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第5話
アレクシアが美しい紫色の瞳を見開いて驚いていると、「ルードヴィッヒさま!」と呼ぶ少年の声が聞こえた。
黒髪に黒い目のとても小柄な従者が走ってくる。ボールが弾むような元気のよさだ。従者はルードヴィッヒの足元にサッと片膝をつくと、にっこりと笑った。
「おかえりなさいませ、ルードヴィッヒ閣下! あ! こちらがお客さまですね? ようこそいらっしゃいました、わたくしはルードヴィッヒさまにお仕えする従者です。カールとお呼びください! どうぞよろしくお願いいたします! おもてなしの準備はしっかりとととのっておりますよ! 香り高いトリュフのスープをご用意しましたし、鴨肉にはベリーソースを添えました。とっても美味しいですよ! ふかふかのパンは⋯⋯」
「カール、いつまで話しつづけるつもりだ?」
ルードヴィッヒが苦笑した。たしなめながらも、優しさと親しみの感じられる兄のような口調だ。
「あ、失礼いたしました! さあ、こちらへどうぞ、お客さま」
「は、はい⋯⋯」
少年従者の勢いに圧倒されながら両開きの大きな扉の中に入っていくと、扉の中には従者や侍女たちがずらりと並んで待っていた。
「おかえりなさいませ、旦那さま」
みんなニコニコと笑みを浮かべている。とてもおだやかな空気が流れていて、使用人たちがルードヴィッヒ辺境伯のことを慕っているのが伝わってきた。
——騎士さまがこの領地を収める辺境伯さまだったなんて⋯⋯。こんなに慕われていらっしゃるということは、地位が高いだけじゃなく、お優しいお方なのかな?
国境に接するこの場所は、他国との戦いと、他国との交流が入り混じる複雑な領地だ。
——国境の領地を収める辺境伯さまはもっと年上の方だと勝手に想像していたけど、こんなにお若い辺境伯さまだったんだ。
ルードヴィッヒの年齢は二十七、八ぐらいだろう。
——すごいお方だなあ⋯⋯。
隣を歩くルードヴィッヒをそっと見上げた。するとピタッと視線があってしまったではないか?
ルードヴィッヒはずっとこっちを見ていたのだ。しかも優しくてとても甘い笑顔で⋯⋯。
——うわっ! ど、どうしよう⋯⋯。
急にドキドキと心臓が跳ね上がった。緊張しすぎて右手と右足が同時に前に出てしまう。ぎこちない自分の歩みを見られていると思うと、ますます鼓動が速くなった。オメガ襟の下の首がカーッと熱を持っていく。ああ、熱い!
——うわっ、転ぶ!
ついに足がもつれて倒れかける⋯⋯。
「危ない——」
サッと力強い腕が伸びてきて、がっしりと支えてくれたのでなんとか倒れずにすんだ。
「あ、⋯⋯ありがとうござい⋯⋯ます⋯⋯」
焦りすぎてお礼を言う声が甲高くなってしまった。
——どうしよう、ものすごく恥ずかしい⋯⋯。
穴があったら入りたいほどに恥ずかしかった。いたたまれない気持ちだ。
——きっとみなさんに笑われる!
覚悟したのは、まわりにいる使用人たちに笑われること⋯⋯。修道院にいるときのように失敗をあざわらわれると思った。
だけど、それは違った。
ルードヴィッヒ辺境伯も、カール従者も、他の使用人たちも、だれも笑ったりはしなかった。
それどころか、「大丈夫か?」「大丈夫ですか? お怪我はありませんか?」とみんなが心から心配した顔になり声をかけてくれた。
——大丈夫⋯⋯? ああ、なんてやさしい言葉なんだろう⋯⋯。
今まで一度たりともだれかに『大丈夫?』と聞かれたことはなかったのだ。
幼いときに熱を出してすごく苦しかったときも、修道院中をひとりで掃除し手が腫れ上がり眠れなかった夜にも、だれひとり『大丈夫?』と、心配してくれる人はいなかった⋯⋯。
——すごく嬉しい⋯⋯。
深く感動して涙が出そうだ。だけどこんなところで泣いたら変だし、もっと迷惑をかけてしまうだろう。慌てて袖口で目を押さえて、顔を上げた。
「大丈夫です⋯⋯。ありがとうございます」
「——では、こちらへどうぞ」
「はい⋯⋯」
従者のカールにうながされて部屋に入るとそこは広い客間。
白くて大きなソファがある。ソファの上にはやわらかい色味のふかふかのクッションがたくさん並んでいる。とっても座り心地がよさそうだ。
両開きの窓と、その窓の外にはテラスもあった。テラスの向こうに見えているのは緑がいっぱいの中庭だ。
白いテーブルの上に淡いピンク色の薔薇の花が飾られている。眩しいほど明るい冬の日差しを受けて、薔薇の花がとても美しい。
テラスに出ると、ルードヴィッヒ自らが椅子を引いてくれた。
——ルードヴィッヒ辺境伯さまにこんなに気をつかっていただけるなんて⋯⋯。
身が縮むような気持ちだ。
「あの⋯⋯、僕なんかにこんなによくしていただいて、ほんとうにありがとうございます⋯⋯」
正面に座ったルードヴィッヒは、葡萄酒が注がれたグラスを手に取ってにっこりと笑った。
「俺の命の恩人に、乾杯しよう」
「え? あ、はい!」
慌ててグラスを持ち上げる。
修道院のオメガ修道女たちはよく葡萄酒を飲むが、アレクシアが飲んでいいのは水だけだった。だからこれが生まれて初めての葡萄酒だし、初めての乾杯だ。
緊張しながらグラスを口に運ぶと、気持ちがふわりと浮かぶような甘い香りがした。ひとくち飲むと体もふわりとしてきて、体と心がほどけるよう⋯⋯。すーっと緊張が溶けてなくなる。
「すごく美味しいです」
「それはよかった」
乾杯が終わると侍女たちがつぎつぎに料理を運んできた。黒髪の少年侍従のカールがニコニコと笑いながら料理の説明をしてくれる。
「トリュフのスープでございます。こちらのパンは有名なパン職人が作った特別なパンですよ、こちらのイチゴは南国から運ばれてきたんです、辺境伯さまの領地では、冬でもイチゴを食べることができるんですよ。すごいでしょう?」
カールは誇らしげだ。
「南国からですか? それはほんとうにすごいですね」
たっぷりのソースがかかった旨味たっぷりの鴨の肉、ホワイトアスパラガスのミモザサラダ、そしてバニラの優しい香りがたまらないアイスクリーム、目にも鮮やかな南国のフルーツの大皿⋯⋯。
いつのまにかテーブルは色とりどりのご馳走でいっぱいだ。
「遠慮はいらない、悪役令息どの——」
ルードヴィッヒが、『悪役令息どの』と言ってまたクスッと笑った。
——そうだ、忘れないようにしないとだめだ。僕は悪役令息のふりをしているんだから。だけど変だな? ルードヴィッヒさまが笑っていらっしゃるのはなぜだろう⋯⋯?
ルードヴィッヒの態度を不思議に思いながら、悪役令息としての振る舞いについて考える。
——遠慮していたらだめだ。悪役令息はわがままな令息なんだから、もし遠慮したら、『この青年はほんとうは『悪役令息』じゃないかもしれない』と、ルードヴィッヒさまに疑われるかもしれない。疑われないようにがんばって食べよう!
だけど『がんばる』必要はまったくなかった。
お腹はペコペコすぎて、お腹と背中がくっつきかねないほどの状況なのだ。
「では、あの⋯⋯、遠慮なくいただきたいと思います⋯⋯」
料理はどれも素晴らしく美味しかった。トリュフのスープはなめらかに舌の上にとろけ、鴨肉は香ばしく旨みがたっぷりだ。
——なんて美味しいんだろう⋯⋯。
うっとりとして目を閉じるほどの美味しさだった。
「お口に召したかな?」
「はい、どのお料理も素晴らしく美味しいです」
素直に感想を言うと、ルードヴィッヒはにっこりと微笑んで、額に落ちた前髪をゆっくりとかきあげた。
——わあ、なんてかっこいいお姿なんだろう⋯⋯。
かっこいいだけじゃない。人とは思えぬほど整った美貌は一見とても冷たく見える。だけどこうして笑うと、急に暖かさが表情に増して、おだやかで優しげな顔に変わるのだ。
——ルードヴィッヒ辺境伯さまは、きっと、とてもいい領主さまなんだろうな。使用人のみなさんにも、領民のみなさんにも、すごく慕われているに違いない。だって、僕なんかを、こんなにも手厚くもてなしてくださるんだから⋯⋯。
そう思いながら、柔らかくてジューシーな鶏肉の塩焼きを食べていると、ルードヴィッヒが笑みを浮かべながら口を開いた。
「ところで、お聞きしてもいいだろうか?」
「はい、なんでしょうか?」
「まだ名前をうかがっていないのだが⋯⋯」
「あっ! 失礼いたしました! 僕は、アレクシア・パールともうします」
と答えてすぐに、「しまった!」と心の中で叫んだ。『オメガ聖女のアレクシア・パール』は王家に対する反逆者として追われる身なのだ。きっとこの街にも手配書が届いていることだろう。
ほんとうの名前を名乗ってはいけなかったのだ。
——ど、⋯⋯どうしよう。
手にしたフォークがブルブルと細かく震えだす。
けれども、ルードヴィッヒの表情は少しも変わらなかった。
「アレクシア・パール⋯⋯。清楚なお姿にピッタリと合う素敵な名前だ」
「⋯⋯ありがとうございます」
「故郷を離れて放浪の身とお見受けしたが」
「は、はい⋯⋯、そうです⋯⋯」
「では仕事を必要としておいでだろう? もしもよければ、我が城で働かれてはどうだろうか? ちょうど腕のいい薬師を探していたところだ。アレクシアどのは薬草に詳しいのだろう?」
「え?」
——仕事?!
とつぜんの申し出にびっくりした。
ルードヴィッヒの笑みが大きくなる。思わずボーッと見惚れてしまいそうになるほど、美しい微笑みだ。
その神々しいほどの笑顔でルードヴィッヒは話をつづける。
「もちろん、わがままで自分勝手な悪役令息どのならば、こんなにいい条件の申し出を断ったりはしないはず」
悪役令息どの——と呼ばれると、断ろうにも断れないではないか。
——仕事をいただけたらすごく助かる⋯⋯。だけど、こんなに親切にしてもらっていいのかな?
思いがけない申し出にどう答えたらいいのかわからない。ほんとうに困ってしまった。
「いえ、あの⋯⋯。そんなによくしていただけるのはありがたいのですが、あまりにももうしわけありませんし⋯⋯」
「ほお——。なんとも悪役令息らしくない返事だ」
「え? 悪役令息⋯⋯? あ、そうですよね! 僕は悪役令息ですよね! ということは、つまり、⋯⋯僕は悪役令息なので、その⋯⋯、あの⋯⋯」
「つまり——ほんとうにそなたが悪役令息ならば、俺の申し出を断ったりはしない——ということだろう?」
「え? は、はい⋯⋯、あの⋯⋯、はい」
——どうしよう、これじゃあ永遠に断ることができない⋯⋯。
いつのまにか、うなずくしかない状況になってしまっているではないか。
アレクシアが戸惑いながらもうなずくと、ルードヴィッヒの笑顔はますます大きくなった。
「では、決まりだな、悪役令息どの——」
続く
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