックがパッと手を上げたではないか!  ——え?  驚いていると、ニヤリと笑ってフロリックは強い口調でつづけた。 「兵を呼んでください! ここにいる平民オメガのアレクシアが、国王陛下に呪いを唱えているのを聞きました! こいつは陛下を殺そうとしていたのです! 悪魔です! 処刑すべきです!」 「ち、⋯⋯違います! 違います!」  アレクシアは呆然としながら必死で声をしぼり出した。  どうしてフロリックがこんなことを言い出したのかまったく理由がわからない。 「こいつは陛下を殺そうとしたのです!」 「違います!」  頭が真っ白になった。心臓はドキドキと鳴って早鐘のようで、じっとりとした冷たい汗が背中に流れる。両足はガタガタと震えて立っていられないほどだ。 「アレクシアを処刑すべきです!」 「ほんとうに違います!」  フロリックは上級貴族の令息だ。次の大聖女になるだろうと言われているし、王妃になるかもしれない。  聖女たちのだれもがフロリックの味方をした。  老大聖女エリザベスが、「兵を呼びなさい!」と命じる。すぐに荒々しい兵たちがやってきた。 「僕は違います!」  声を振り絞って叫んでも、兵たちは容赦なくアレクシアを修道院から引きずり出した。 「どうか、僕の話を聞いてください!」 「静かにしろ! 陛下を呪ったおまえは、あすの朝に公開処刑だ!」 「そ、そんな⋯⋯」  ——公開処刑?!  平民のアレクシアには裁判を受ける権利はないのだ。 「さっさと歩け!」 「あっ⋯⋯っ」  夜道は真っ暗だった。アレクシアはなんども、なんども転んだ。白い聖女服が土で黒く汚れていく。あちこちが破れ、長い銀髪も泥で汚れた。 「歩け!」  兵たちはアレクシアを殴った。痛みと恐怖に気が遠くなっていく⋯⋯。 「僕は⋯⋯、ち⋯⋯違います」  ついには地面に倒れ気を失ってしまった。  それからどれぐらいの時間がたったのだろうか⋯⋯、気がつくと秋の虫の声が響き渡る真っ暗な草原に横たわっていた。 「ここは⋯⋯?」  この場所には見覚えがある。いつも薬草を取りに来る場所だ。どこに狐の穴があるかも、どこに深い藪があるのかも、よく知っている場所だ⋯⋯。  ——ここなら隠れるところがわかる⋯⋯。逃げることができるかもしれない!  運がいいことに兵たちはかなり離れたところで休憩をしていた。アレクシアが逃げるわけがないと思って気を抜いているのだろう。  ——逃げよう!  アレクシアは立ち上がり、逃げた——。 *****  一ヶ月後⋯⋯。 「やっとここまで来た、もうすぐ国境だ——」  アレクシアはフーッと大きな息をはいて立ち止まった。  ずっと歩きつづけてきたのでものすごく疲れている。眠いし、お腹もぺこぺこだ。  ひとつに結んだ銀色の髪はホコリだらけで、灰色のフロックコートはあちこちが破れている。オメガ襟もすり切れて今にもちぎれてしまいそうだ。  聖女服の金ボタンを売ってやっと手に入れた古服だった。 「旅人がすごく多いな」  汚れた姿でも、街道を見渡す瞳だけは変わらずに清らかで美しい。  その目を大きく見開いて、街道の先をじっと見つめた。 「この道の先が国境の街だ。あと少しだ、頑張って歩こう!」  ずっとまっすぐに歩いていけば、国境に接する領地に着くはずだった。首都から馬車で二日ほどの距離だが、アレクシアは人目を忍んで歩いてきたので、一ヶ月がかかった。  国境の街を支配しているのは『辺境伯』と呼ばれる領主だ。  辺境伯とは称号のこと。  高い地位と、強い自治権を持った、国王に次ぐ権力者だ。 「他国の人たちもおおぜいやってくる国境の街だ。ここなら僕でも暮らせるかもしれない」  そう思って、やっとここまでたどり着いたのだ。  他国からの人々が混じって暮らす国境の街ならば、王殺しの疑いをかけられ追われている自分でも、なんとか目立たないで暮らしていけるかもしれないではないか⋯⋯。  アレクシアにとって最後の希望だ。 「このあたりは寒いのかな⋯⋯?」  季節はそろそろ冬のはじめ。  冷たい北風がビューッと音を立てて吹いている。  コートが必要なほどの寒さだが、もちろんコートは持っていない。 「寒いッ⋯⋯」  風が吹くたびに両手をポケットの中にぐいっと入れて少しでも暖を取った。  ポケットには山道で摘んだ薬草がぎっしりと詰め込んであった。薬草は食料の代わりにもなるし、時々はパンと交換できるのだ。 「仕事をもらえたらいいけど⋯⋯。だけどこんな汚い格好をしていたら、変に思われるかもしれない⋯⋯」  身分制度が厳しい世の中だ。こんなに汚い姿をして、身分もはっきりしない自分が仕事をもらえるのだろうか?   不安がどんどん押し寄せてくると、歩く足取りも重くなった。 「身分を聞かれたらなんと答えたらいいのだろう⋯⋯。聖女だとはぜったいに言えないし⋯⋯」  アレクシアの指名手配書はきっとここにも届いているはず。  聖女だと名乗るわけにはいかない。聖女がいると軍兵の耳に入ったらすぐに捕まって処刑されるだろう。 「困ったな、なんて名乗ろうかな⋯⋯」  悩みながら歩いていると、道の向こうに人だかりが見えた。  芝居小屋だ。たくさんの客が看板を見上げている。  その看板には、 『悪役令息と純情アルファ男爵』  と芝居のタイトルが書いてあった。 「悪役令息⋯⋯? どんなお話しなんだろう?」  主人公たちの絵も描いてあった。 「あれ? なんだか、僕に似ているような⋯⋯」 『悪役令息』の姿は、長旅の途中らしい格好で、着ている服はボロボロだ。 「まるで僕みたいだ」  芝居を観る機会は今まで一度もなかった。だからこの『悪役令息と純情アルファ男爵』という芝居が、いったいどんな話なのかまったくわからない。 「悪役令息というのは長旅をして汚い服を着ているのかな? もしそうなら、僕の身分を聞かれたら、『こんな惨めな格好で旅をしているのは、悪役令息だからです』 ——って、言ってみたらいいのかな?」  そんなことをつらつらと考えながら歩いていると、だんだんとあたりの風景が変わってきた。木々が増え、人の姿がなくなっていく。 「あれ? どこかで道を間違えた?」  どうやら街への道順を示す道標を見落としてしまったらしい。「こっちかな?」とつぶやきながらなんどか道を曲がった。  するといきなり木々がとだえ、目の前に草原——。 「あっ!」  アレクシアはのけぞるほど驚いた。  たくさんの騎馬兵たちが、広い草原を右に左に走り回っているではないか! 黒騎士たちと、黄色い騎士たちが、激しく剣を交えている。  ここは、戦場だ——! 続く

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