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第1話
◇◆◇ 春 ◇◆◇
真っ白い毛並みが美しい地域猫のシロの体に、ポツリポツリと桃色の斑点のようなものが見え、黒崎(くろさき)猫美(ねこみ)は「ん……?」とつぶやき、開いていた本をパタンと閉じた。
下町のシャッター商店街の一番端、猫関連の書物を専門に取り扱う小さな古書店《黒猫堂》は、今日も閑古鳥が鳴いている。訪れるのは人間の客ではなく、店主の猫美を慕ってくる猫ばかりだ。
「シロ、何かピンクの、ついてるよ」
店番用のレトロな木の椅子を軋ませ立ち上がり、猫美は手を伸ばしてシロの体についた薄いピンク色のものに触れる。指先で摘まみ上げたそれは、可愛らしい花びらだった。
『ああ、桜の花びらよ。川べりの桜並木の』
シロはしっぽをピンと立て、金色の目を向けてくる。
『猫美はお花見に行かないの? たくさんの人が来てたわよ』
川べりの桜はさぞ綺麗だったのだろう。瞳をキラキラさせて聞いてくるシロに、猫美は首を振って答える。
「行かないよ。人ごみ、苦手なんだ」
黒目勝ちの大きな目が印象的な、可憐に整った顔はビスクドールめいていて、むしろ猫のシロのほうがまだ表情がある。漆黒のやわらかい髪に、黒のパーカーとデニムという出で立ちは、まるで小綺麗な黒猫が魔法で人間化したかのようだ。
もちろん、猫美は猫ではない。生粋の人間だ。けれど生まれつき、普通の人間にはない特殊な能力を持っている。それは《猫と話ができる力》だ。
猫美が人間の言葉で普通に話しかけると、猫はそれを理解しニャーと答える。ほかの人間にはただの鳴き声にしか聞こえないものが、猫美の耳には勝手に人の言葉に翻訳されて届いてくる。声に出さず心の中で話しかけても同じで、相手の猫は猫美の無言の問いかけにもちゃんと応じてくれるのだ。
その昔、黒崎家の祖先は代々、猫を祀った小さな神社の宮司を務めていた。神社自体はもうとっくになくなってしまったのだが、祖先の遺した記録が今も家宝として押し入れの奥に保管されている。それによると、無類の猫好きだった初代の宮司がまだ青年の頃、夢枕に猫の神様が立ち、こう告げたのだという。
――我々猫のために祠を立てて祀り、困っている猫の助け手になりなさい。さすれば助けられた猫は必ず恩返しをして、黒崎家は子々孫々に至るまで安泰であろう。
そしてそのときに、初代宮司は猫神様から特別な力を授けられた。それがすなわち猫と話ができる力であり、以来黒崎家の子孫にはたまにその力を持つ者が生まれてくるのだ。
その話を猫美は、三年前の春に亡くなった祖母から子どもの頃聞いた。まるで伝奇ファンタジーのような話だが、現に猫美自身も猫と話せるのだから、猫神様の夢のお告げはともかく、祖先にもそういった能力を持つ人がいたというのは確かなのだろう。
同じ能力を持っていた祖母は、いつも猫美に言っていた。
――猫美、猫が恩返しをするのは本当だよ。初代の宮司様もたくさんの猫を助けたおかげで、一生幸せに暮らせたようだから。おまえもそのことを忘れないで、困っている猫の助けになってあげるのよ。
でもじゃあどうして? と猫美は聞き返した。
――おばあちゃんがたくさんの猫を助けてあげてるのに、どうしてパパとママは事故で死んじゃったの?
その純真な問いかけに、祖母はまだ幼かった猫美の頭に手を置き優しく撫でながら、
――ごめんね……それはきっと運命だから、変えられなかったんだね。
と、微笑んだ。その微笑みがとても悲しげに見え、ひどいことを言ってしまったと幼心に後悔したものだ。
祖母の一人息子である猫美の父は、猫と会話できる能力を授からなかった。それもあってか、祖母は猫美にその力が備わっていたことをとても喜んでいた。何しろ、初代宮司のようにたくさんの猫を助け幸せになってほしいという願いをこめて、初代と同じ名をつけたくらいだから。
祖母によると、猫美の猫の言葉を聞き取る力は、祖母よりも優れているらしかった。
――もしかしたら猫美は、初代宮司様の生まれ変わりなのかもしれないねぇ。
祖母はそう言って嬉しそうに笑ったが、猫美自身は子どもの頃、自分の名前も能力も誇らしいものだとは思えなかった。
女子でもいないへんてこりんな名前だからクラスメイトからはからかわれるし、しょっちゅう猫と向き合って話をしているので――といっても、誰も本当に会話をしているとは思わなかっただろうが――《化け猫》なんてあだ名までついた。道を歩いているだけで、困っている猫からたびたび相談事を持ちかけられるし、ときにはややこしい猫関係のいざこざに巻きこまれ、手に負えなくなっては祖母に助けを求めたりもした。
それでも《こんな力なければよかったのに》と思わなかったのは、やはり猫が好きだったからにほかならない。
両親が交通事故で亡くなったとき、猫美はまだ三歳だった。その後は祖母に引き取られ育てられたが、忙しい祖母の不在時に慰めてくれたのは《黒猫堂》に出入りする猫たちだった。彼らは寂しがり泣き続ける猫美の兄となり、姉となって猫美と遊んでくれた。祖母と猫たちのぬくもりに包まれて、猫美は無事に大きくなれたのだ。
猫美にとって、猫は家族同然だ。祖母は、猫を助ければ恩返しをしてくれると言ったが、むしろ猫美は恩を返すために猫を助けているようなものだ。古書店《黒猫堂》を商いながら、能力を生かして迷い猫の捜索依頼やその他猫関係のよろず相談事などを引き受けていた、亡き祖母の後を継いだのもそのためだった。
(おばあちゃんも、桜が好きだった……)
祖母が生きていた頃は、この季節になると、必ず一緒に花見に出かけていたのを思い出す。人が大勢いるところは苦手な猫美も、祖母といれば楽しかった。一人で見てもそんなに美しいと感じなかった桜も、祖母の笑顔に重なるととても綺麗に映った。
――綺麗だねぇ。
まろやかな祖母の声が、心に浮かぶ大切な思い出の風景の中、優しく響く。
――私がいなくなったら、猫美は誰と桜を見るんだろうね……。
亡くなる一年前の春、祖母はそうつぶやいていた。おそらくはそのときすでに、自分が病でそう長くは生きられないことを予感していたのだろう。
『ねぇ、猫美……猫美?』
「うん?」
セピア色の思い出に浸っていた猫美の足を、シロがヒョイヒョイと肉球で叩く。
『お花見、行ってみたら? 陽平(ようへい)と一緒に』
「陽平と一緒に?」
繰り返し、猫美は「なんで?」と、耳が肩につくほど首を傾げてしまう。
『なんでって……二人で行けばきっと楽しいわよ』
人間だったらため息でもつきそうな顔で、シロが呆れた声を出す。猫美はう~んと考えこんでから、「行かないよ」と返した。自分が、ではなく、陽平のほうが、猫美とは《行かない》だろうと思ったからだ。
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