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第5話

 噂の猫屋敷があるらしい場所は、《黒猫堂》から車で二十分ほどのところだった。はっきりした場所がわからないので近くまで陽平の車で行き、有料駐車場に停めて、田んぼの中の細い農道を徒歩でいくことにした。  広い田んぼやら野原に囲まれ、人家はまばらにしかない中の細い道をたらたらと並んで歩いていく。究極のインドア派で、猫捜索の仕事のとき以外はめったに外に出ない猫美は、四月にしては異例の暑さにやられ少しバテ始めていた。 「猫美、大丈夫か?」  猫美のほんのわずかな変化にもすぐ気づいてくれる陽平が、心配そうに聞いてくる。 「だ、大丈夫」  精一杯平気そうな声で答えたものの、実際はヘロヘロだった。最近はいろいろと考え事に悩まされ夜もろくに眠れなかったし、食欲もなかった。体力が衰えてきたところで久しぶりに歩いたので、こたえてしまったのだろう。 「よし、あそこで休むか。昼飯の時間も過ぎてるし、腹減っただろう」  陽平が指差したのは、古びた木のベンチが置いてある待合所だった。とっくに廃止されたバス路線の停留所の名残らしい。 「え、でも急がないと、おばあちゃんと猫たちが……」 「腹が減っては戦はできぬだ。休憩は必要だぞ」  陽平はそわそわする猫美の背をポンポンと叩いて、ベンチのほうに軽く押す。 「おまえ、悪いけど席取っといてくれ。俺はメシを調達してくる」  待って、おれも行く、と言う前に、足取り軽く田んぼの中を抜けていく相棒の背を、猫美はパチパチと瞬きしながら見送る。見渡す限り人っ子一人いないのに席を取っておいてと言うあたり、陽平らしい気遣いだ。少しでも猫美を休ませたいのが伝わってくる。  ここは素直に休ませてもらい訪問に備えようと、ノロノロとベンチまで行き腰を下ろした。ほうっと息をつき、青い空を見上げる。  猫屋敷のおばあさんと猫たちは、こんな人気のない静かなところでどんな暮らしをしているのだろう。みんな毎日元気で幸せでいられるのならそれでいいけれど、平穏な日々が続かなくなると、だんだんとつらくなってくるものだ。そんなとき相談する人がいないと、とても悲しいことになる。  ――私たちは、そのためにいるんだよ。  祖母の声が聞こえてきた。黒崎家の者は、そのために力を授かったのだから、と。 (おれにも、何かできるかな……)  きっとできると信じてくれているから、陽平はスランプの猫美を誘ってくれたのだが。  祖母のようにうまくやれる自信もないのに、跡取りとして期待に応えなくてはという気持ちばかりが先走る。祖母はいつも笑顔で、むしろ楽しそうに猫関係の仕事をこなしていたのに、猫美は今プレッシャーに圧迫され、胸がドキドキし始めている。  落ち着かないと、と何度か深呼吸をしたとき、相棒が駆け戻ってくるのが見えた。 「おう、お待たせ」  ポンと猫美の頭に手を置き、隣に腰を下ろす。 「さっき通り過ぎた家の人から、有力情報ゲットしたぜ。猫屋敷は間違いなくこの近くらしい。前はおばあさんが頻繁に買い物でこの道を通っているのを、よく目にしてたそうだ。最近は見ないらしいけどな」  常々思っていたのだが、陽平の情報収集力は本当にすごい。コミュニケーション力が高いので、知らない人とでもすぐに打ち解けられるし、人柄がにじみ出るのかすぐに信用もしてもらえるのだ。そういうところは、陽平と祖母はよく似ている。 「陽平、すごい……」  それに比べて自分は、とうなだれる猫美の肩を、陽平は元気づけるように叩く。 「たまたまだよ。運がよかっただけだ。ああそれと、ゲットしたのは情報だけじゃないぞ。ほらっ」  得意げに差し出されたのは、ラップにくるまったおにぎり二つだ。 「えっ!」  真っ白い米粒が輝いて見え、食欲のないはずの猫美も急にお腹が空いてくる。おやつスティックを見せられた猫みたいな顔になった猫美に、陽平はハハッと笑う。 「親切なおばさんでさ、駄目もとで頼んでみたら、自分ちの田んぼの米でちゃちゃっと握ってくれた。ありがたくいただこうぜ」  猫美におにぎりを一つ渡した陽平は、自分の分をパクッと頬張る。 「うん、うまい! さすが自家製の米は違うなぁ」  我慢できずに猫美もはむっとかぶりついた。おいしい。塩気もちょうどよくて、中にはおかかが入っている。  どこか懐かしいその味が、三年前のつらかった頃の記憶を連れてきた。 「陽平の、おにぎり……」  意識せずつぶやくと、陽平は目を見開き猫美を見てから、ああ、と納得げに微笑んだ。 「あのとき、おまえに食わせたおにぎりも、確か具はおかかだったっけな」  祖母が亡くなり諸々の手続きが済んだ頃、猫美は食事をほとんど摂れなくなったことがあった。唯一無二の大切な人を失った喪失感が、一気に襲ってきたのかもしれない。食べないと倒れてしまうし、そうなったら祖母の遺した店を閉めなければならなくなると、無理やり食べ物を口に入れても、砂を噛むようで味がしなかったのだ。 「おまえ、何も食べなくてどんどん痩せていってさ。磯松屋(いそまつや)のうなぎも寿司岩(すしいわ)の特上寿司も食おうとしないから、ホントどうしようかと思ったぞ」  毎日のように差し入れをしてくれる陽平に悪いと思いながらも、何を食べてもおいしくなく、無理して食べると吐いてしまいそうだった。あの頃、陽平がどんな顔で自分を見ていたのか猫美は覚えていないけれど、その声は思い出せる。  ――猫美、今日は俺が作ってきたぞ。握り飯だ。しかも、中はおかかだ。晴江ばあちゃんもよく作ってくれてただろ?  相当猫美を心配してくれていただろうに、その声はいつもと同じように明るくにこやかで……。それでも、ほんの少しだけにじむつらさを、見せないようにしているのが伝わって……。  ――ちょっとだけでも食べてみないか? おかかのおにぎり、おまえ好きだったよな? 無理そうだったら残していいから。  陽平がつらそうだと気づいた瞬間、自然に手に取ってパクリとかじっていた。おいしかった。久しぶりに、おいしいと感じた。なぜおいしいのかは聞かずともわかった。陽平は、以前食べたことのある祖母のおにぎりの味を思い出しながら、忠実に再現してくれたのだ。 「あの頃のおまえ、自分は何も食べようとしなかったくせに、店に来る猫たちにはカリカリを欠かさずやっててさ。それ見ながら思ったんだよ。猫たちは、猫美がエサをやるから大丈夫だ。だったら、猫美には俺が食わせよう。おまえが自分から食べてくれるまで、俺がおまえに、ちゃんと三食食べさせようってな」  暗くなってきた空を見上げる幼馴染みをそっと窺い見ながら、猫美は残りのおにぎりを口に押しこむ。なぜだろう。なんだか胸が詰まってきて飲みこみづらい。  おにぎりをおいしいと思えてからは、陽平の作ってくれるものはなんでも食べられるようになった。彼の笑顔が、どうすることもできなかった喪失感を次第に薄れさせてくれたからかもしれない。 「陽平のおにぎり……また食べたい」  つっかえたおにぎりをなんとか飲みこんでから、猫美は下を向いてボソッと言った。三年も前のことに改まって礼を言うのも気恥ずかしくてそんな一言になってしまったのだが、陽平が嬉しそうに笑ったところを見ると、ちゃんと気持ちは通じたようだった。 「なんだって? 俺のおにぎりを一生食いたいって、今そう言ったか?」  わけのわからないことを言われ、体をずいっと寄せてこられて、猫美はしかめ面になる。 「言ってないよ」 「いや、言っただろ。そう聞こえたぞ」 「全然言ってない」  この~、とご機嫌で髪をこしゃこしゃにしてくる手から、逃れようと体を縮めたときだった。

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