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第3話

 アレクシアは道を間違って戦場に来てしまったのだ。 「も、⋯⋯戻らなきゃ」  慌てて道を戻ろうした。 「うわっ!」  体に触れるほどすぐそばを騎馬兵たちが勢いよく走り抜けていく。  あまりの迫力に腰が抜けそうになった。両足がガクガクと震えて思うように歩けない。  兵たちの手にはギラリと不気味に光る長剣——。  ——殺される!  ギュッと目を閉じると、だれかの力強い手がいきなりアレクシアの腕をつかんだ。  つぎの瞬間にはまるで子猫のように軽々と持ち上げられる。 「えっ?」  びっくりして目を開くと馬の上に座っているではないか!  薄汚れた灰色のフロックコートを着た銀髪の華奢なオメガのアレクシアを、がっしりとした体格の金髪碧眼の騎士が、後ろから抱き抱えている⋯⋯。 「うわっ!」  思わず大きな声を出してしまった。  目の前の騎士が凄まじいほどの美貌の主だったからだ。現実に存在するとはとても信じられない⋯⋯。なんて整った顔立ちなんだろう⋯⋯。  ——こ、⋯⋯このお方は?  騎士は黒いマントを羽織っていた。金色の髪が冬の太陽にキラキラと眩しく光り、少しだけ乱れた前髪が額にふわりと落ちている。  男らしい眉にまっすぐな鼻筋、そして切れ長の目元⋯⋯。傲慢なほど整った美貌だ。  そしてその瞳は、吸い込まれてしまいそうに美しいコバルトブルー⋯⋯。 「戦場だと知らぬのか?」  美貌の騎士は、真っ直ぐにアレクシアを見つめながら、低く男らしい声で聞いた。 「あ、あの、⋯⋯道を間違えてしまいました」  街にたどり着くと思って歩いていたら戦場に来てしまったのだ。 「——そなた何者だ?」  騎士はアレクシアの服に視線を走らせる。  アレクシアはもう一ヶ月近く貧乏な旅を続けていた。フロックコートはひどく汚れていたし、首に巻いているオメガ襟はあちこちが擦り切れてボロボロだ。 「た⋯⋯、旅の途中です⋯⋯」  自分の行動や惨めな姿がものすごく恥ずかしくなり顔を伏せたとき、騎士が怪我をしていることに気がついた。  ——あ! ひどい傷だ!  騎士の右肩は血で真っ赤に染まっていた。弓が刺さったのを乱暴に引き抜いたような傷で、右肩の付け根近くに深い穴が開いている。その穴からは大量の血が吹き出していて、真っ赤な血がポタポタと地面に落ちていた。  普通の人間ならば気を失ってもおかしくないほど深い傷だ。  このまま放っておけばきっと命に関わるだろう。 「あ、あの⋯⋯、そんなにひどい怪我をしていらっしゃるのに、戦いにお戻りになるのですか?」  騎士は傷ついた腕で長剣をしっかりと握りしめている。こんなひどい状態でもまだ戦い続けるつもりなのだ。 「部下が待っている」  騎士は静かに答え、アレクシアの問いが予想外だったとでもいうように、ハンサムな顔に少しだけ笑みを浮かべた。  アレクシアは急に胸が苦しくなった。  ——このお方は自分の命よりも部下を大事に思っていらっしゃるんだ。だから剣を握り続けていらっしゃるんだ⋯⋯。もしかすると、命を捨てるお覚悟なのかもしれない⋯⋯。 「生きなければいけません⋯⋯」  たまらない気持ちを抑えることができなかった。細い指先を騎士の肩の傷の上にそっと置き、心の中で祈った。  ——天にまします我らが主よ。あなたのお言葉を信じる者に、どうか、あなたのお力をお与えください⋯⋯。  血がぴたりと止まった。傷口も少しずつ閉じていき、あっというまに怪我が治った。 「そなた、もしやオメガ聖女か?」  騎士が驚きの声を上げた。 「え?」  アレクシアはハッとして我に返った。  聖女の身分を知られたら処刑されてしまうのだ。そのことをすっかり忘れていた! 「ち、違います!」  慌ててブンブンと首を横に振り、大きな声で答える。 「僕は、ただの通りすがりの悪役令息です!!」 「悪役——?」  騎士は眉をひそめた。 「えっと、つまり、悪役というのは⋯⋯。あの、その⋯⋯、つまり、騎士さまの傷が治ったのは⋯⋯」  オロオロとしているとき、ポケットの中に薬草があることを思い出す。  ——そうだ、これだ!  薬草をつかんで騎士の目の前にパッと差し出した。自分でもびっくりするほどのはっきりとした声で説明する。 「この薬草のおかげです! この薬草がよく効いて騎士さまの傷は治ったのです。決して、決して——、聖女の力などではありません!!」  ——ああ、どうか、騎士さまが信じてくださいますように!  類まれな美貌の主はいぶかしげな顔をしていたが、すぐにゆっくりとうなずき、「なるほど」とつぶやいた。  ——よかった! なんとかごまかすことができた⋯⋯。  ホッとした。だがつぎの瞬間、アレクシアと騎士が乗っている白馬の足元に、『奇跡の白百合』が咲いてしまったではないか!  ——ああ、やっぱりだめだ!  聖女が奇跡の力を使うと、必ず白い百合が咲くことは、国民のだれもが知っている。  自分の本当の身分をこの騎士に知られてしまったに違いない。  ——もうだめだ! やっとここまで来たのに、捕まって処刑されてしまう⋯⋯。  小さな顔が真っ青になった。深いため息をついて下を向くと、長い銀色の髪がサラサラと流れるように落ち、青ざめた顔をおおった。  紫色の瞳に涙がにじむ。  そのとき穏やかな声が聞こえた。 「安全な場所までお連れしよう」 「え?」  驚いて顔を上げると、騎士はまっすぐ前を見つめている。  まるで白百合が目に入っていないかのように⋯⋯。  騎士は白馬を歩かせ、草原を出て道を少し戻ると、とっても丁寧な仕草で馬からおろしてくれた。  アレクシアが最愛の恋人でもあるかのような態度だ⋯⋯。 「気をつけて行かれよ、悪役令息どの——」  『悪役令息』と呼びかけると、馬上の騎士はクスッと笑った。白馬に軽く鞭を入れる。白馬は文字どおり風のような速さで戦場に戻っていった。  ひとり残されて、アレクシアは呆然と騎士の姿を見送った。 「⋯⋯どういうことだろう? 変だな⋯⋯。もしかして白百合にお気づきにならなかったのかな?」  戦いの最中だった騎士は戦場に戻ることで頭がいっぱいで、白百合が見えなかったのかもしれない。 「とにかくよかった⋯⋯。助かった⋯⋯」  ホッとすると同時にアレクシアはものすごく嬉しくなった。 「僕にも人間を治す力があったんだ!」  初めて人を治療すことができたのだ。  今まではずっと『おまえのような平民に人間は治せない』と先輩聖女たちに言い聞かされてきた。  そのせいで自分のことを『虫や動物を治す力しかない役立たずの聖女だ』と思っていたのだ。  ——僕が騎士さまを治すことができた! 「天にいらっしゃいます我が主よ、僕に癒しの力を与えてくださって、ほんとうにありがとうございます⋯⋯」  青く晴れ渡った冬の空に両手をかざして感謝した。美しい紫色の瞳にうっすらと涙が浮かぶ。もちろん嬉し涙だ。 「これからはたくさんの方のお役に立つように頑張ります。⋯⋯あ、でも僕は、逃亡中の身だった」  自分が聖女と名乗れないことを思い出す。  明るく輝いていた瞳は、風船がしぼむように元気がなくなっていく。 「⋯⋯やっと聖女の力を使えたのに」  ものすごく残念だった。  聖女の力で人々の役に立ちたい——、だけど聖女の力を使ってしまったら、噂が広がり、それを聞いた兵に捕まり処刑されてしまうだろう⋯⋯。 「たくさんの人を助けたい。だけど聖女の力を使えば捕まって処刑される⋯⋯。ああ、どうしたらいいんだろう?」  歩きながら大きなため息をついた。  すると目の前に、まるでアレクシアを試すかのように、次から次に怪我人や病人が現れるではないか!  膝を痛めた農家のおばあさん、お腹を壊して動けなくなっている青年、そして熱を出して苦しそうな赤ん坊までも⋯⋯。 「みなさん、すごく辛そうだ⋯⋯。あの方達を治してあげたい⋯⋯、だけど聖女だと知られたら困るし⋯⋯。でも、このまま通り過ぎることなんて⋯⋯。ああ、ぜったいに僕にはできない!」  アレクシアは苦しんでいる人たちを見捨てることはできなかった。おばあさんも、青年も、赤ん坊も、すべて助けた。  怪我や病気が治るとすぐに、真っ白で大きな百合の花がふわりと現れた。  聖女の奇跡の印——だ。 「あら? こんなところに白百合が咲いたわ?」  人々がざわざわと騒ぎだす。 「もしかして、これって⋯⋯」 「し、失礼します⋯⋯! さようなら、お大事に!」  長い銀髪を風になびかせて、アレクシアは走って逃げた。   国境の街へ続く街道に、真っ白な百合の花が点々と咲いていく。  そしてその白百合のあとを追うように、白馬を進めるたくましい騎士がひとり⋯⋯。 ***** 「やっと着いた! 国境の街はなんて大きいんだろう⋯⋯」  アレクシアは美しい紫色の瞳を見開いて驚いた。  キョロキョロと左右を見回しながら大通りを歩いていく。  大きな通りにはひっきりなしに馬車が通っていた。その道に敷き詰めてあるのはツヤツヤと光る宝石のような石畳だ。  なんてきれいな道だろう⋯⋯。  こんなに輝く道の上を歩くのははじめてだ。 「汚れた靴で踏んでもいいのかな?」  そんな心配をしてしまうほど美しい。  美しい道の両側には三階建ての建物がびっしりと並んでいた。思わず圧倒されるほど重厚なレンガ造りだ。  ここは、国王が住む首都から遠くはなれた辺境なのに、首都よりもはるかに洗練された都会ではないか⋯⋯。 「すごいなあ⋯⋯。国際都市ってこんなにすごいんだ⋯⋯」  感心しているアレクシアの横を、南国風の派手な色彩のマントを着た旅人や、毛皮の帽子をかぶった北方人の集団が通りすぎていく。 「だけど、こんなに立派なところで、僕を雇ってくれるかな⋯⋯」  着ている服はボロボロだし、オメガ襟は擦り切れて今にもやぶれそうなのだ。布製の靴には大きな穴まで開いている。  どこからどう見てもこの美しい街にふさわしくない姿だ⋯⋯。 「この街で仕事をもらうのはむりかもしれない」  小さな希望がなくなって、ものすごくがっかりした。  悲しくて、大きなため息がなん度も出る。 「この薬草とパンを交換してもらえないかだけでも聞いてみようかな⋯⋯」  ポケットの中から薬草を出してじっと見つめた。  お腹はぺこぺこだし、今にも座り込んでしまいそうなほど疲れているのだ。 「どこかに井戸がないかな? ——ん?」  そのとき、ふと、すぐうしろにだれかがいる気配を感じた。道の真ん中に立っているので邪魔になったのだろうか? 「おじゃまでしたか、失礼いたしました」  丁寧にそうつぶやいて道の端っこへ。  顔を上げると——。 「あっ! あなたさまは⋯⋯!?」  そこにいたのは戦場で出会った金髪碧眼の美貌の騎士ではないか! 続く

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