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第6話

 ――助けて……。  微かな声が耳に届いた気がして、猫美はハッと顔を上げた。  周囲を見渡す。誰もいない。  だが、確かに聞こえる。胸が痛くなるような悲しげな声がだんだんと大きくなってくる。  ――お願い……助けて……。 「猫美? どうした?」 「誰か、呼んでる……っ」  弾かれたように立ち上がった猫美は、声のするほうに早足で向かう。おかかのおにぎりのおかげで体も心も元気になったようだ。足が軽い。陽平の足音もすぐに追ってくる。 「どこ? どこにいるの?」 『ここ……』  ニャアニャアという声が、錯覚ではなくはっきりと聞こえた。 「あそこだ、猫がいる!」  陽平の指差す先に、よろよろしながらこちらに向かってくる猫が見える。キジトラ柄の子猫だ。 『助けて……っ』  ニャッと大きく鳴いた子猫は、力尽きたのかその場にへたりこんでしまった。猫美はあわてて子猫に駆け寄り、怯えさせないように膝を折る。  まだ生後半年くらいだろうか。体は小さく見るからに痩せ細っている。毛並みはボサボサの上ところどころ泥がついており、目の周りは目ヤニでただれている。ろくに世話をされておらず、環境がいいとはとてもいえないところで暮らしてきたのは一目瞭然だった。  猫美の胸はチクチクと痛む。まだこんなに小さいのに、この子は一体どんな生活をしてきたのだろう。 「こんにちは」  話しかけると、子猫はびっくりしたように小さな目を見開いた。 「おれは猫美。黒崎猫美。よろしく」 『あなた、ボクとお話できるの……?』  ニャッとか細い声で子猫が聞いてくる。人間と意思疎通ができるとは思わず、驚いているようだ。 「うん。おれ、君の言葉、わかる。君のお名前は?」 『名前……ないの。おばあちゃんは《子猫ちゃん》って呼ぶ』  どうやら子猫は《おばあちゃん》なる人間と暮らしているらしい。 「もしかして君は、猫屋敷の子?」 『ねこやしき……? わかんない。ボクおばあちゃんと、仲間たちといるの』  あそこに、と子猫は百メートルほど先に見える雑木林のほうを向いた。 「陽平、この子猫屋敷の子だ。あそこだって」  そう言って振り向くと、陽平は疑う様子もなく頷き「あのあたりか」と雑木林を見やった。 「助けてって言ったよね。どうしたの? おうちで何かあったの?」  速くなる鼓動を抑えながら、猫美はなるべく穏やかに尋ねる。子猫は目ヤニでいっぱいの目をしゃばしゃばさせて、猫美を見上げてくる。体も顔もひどく汚れているが、瞳は澄んだ宝石のように綺麗だ。 『おばあちゃんが、倒れたのっ。だからボク、誰か呼ばないとって思って……』  飼い主が倒れ、この痩せ細った小さな体で誰かに助けを求めようと出てきたというのか。 『ボク、体が小さいから、壁の隙間から抜けられたの。おばあちゃん今、お台所で動かなくなってるの。ど、どうしよう……』 「大丈夫。心配しないで」  猫美は震えている子猫の体を優しく撫でて言った。 「おれたち、助けるために来たんだよ」  自分でも驚くくらい、迷いのない声が出た。  目の前の小さな子猫のすがるような目を見返しながら、助けたいと心から思う。  自分なんかにできるのかとか、跡取りらしくしなきゃとか、そんなのはどうでもいい。なんとしてでも助けなくてはというその気持ちだけが、今猫美の心をいっぱいにしていた。  大事なのは、その想いだけだ 「おい猫美、まずいぞ! あれ!」  陽平のただならぬ声に顔を上げ、猫美は目を見開く。雑木林の裏手から煙が上がっている。あそこは、ちょうど猫屋敷のある場所ではないのか。  陽平はすでに駆け出していた。疲れ切った子猫を抱き上げて、猫美も後を追う。  雑木林までの百メートルほどの距離が、果てしなく遠く感じる。陽平の背中を追って林の裏手に回ると、かなり築年数が経っていそうな平屋が見えてきた。 「っ……!」  家が近づくごとに、怯え切った悲鳴のような声が一斉に届いてきて、猫美は耳をふさぎたくなる。同時に、何かが焦げるような異臭も襲ってくる。  家の横手の窓から炎が上がっているのが見え、足がすくんだ。  先に家に着いた陽平が、古びたドアを躊躇なく蹴破る。 「猫美! おまえはそこから動くな!」  そう言って振り向いた目は厳しく真剣だ。 「大丈夫!」  猫美は言い返した。たくさんの悲鳴は、家の中から聞こえている。助けて、怖いと怯えている、まだ中に、猫たちがいる。この場で突っ立ってなんかいられない。 『ボクたちのお部屋、あっちよ!』  腕の中の子猫がぶるぶる震えながらも、火の手が上がっているのと反対側を示した。 「おれは猫! 陽平はおばあさん!」  断固とした声で叫んだ。陽平は目を瞠る。猫美がこんな強い口調で何かを主張したのは初めてだったから驚いたのだろう。  すぐに猫美の決意を受け取ってくれた相棒は、力強く頷き「気をつけろよ!」と家の中へ飛びこんでいく。 「君はここにいて」  子猫をそっと下ろし、猫美もすぐにその後を追った。臆病な自分がなんのためらいもなく、危地に入っていけるなんて、と心のどこかでびっくりしていた。  猫たちを助ける。今の猫美の頭にあるのはそれだけだった。 『助けて!』 『ここ開けて!』  充満し始めている煙を吸わないよう腕で鼻口を覆いながら、猫美は声のほうへと進む。ピタリと閉じられているふすまを開け放つと、六畳ほどの部屋に詰めこまれた猫たちが一斉に見上げてきた。  一見では数え切れないほどいる。おそらく猫用の部屋なのだろうそこは彼らにとっていい環境とはとてもいえないくらい荒れていたが、今はそれを確認している時間はない。  見知らぬ人間のいきなりの侵入に警戒の目を向けてくる猫たちに、猫美はできるだけ冷静に話しかける。 「みんな、大丈夫! 助けにきたよ!」  部屋の奥手の掃き出し窓はケージでふさがってしまっているので開けられない。 「こっち! こっちから外に出て!」  猫美が言葉を交わせる特別な人間で、自分たちの味方だとわかったのだろう。猫たちは我先にと部屋を飛び出し、ドアのほうへ逃げていく。  濃くなっていく煙の中、すべての猫が避難できたか部屋を確認する猫美の耳に、か細い声が届いてきた。 『苦しい……怖いよ……』 「っ……」  声のするほうを振り向いた。半分開いた押し入れの中に小さなケージが一つあり、茶トラの猫が横たわっている。何かの病気で、ほかの猫と離されていたのかもしれない。苦しげな声を出しながらも、猫は起き上がろうとしない。 「大丈夫だよ! 助けるからね!」  ぐったりしている猫を励ましながら、猫美は引っ張り出したケージを両手で持ち上げた。結構な重さだが、まさに火事場の馬鹿力だ。普段の猫美なら無理だっただろう。 「怖くないからね。すぐに出してあげる」  ケージの中の猫に優しく語りかけ、猫美は部屋から飛び出した。 「えっ……」  思わず息を呑んだ。覆われた煙で視界が利かない。周りがまったく見えない。 (出口……どっちだっけ……?)  焦って煙を吸いこんでしまった猫美は、咳きこみながら周囲に視線を巡らす。頭がパニックを起こし、方向感覚が狂ってしまっている。  心臓が高鳴り、死ぬかもしれないという恐怖が湧き上がってきた、そのとき……。 「猫美っ!」  声が聞こえた。  顔を向ける。わずかに光の差す、明るいほうへ。 「猫美こっちだ!」  ぼんやりとシルエットが見える。おばあさんを背負った、陽平のシルエットが。 『こっちだよ!』 『早く来て!』  たくさんの声が、陽平の声に重なる。先に逃がした猫たちの声が導いてくれる。  ――大丈夫、猫美……こっちだよ……。  彼らの声に交じって、今はもういない大好きな人の声も聞こえた気がした。  勇気を振り絞り、震え固まってしまった足を動かして、猫美はそちらに駆け出した。

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