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第1話 神官王と姫

 神官王ユリティの前に座っているのは御神託の花嫁だ。遠路はるばる馬車でやって来たというのに、目の前の花嫁は疲れた顔一つ見せずくつろいでいる。  神聖国メルタバーナは大陸南西の海沿いにあった。そのため東の端にあるウィンガラード王国からは馬車を休まず走らせても丸二日はかかる。しかも今回馬車に乗っているのは十八歳のうら若き花嫁だ。途中、休憩を挟んだり宿を使ったりすれば五日はかかるはずだが、ウィンガラードを出た馬車は三日目の午後には大神殿に到着していた。あまりにも強行突破な旅路だったというのに、当人はもとより国から着いてきた侍女も荷物を運ぶ従者たちも誰一人として疲れた顔を見せない。 (当然といえば当然か)  胸の内で独りごちたユリティは、優雅に香茶(こうちゃ)を飲む姫を見ながら口元に笑みを浮かべた。 「遠路はるばるようこそ、花嫁殿」  茶器を置いた姫が顔を上げ、ふわりと微笑む。 「ほんと、待ちくたびれちゃった」  笑みを深くする姫の表情は、甘く香りながら獲物を引き寄せる大輪の花を思わせるものだった。  この日から大神殿はかつてないほど忙しない状態になった。それもそのはずで、大神殿の(あるじ)である神官王の婚姻式が間近に迫っているからだ。そんな中、待ちに待った御神託の花嫁が到着した。この後は各地から神官たちがこぞって押し寄せてくるのを迎え入れるだけだ。 (わかってはいたものの、煩わしいことこの上ない)  ため息をついたユリティが長い金髪を一つに束ねていた紐をするりと解いた。そうして美しく整った顔を窓の外へと向ける。澄んだ空を思わせる碧眼が見つめるのはどこまでも続く宵闇だ。  大陸全土に数え切れないほどの信者を持つ神聖国メルタバーナの神官王の婚姻式は、大神殿にとっても久しぶりの大行事だった。先代の神官王は御神託がなかったため婚姻していない。それどころかここ何代かの神官王も御神託がなく誰一人として婚姻することはなかった。そこにきての今回の御神託なのだから、国内どころか大陸中の神殿でお祭り騒ぎになっても不思議ではない。  御神託の花嫁を得るということは、すなわち当代の神官王が神に愛されているという証でもある――そう伝えられて久しい慶事に大陸全土が沸き立っていた。  とはいえ、神官王の婚姻式は王族のそれとは違う。事前に潔斎し、神に誓いを立てる儀式が中心だった。それでも神官王と共に喜びを分かち合いたいと願う信者たちは多く、当日は大聖堂に収まりきらないほどの人々が集まることが予想される。 (神官王としてはありがたいことなのだろうが……)  外を見ていた碧眼が視線を落とし、自分の右手をじっと見る。 (この肉体を得たときに神官王となる道筋は見えていた)  さらにウィンガラード王国で未来の花嫁と出会うこともわかっていた。むしろ時機が来たのだと神官団の一人になりウィンガラードへ赴いた。  現在(いま)の神が自分に何を望んでいるかユリティはよくわかっていた。そのためにリシアが御神託の花嫁となったこともだ。すべてわかっていてユリティは受け入れた。神の手のひらで踊らされようとも姫を手にできればそれでいい。そして姫自身もユリティを求めるであろうことはわかっていた。出会い求め合うことは二人にとって必然だった。 「さて、願いは叶ったものの、あとはこちら側(・・・・)で穏やかに過ごしていけるかどうかだが……」  ため息をついたユリティの耳に鈴が鳴るような笑い声が聞こえてきた。 「そのため息は、もしかしなくても僕のせい?」  ユリティしかいないはずの神官王の部屋に少女のような声が響く。それに片眉を上げたユリティが「閉じ込められたくなければ人らしく振る舞いなさい」と口にした。 「はぁい」  窓の隙間から黒い煙がするすると入り込んだ。黒い煙はゆらゆらと宙を漂い、そうかと思えば少しずつ人の姿を形作り始める。  はじめに現れたのは床に立つ白く細い足だった。それからふわりと揺れる黒いレースの裾が現れ、白い指先、そこから伸びる真っ白な細腕、華奢な体躯、さらに小柄な肩や細い首が姿を現す。そうして最後に現れたのは美しい顔と流れるような長い黒髪だった。  現れたのは御神託の花嫁でありウィンガラード王国の姫、リシアだった。 「まったく、あたなという人は……」  ユリティが呆れたようにため息をつく。 「だって、全然部屋に来てくれないんだもん。だから、辛抱できなくて来ちゃった」 「嫁入り前の姫君の言葉とは思えませんね。暇を持て余しているからといって、あろうことか男の部屋に忍び込むとは躾がなっていませんよ」 「それじゃあ、ユリティが躾けて?」  ソファに座るユリティにリシアがゆっくりと近づく。そうして膝に跨がるように座面に片膝をつき、コテンと首を傾げながら「躾けて?」と再び口にした。黒い夜着から伸びる細腕をユリティの首に回し、煽るように真っ赤な唇をそれより赤い舌先でひと舐めする。 「ねぇ、ユリティ」  艶やかな唇を耳に寄せながらリシアが甘く囁いた。その声は神さえも魅了する色香を漂わせている……が、ユリティには効果がない。 「嫁入り前の姫が、はしたない」  すました表情でしなだれかかる細腰に手を回した。一瞬喜びに表情を明るくしたリシアだが、尻をパシンと打たれ「いたっ!」と悲鳴を上げた。 「ユリティ、痛いってばっ!」 「当然です。痛くなるように叩いていますらかね」  そう言って小振りな尻をもう一度パシッと平手で打つ。 「いつもこのような薄い夜着で出歩いているのですか?」 「ちが、痛っ!」 「このような格好で男の部屋に潜り込むとは節操がない」 「待って! 待ってってば、ユリティっ」 「このようにはしたない姫に育っていたとは思いもしませんでした」 「違うからっ。ユリティに会いたかったの! ほかの誰にもこんなことしない!」  リシアの細腕がユリティの首にギュッと巻きついた。ぴたりと合わさった胸から喜びに早まるリシアの鼓動がユリティの胸へと伝わる。 「まったく」  ひと言こぼしたユリティは、尻を打っていた手で今度は優しくリシアの背中を撫でた。 「あなたは神官王の花嫁なのですよ。婚姻式までおとなしくなさい」 「……だって、やっとユリティと会えたのに全然会いに来てくれないから」  首に回していた腕を解いたリシアが、そうつぶやきながら項垂れた。その姿は直前までの妖艶と言わんばかりの様子ではなく可憐な少女に戻っている。しかしリシアは可憐な少女(・・)ではない。そのことをよく知っているユリティだが、リシアの性別を気にしたことは一度もなかった。 「神官王の婚姻式にはそれなりの準備が必要なのです。それまであなたはあくまでウィンガラードの姫君、御神託の花嫁。相応の振る舞いをなさい」 「……わかってる」  唇をほんの少し噛み締め悲しそうな表情を浮かべる姿は憐憫の情を誘う。しかしユリティの中にはそれ以外の感情もわき上がっていた。 (早くすべてをこの手にしたい。そしてわたしから離れられないようにしてしまいたい)  それは紛れもない情欲を含んだ所有欲だった。それらは本来神官王たる者が抱くものではない。しかし、そのことをユリティが気にすることはなかった。 (リシアを手にするために神官王の道筋をあえて進み続けたのだから)  古のときに傍らにあった愛しい存在。この世で唯一だった愛しい黄金の竜が産み落とした二つの命。それが再び一つの体に宿った。リシアの背中を撫でるユリティの手にわずかに力が入る。 「毎日とはいきませんが、時々顔を見に行きましょう」 「……ほんとに?」 「えぇ。特例ではありますが大神殿にとっても待ちに待った慶事です。花嫁のご機嫌伺いという形であれば誰も咎めないでしょう」 「……うれしい」  しゅんとしていたリシアの顔がはにかむようにほころんだ。 (そう、人間にとっても喜ばしい慶事。人の肉体しか持てないわたしには都合がいい)  そもそも今回の御神託の花嫁は神の都合で(・・・・・)行われた神託だった。いまの神官王にウィンガラードの姫を嫁がせることが目的の神託だが、それを知る者はいない。 (己が生んだ子だというのに、彼女の目には愛しいものしか映っていない)  この状況を作り出した美姫の顔を思い浮かべたユリティの口元が笑みの形に変わる。リシアの母親は見た目こそ誰をも惑わす美姫だが、中身は自分たちのことばかり考える人ならざる存在でしかない。自分たちのためなら己の子さえ性別を偽り贄として差し出す。それがわかっていて受け取った自分も大概だなと自嘲した。  ユリティの表情に気づいたリシアが「ユリティ?」と声をかけた。可憐な姫が目尻を下げながらユリティを覗き込む。 「どうかしたの?」 「いえ。それより食事はどうしました?」 「……あっちの食事は、まだ」  目尻を染めながらそう答えるリシアの声には甘さが見え隠れしている。 (なるほど、一応は辛抱していたということか)  左手を持ち上げたユリティは、人差し指を口に含むと皮膚にカリッと噛みついた。すぐにとろりとした鉄臭い味が口に広がる。 「いまはこれで我慢なさい」  リシアの眼前に差し出された指の腹にはツプツプと鮮血が滲んでいる。それを見た漆黒の瞳がきらりと光った。華奢な白い喉がコクリと鳴る。 「いいの?」 「大神殿の人間に手を出されるくらいなら、これくらいどうということもありません」 「ほかの男がほしくなることなんて、絶対にない」  そう言い切ったリシアがむくれるように頬を少しだけ膨らませる。微笑ましい姿ではあるものの、ユリティはリシアが男と断言したことに苦笑せざるを得なかった。 (血を求めるなら女でもよいと思うのだが)  それなのに相手は男だと決めつけている。リシアがそう考えるのは姫として育ったことが影響していた。  リシアは生まれたときから姫として育てられてきた。そのことを知る者は母親の気まぐれだと思っているが、姫だと自認させることがリシアの肉体に少しずつ影響を及ぼしている。それもすべて神官王の、ユリティの花嫁となるためにリシアの母親が仕向けたことだった。  指の腹に滲む血を見る黒眼がゆらりと揺らめく。リシアはこれまで侍女マルガの血以外を口にしたことがない。そうするように母親に命じられていたからだ。ところが目の前には愛しい人がいて、その指には鮮血が滲んでいる。  期待に満ちた黒眼がユリティの顔をちらりと見た。二度、三度と視線をさまよわせてからコクリと喉を鳴らす。そうしてうやうやしくユリティの手を持つと、ゆっくりと口を開いた。はじめは舌先でチロチロと舐め取るように、そのうち我慢できないと言うように指を口に含みしゃぶるように舐めまわし始める。  薄い夜着姿で男の膝に乗り、白い頬をわずかに赤く染めながら男の指に熱心に吸いつく様子は淫靡そのものだ。興奮しているのかリシアの細腰がわずかに揺らめいている。 「……もう止まっちゃった」  ぽつりとつぶやく声にユリティの口元がほころんだ。名残惜しそうに指の腹を舐めるリシアを立ち上がらせ、「さぁ、部屋に戻りなさい」と説く。渋々といった様子を見せるリシアが「ねぇ、いつ会いに来てくれる?」と眉尻を下げた。 「時々と言ったでしょう?」 「わかってる。でもいつ来てくれるの?」 「そうですね……では二日後の午後には」 「……遅い」 「我が儘を言ってはなりません。わたしには神官王としての職務があります。そしてあなたは御神託の花嫁として過ごす身。あぁ、侍女の言いつけにもよく従うように」 「……マルガのこと、そんなに信用してるんだ」  リシアの顔に不満げな表情が浮かんだ。リシアがそんな表情を浮かべるのは、国からついてきた者たちの中で唯一大神殿に住むことが許されたのが侍女マルガだったからだ。ほかの者たちは荷物の運び入れが終わるのと同時に祖国ウィンガラードへと送り返されている。 「彼女は優秀な侍女ですよ」  そう告げながらユリティが微笑んだ。 (あの者はリシアにのみ仕えている。それだけで十分優秀だと言えるだろう)  侍女マルガはリシアの母親が用意した侍女でありながらリシアにのみ仕えていた。ユリティにはそれが()えていた。だからこそ大神殿に住まうことを許可した。  ユリティにとって身近に現在(いま)の神に連なる者がいるのは愉快なことではない。たとえ人の身になっても彼らはかつての贄でしかなく、彼らが身近にいることで煩わしいことに巻き込まれたくないからだ。だから追い返したのだが、そんなことなど知らないリシアは侍女のみを残したことを“それだけ侍女を信用している”と捉えた。そして小さな嫉妬心を抱いた。 (なるほど、一途なところは母親に似たか……それはそれで悪くない)  ユリティは眉尻を下げるリシアを見ながら言葉を続けた。 「彼女は優秀です。だからこそ神官王の、わたしの花嫁を任せられると思っているのですが」 「ユリティの、花嫁」  花嫁という言葉を口にした途端、リシアの頬が赤く染まった。不満げだった顔はすっかり消えてなくなり、うっとりした表情で再び「花嫁」と口にする。 「そう、あなたはわたしの花嫁です。わたしの花嫁らしくおとなしくできますか?」  優しく告げるユリティの声に黒い瞳が濡羽色(ぬればいろ)に輝いた。 「わかった」 「いい子ですね。では、誰にも見つからないように部屋へ戻りなさい」  こくりと愛らしく頷いたリシアの姿が少しずつ崩れ、すぅっと黒い煙に変わる。そうして来たときと同じように窓からするりと出て行った。

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