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第10話 花嫁と兄2

「それにしても裏庭って広いなぁ」  思わずそんなことをつぶやきながら庭の奥へと進む。庭には美しく剪定された薔薇がこれでもかと咲き誇っていた。薔薇は主に春と秋に咲く。そのことはリシアも知っている。しかし裏庭では一年中咲くように品種改良を重ねた薔薇が取り揃えられていた。  リシアが毎日堪能している湯船に浮かんでいる薔薇も、この裏庭に咲いているものだ。見渡すだけで大小様々な大きさの薔薇が色とりどりに咲いているのが目に入る。 (薔薇は神様へのお供え物だって言ってたけど)  そんな薔薇の花びらを毎日あんなに使って大丈夫なんだろうか。「そういえば母様も薔薇が好きだったっけ」と、自身が大輪の薔薇のような母親を思い出した。ふと、鮮血のように真っ赤な薔薇が目に留まった。それはリシアの手ほどの大きさをした大輪の薔薇で、少し近づいただけで甘い香りが鼻をくすぐる。 (この匂い……まるで母様みたいだ)  母親からは時々薔薇のような香りがしていた。それは大抵長兄と夜を共に過ごした翌日で、なんとも言えない甘い香りにリシアは何度もうっとりした。同時にそうした香りを放つ母親がうらやましくて仕方なかった。自分からもそんな匂いがすればユリティを惹きつけることができるかもしれない。そう考えて毎日のように薔薇の花を部屋に飾ってもらったこともあった。 (ようやく僕も薔薇の香りがするようになった)  毎日薔薇の湯を使っているからか、腕に鼻を近づけるとほんのりと薔薇の香りがする。それは裏庭に咲いている濃く甘い香りとは違い、どちらかといえばジャスミンのような清々しささえ感じるものだった。想像していたものと違ってはいるものの、この香りが一番好きだとユリティは毎晩囁いてくれる。 「完全に開花すればもっとよく香るでしょう」  昨夜もそう囁かれた。開花するという意味はわからないものの、愛しい人に好きな香りだと言われて悪い気はしない。 (あれ……?)  ふと、薔薇ではない香りが漂っていることに気がついた。どこか懐かしいような、それでいて不快にさせる匂いにリシアの眉がわずかに寄る。  振り返った黒眼の先にドーム型の屋根があった。薔薇が絡みつくように咲いている四本の柱に支えられたそれは小振りな東屋(あずまや)で、そこに見覚えのある男が立っている。 「想像以上になったな」 「……ギンシル兄様」  立っていたのは茶色の髪に青い目をしたリシアの次兄だった。なぜここにいるのかとリシアの黒眼が訝しむように細くなる。そんな弟の視線に気づいていないのか、ギンシルが口元にいやらしい笑みを浮かべながら一歩踏み出した。 「小さい頃からいやらしい体をしてると思ってたが、ますますいやらしくなったな。男のくせに、姫様どころか今度は神官王の花嫁か」 「ギンシル兄様、どうしてここに?」  ニヤニヤ笑いながらギンシルがさらに一歩近づく。 「おまえに会いに来たんだよ。あいつのせいでウィンガラードには入れなくなったが、メルタバーナには少しばかり伝手があってな」  あいつというのはアレクシア兄様のことに違いない、リシアはそう考えた。 (ギンシル兄様、追放されてたんだ)  そのせいで祖国に入れなくなったのだろう。そのことにリシアは少しばかり首を傾げた。  兄二人は亡くなった正妃の忘れ形見で、ウィンガラード王国に後継ぎの王子はこの二人しかいない。もし長兄に何かあれば次兄が王位を継ぐことになる。それなのに長兄は次兄を追放した。血を分けた兄弟であり、いまだ子がいない長兄にとっては唯一の王位継承者だというのになぜ追放したのだろう。  そこまで考えたものの、どうでもいいかと考えることをやめた。リシアにとって祖国は生まれ育った土地でしかない。一番に考えるのは愛しいユリティのことで、祖国がどうなろうとも興味はなかった。 (それに母様がいる限りどうにかするんだろうし)  リシアの母親は、父王が亡くなるとすぐに長兄の妃となった。「だって彼こそが金竜なのよ」と笑う母親は、すでに父王のことを忘れたかのような顔をしていた。リシアはそれを恨むことも悲しむこともなかった。そういう人物だとわかっていたからだ。そんな母親が長兄を愛する間はウィンガラード王国がどうにかなるとは思えない。 「すっかり女になった(・・・・・)な。それだけ神官王に可愛がられてるってことか。いつもすまし顔の高潔な神官王様も、おまえを前にすればただの男になるってことだな。おまえ、とんだ傾国だな」  ギンシルから嫌な匂いが漂ってきた。リシアの可憐な顔が不快そうな表情に変わる。 「おまえの母親も相当な色狂いだったが、おまえはそれ以上かもな。とはいえ、おまえの母親は大陸一の女だ。あんな女はどこを探しても見つかりはしない。さすがは大国からも妃にと求められた美姫だけのことはある」  さらに一歩、また一歩とギンシルが歩みを進める。 「だが、父上が亡くなるのと同時にアレクシアが囲いやがった。さすがの俺もあいつと剣を交えたいとは思わない。アレクシアは優男の顔をしているが恐ろしいからな。それなら代わりにおまえをもらってもいいと思わないか? それなのに国外追放なんてふざけていやがる。あいつは頭も股間もあの女の言いなりだ」  王族としては下品すぎる言葉にリシアが眉をひそめた。 (昔から下品だと思ってたけど、ますます下品になった)  これも国外追放の影響だろうか。追放ということは王族の地位を剥奪されたのかもしれない。国外の縁者の世話になっているのだろうが、こんな男では世話する側にも嫌がられているだろう。リシアはふと「出来の悪い弟は存在するに値しない」という長兄の言葉を思い出した。なるほど、こういう弟なら必要ないかもしれない。 「すっかり母親そっくりになって……顔もだが、雰囲気があのいやらしい女そっくりだ。その体で毎晩あのすました神官王を骨抜きにしてるのかと思うとたまらないな。異国で女も男も飽きるほど抱いてきたが、おまえほどの奴はどこにもいない。ほら見ろ、おまえを見ているだけでこんなに(たぎ)ってきた」  ギンシルの右手がズボンの前立てあたりを撫でている。そこは近くで見なくてもはっきりわかるほど大きく膨らんでいた。 (そんな下品なもの見せられてもね)  それにユリティ以外の体を見ても興奮することはない。リシアが冷たい表情を次兄に向ける。 (これがユリティなら、ただそこにいるだけで体が熱くなるのに)  見つめ合うだけでリシアの胸は高鳴った。触れられれば肌がざわめき、口づけられるだけで体の奥が熱を帯びる。触れられなくても花芯が蜜をこぼし交合口まで濡れるほどだ。  ユリティとの交わりを思い出したリシアの肌がパッと赤くなった。昨夜、散々受け止めた腹の奥がズクズクと疼き始める。黒眼がとろりと潤む。 「なんだ、おまえもまんざらじゃないんだな。そんなに肌を赤くして、やっぱりあの女の子どものことだけはある。何が神官王の花嫁だ、何が御神託の花嫁だ。ただの淫乱じゃないか」  ギンシルの言葉に、とろけていたリシアの口元に冷笑が浮かんだ。 「残念だけど、体が熱くなったのは昨夜のことを思い出したからだよ」 「ハッ! 神官王は生まれたときから神殿育ちの聖職者だ。そんな奴より俺のほうがよほど気持ちよくしてやれるっていうのにな」 「ギンシル兄様が? ははっ、なに言ってるの? 見た目も中身も、もちろんベッドの中でだってユリティに勝てるはずないでしょ。そんなだからアレクシア兄様に“いらない”って言われるんだよ」  リシアの言葉にギンシルの青い目が鋭く光った。 「アレクシアのことは関係ないだろ。そもそも男のくせに王女として育ったおまえに俺のことをどうこう言えるのか」  睨むような視線に、リシアは「そういえば」と王城で耳にしていた言葉を思い出した。  ――アレクシア様は優秀な王子様、ギンシル様は残念な王子様。同じ正妃様から生まれたのにどうしてだろう。  ――ようやく金竜の加護を得たお血筋が繋がったというのに、お生まれになった王子様の片方は残念だこと。  リシアがその意味を正確に理解したことはない。しかしギンシルが劣る王子だということは感じていた。そしてリシア自身もそうだということをたったいま実感した。 「残念だけど、ギンシル兄様のことは好きになれない。ごめんね」  すまし顔でそう告げるリシアにギンシルが「ハッ」と嘲るように笑った。 「おまえが俺をどう思っていようが関係ない。おまえは生まれたときから俺のものなんだよ」  さらに近づくギンシルから強烈な悪臭が放たれた。あまりの匂いにリシアが顔をしかめる。これ以上嗅いでいたら吐いてしまうかもしれない。そう思い踵を返そうとしたとき、建物のほうから「姫さま」と呼ぶマルガの声が聞こえてきた。 「チッ」  舌打ちしたのはギンシルだった。マルガは小さい頃からリシアの侍女として仕えているためギンシルもよく知る人物だ。そして異様な気配を放つ侍女だということも知っていた。このままでは分が悪いと思ったのか、もう一度舌打ちすると「おい」とリシアを呼び止めた。 「次に会ったときは思う存分よがらせてやる。減らず口をたたいたことを後悔するんだな」  そう言ってあっという間に姿を消した。眉をひそめながら「なに言ってるんだか」とつぶやく。 「姫さま。……もしや、どなたかいらっしゃいましたか?」  近づいたマルガが冷たい眼差しをギンシルが消えたほうへと向ける。 「いらない王子様がね」 「左様でございましたか」  マルガはギンシルの気配に気づいていたが、敢えて口にすることはなかった。視線を主人に戻し、「姫さま」と少し厳しい声を出す。 「ベールを取ってはならないとの約束、(たが)えてはなりませんと何度申し上げればよいのでしょうか」 「わかってる。ユリティには内緒にしてて」 「わたくしが神官王に何か申し上げることはございません」  それでもユリティには知られてしまうに違いない。そう思いながら「お仕置きされるかな」とリシアがつぶやいた。 (……それも悪くないかも)  あの美しいユリティがどういうお仕置きをするのか想像するだけで体が熱くなる。 「姫さま、今日は早めにお戻りになられると神官王から伝令がございました」 「え?」 「湯浴みをご一緒に、との言づても承ってございます」 「ほんとに? それじゃあ早く戻らないと」  歩き出そうとしたリシアの足が止まった。近くの垣根に深い真紅色の薔薇が咲いている。それは黒にも見える濃厚な色で、近づけばほかよりも濃い香りを放っていた。 「僕もこんな香りがすればいいのに」  そうすればユリティがもっと求めてくれるかもしれない。もっともっと交わりたいと思ってくれるはず。昨夜のことを思い出したリシアの腰がふるっと震えた。同時に腹の奥がジュンと濡れたような感覚に襲われ、それに気を取られたからか指に薔薇の棘が触れる。 「っ」 「姫さま、お手を」 「平気」  指を見るとツプツプと血が滲んでいた。それを舌先でぺろりと舐めたリシアの眉が不快そうに寄る。 (やっぱり僕の血はおいしくない)  この世でもっとも美味なのは愛しい人の血だけだ。毎日のように口にしている味を思い出し、リシアの黒眼がきらりと光る。 (早くユリティの血がほしい)  同時に熱くて逞しい欲望もほしい。それで体の奥まで愛してほしい。ずっとずっと深いところにたっぷりと注いでほしい。棘を避けながら真紅の薔薇を一輪手にしたリシアは、火照る体を持て余しながら部屋へと戻った。

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