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第7話
「夢?」
パチッと目を開けるとすぐに左右を見回した。
アレクシアは天蓋付きの豪華な寝台に寝ていた。窓の外は冬晴れ。明るい朝日がまぶしいほど輝いている。小鳥たちがチュンチュンとかわいらしい声で鳴いている。
「ああ、よかった。夢じゃないんだ⋯⋯」
アレクシアはほーっと大きな息を吐いた。
きのうからずっと夢のなかにいるような気持ちがしているのだ。
初めて食べる美味しくてたっぷりの食事に、とてもいい香りがする高級な衣服、それに暖かくて居心地のいい豪華な部屋も——。
薬草園の薬師の仕事までもらえた。
「ルードヴィッヒさまはなんて親切で心の大きなお方なんだろう⋯⋯。命を救ったことに感謝するとおっしゃったけど、感謝すべきは僕の方だ。僕は、いつかはここから去らなければならない逃亡オメガ聖女だけど、とにかく今はルードヴィッヒさまのために、僕にできることを精一杯がんばろう。さあ、薬草園へ行こう!」
自分を元気づけるようにそう言って、寝台から足をおろしたとき、ちょうど黒髪の少年従者のカールが茶器の乗ったトレイを手に入ってきた。
「おはようございます、アレクシアさま! 今朝のお目覚めの紅茶はアールグレイをご用意いたしました、さあ、どうぞ!」
「おはようございます、カールさん。とってもいい香りですね」
花と蝶が描かれた茶器が美しい。そっと紅茶カップを口に運ぶと、ふわりと甘いエキゾチックな花の香りがした。
「とっても美味しいです。ありがとうございます」
お礼を言いながら思い出す。
——あ、そうだ! また忘れていたけど、僕は悪役令息のふりをしているんだった。
こんなにおだやかな会話をしていたら、『悪役令息らしくない』と思われるかもしれない⋯⋯。悪役令息はわがままで意地悪な令息のはずなのだから。だけどどういう態度をとったら悪役令息らしくなるんだろう? わがままで、意地悪ということは⋯⋯?
頭に浮かんだのは、セント・リリィ修道院で自分が受けてきた数えきれないほどの意地悪だ。
紅茶のカップを投げつけられたり、わざと転ばされたり⋯⋯。
——この紅茶カップをカールさんに投げつける? そんなこと、できない。
こんなに優しくしてくれる相手に熱い紅茶が入ったカップを投げるなんて、ぜったいにできるはずがないではないか。
——悪役令息は難しいな⋯⋯。だけど、やらなきゃいけないし⋯⋯。
カップをギュッと握りしめて決心した。
——よし、このカップを投げるぞ!
だけど実際にやれたのは、紅茶カップを少しかたむけて数滴だけ床に落とすこと⋯⋯。
「あっ、ごめんなさい!」
これだけでもひどく動揺した。紅茶の水滴が落ちたのはフカフカの白い絨毯の上。うっすら茶色い紅茶のシミがついてしまったではないか!
「カールさん、ごめんなさい! ほんとうにごめんなさい! すぐに拭きます、ほんとうにごめんなさい!」
「どうぞそのままになさっていてくださいアレクシアさま! わたくしが拭きますから」
「いいえ、僕がやります!」
掃除は子供のころからずっとやってきたのだ。得意技といってもいいほどだ。
「布をお借りしてもいいですか? できればお酢かなにかがあれば⋯⋯。あ、こっちにもなにかのシミがありますね。⋯⋯ついでですので、この猫足のテーブルの裏も拭いておきますね。あっ、ここにも汚れが!」
いつのまにか夢中になって掃除をしてしまった。
「あの⋯⋯、アレクシアさま⋯⋯?」
カールが呆気に取られているのにも気がつかないほどだ。
「さあ、きれいになりました!」
ふぅーっと大きく安堵の息を吐くと、カールが大きな拍手をした。
「うわーっ、アレクシアさまってすごい才能がおありなのですね! そのシミはずっと取れなくて、侍女たちが悩んでいたのですよ。ほんとうにありがとうございます! 侍女たちもすごく感謝するはずですよ!」
「えっ? 感謝ですか?」
ちょっと待って⋯⋯。感謝されたら悪役令息にならないのではないだろうか⋯⋯?
「⋯⋯どうしよう、困ったな」
「どうかなさいましたか、アレクシアさま?」
「い、いいえ、⋯⋯なんでもありません」
「ではお召替えをいたしましょう! アレクシアさま、今日のお召し物はどれになさいますか? クローゼットルームにはまだ数十着しかありませんが、あすには数百着に増えるはずでございます」
「数百着⋯⋯?」
聞き間違えだろかと思いながらカールと一緒にクローゼットルームに行くと、どうやら聞き間違えではないようだった。
クローゼットルームは驚くほどの広さだ。色とりどりの服がずらりと数十着ならんでいる。それでもまだじゅうぶんに余裕があった。数百着ぐらい軽く入る広さだ。
「そんなにたくさんの服はいただけません、一着でも十分なほどです」
「アレクシアさまはルードヴィッヒさまの命の恩人ではありませんか、数百着の服ぐらい少ないぐらいですよ。さあ、今朝はどの服になさいますか? このクリーム色のフロックコートなどいかがですか? 真珠の飾りが、上品な雰囲気にきっとよくお似合いでございます!」
カールはいつも押しが強い。
戸惑っていると、あっというまに寝着を脱がされ、着替えが始まってしまった。
真珠の飾りが胸元に入ったクリーム色のフロックコートは艶のあるシルクだ。しっとりと冷たいシルク生地の感触が、うっとりするほど肌に気持ちがいい。
オメガ襟も同じ色のシルク。中心に大きな一粒の真珠の飾りがついていてとっても上品だ。
「銀色の髪によく似合っていらっしゃいます!」
「⋯⋯そうでしょうか?」
鏡の中には、上品な真珠飾りの服に、艶のある銀色の長い髪の少年オメガがいる。
まるで真珠の精霊のような清らかな姿だ。
——なんだか夢のつづきにいるみたいだな。
ふわふわと高揚した気持ちがした。
服を整え終わったら朝食の間に向かう。
「今朝は大きなオムレツをご用意しました。料理長はオムレツの名人なんですよ」
カールの言葉を聞いただけでとっても美味しそうで、お腹がグーッと鳴ってしまった。
朝食の間は二階だ。広いバルコニーにテーブルと椅子が用意され、銀器の紅茶セットや、淡い黄色のほんとうに大きなオムレツ、そして新鮮な果物などが美しく並んでいた。
大きなグラスにたっぷりと注がれたオレンジジュースもある。焼きたてのパンがカゴに入っていて、香ばしくて食欲をそそるバターの香りがする。
バルコニーの手すりは淡いピンクの花が咲くツル薔薇で飾られていた。
まるで絵画の中の完璧な朝食シーンのようだ。
「こんなにたくさん用意してくださってありがとうございます。でも僕はパンと水がいただければじゅうぶんです⋯⋯」
「パンと水でございますか? ご冗談がお上手ですね、アレクシアさまは」
「い、いえ⋯⋯。冗談ではないのですが⋯⋯。それにしても、冬に薔薇が咲くのは珍しいですね」
「雪待ちの薔薇という品種でございます、とっても珍しい冬に咲く薔薇で、遠い異国の小国からの貢ぎ物なんだそうです。でも、この薔薇が咲くということは、そろそろ雪が降るということなんです。この辺りはものすごく雪が降るんですよ。降り出すと吹雪のようになるんです。⋯⋯なんだか今日あたり、降りそうですよね?」
カールが空を見上げた。
「そうですね、あれは雪雲のようですね」
遠くの空に黒い雲がたくさん見える。
「あっ! アレクシアさま、下をごらんください!」
「え?」
「ほら、あそこですよ。もうすぐルードヴィッヒさまがお出ましになられますよ。国境警備におでかけなんです」
カールがバルコニーから身を乗り出す。
「ルードヴィッヒさまが?」
アレクシアも下を見た。
城門の前の広場には、馬に乗った騎士が何十人も並んでいた。
黒くて短いマントを羽織っている。腰には剣。どの兵も屈強でとても強そうだ。
「ほら、いらっしゃいました!」
「あっ⋯⋯!」
現れたのは、どの騎士よりも逞しいアルファの騎士——。
ルードヴィッヒ・フォン・シュタイン辺境伯だ。
白馬に乗り、漆黒の長いマントを羽織っている。馬の動きに合わせてマントが優雅に揺れている。
「辺境伯閣下!」
騎士のひとりが大きな声をあげた。他の騎士たちがいっせいに「おお!」と叫んで剣を天に突き上げる。
ものすごい迫力だ。
——かっこいいなあ⋯⋯。
うっとりと見惚れてしまった。胸がドキドキするし頬は燃えるように熱い。
——ルードヴィッヒさまは、まるで神話の中から抜け出してきた、伝説の騎士のようだ⋯⋯。
ルードヴィッヒが騎士たちをぐるりと見渡した。
静かだが力強い声で、
「我が軍の勝利に——」
と言い、長剣を天に高くかかげた。
「おお!」
「辺境伯さま!」
「勝利に!」
「勝利に!」
騎士たちが声上げ、城門を出ていく。
騎士団の姿が道の向こうに小さくなって消えるまで、アレクシアはいつまでもずっと見つめていた。
*****
朝食が終わると、アレクシアはさっそく薬草園に向かった。
「まずは雑草と枯れたハーブを抜かないといけないな」
かなりの大仕事になりそうだった。だけど気持ちはワクワクしてとても明るい。
「あれ?」
薬草園に着くと驚いて立ち止まった。
雑草も枯れたハーブもきれいになくなっている。いったいだれがしてくれたのだろうか?
土はきれいに耕されている。あとは種を植えるだけになっている。その種も、きっちりと分類された状態で畑の横に並べてある。
たっぷりと水が入った樽までいくつも用意されていた。
「ルードヴィッヒさまが手配してくださったんだ⋯⋯」
きっと気をつかってくださったのだろう。
お世話になったお礼にどんな力仕事もするつもりだったのに⋯⋯。
「ほんとうになんてお優しいんだろう」
感謝していると、頭の中にルードヴィッヒの姿が浮かんだ。
まぶしいほど輝く金色の髪に、コバルトブルーの高貴な瞳⋯⋯。
あまりに整いすぎているので人間離れして冷たく見える。けれど笑顔になった瞬間に信じられないほど優しく暖かい表情に変わるのだ⋯⋯。
「かっこいいなあ⋯⋯」
自分でもびっくりするぐらい大きくて甘いため息をついてしまった。
「あれ? 僕はどうしたんだろう? ルードヴィッヒさまのことを思うと、胸の奥が変な感じになってしまうけど⋯⋯?」
自分の心がよくわからない。こんなにだれかのことを考えてしまうことは今まで一度もなかった。
「だめだ、だめだ、ぼんやりしていては! 辺境伯さまのお役に立てるように働かないと」
自分に喝を入れて、白いエプロンをキュッと腰に巻く。カールが用意してくれたエプロンだ。
カールは、「仕事が終わったら薬草園にすぐに行きますね!」と言って、このエプロンをくれたのだ。ポケットがたくさんついたとても機能的なエプロンだ。
「雪が降るとしたら、パセリやチャービルを選んだほうがいいかな? そうだ、カモミールも秋から冬にかけて育てるのに適したハーブだったな」
何種類かの種を選んで苗床に蒔いた。水をたっぷり与える。
「もしも雪が降ったら土をおおう藁が必要だな。⋯⋯そういえば、きのう歩いていた途中の小川沿いにローズマリーを見かけたけど⋯⋯」
ローズマリーは、枝を切ってその枝から増やすことができるハーブ。種子から育てるよりずっと速く大きくなる。
ローズマリーを油に入れてエキスを取れば、万病に効くポーションを作ることができるだろう。
「そうだ! 小川まで行って少し切り取ってこよう」
エプロンを外して丁寧にたたみ種の袋の上に置いた。そして城を出た。
「あ、雪だ——」
城を出てしばらく歩くと真っ白な粉雪がハラハラと降ってきた。カールが言ったとおりだ。
続く
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