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第11話 神官王と古の神

 聖典に目を通していたユリティは、大神殿に羽虫が一匹入り込んでいることに気がついた。気づいていながらそのままにした。 (よからぬ動きをしているとは思っていたが……なるほど)  気配には覚えがある。茶色の髪をした目つきの鋭い王子を思い出したユリティは、王子の青い目がねっとりとリシアを見ていたことも思い出した。 (神官たちの入れ知恵か、それとも王子のほうから接触してきたか)  神官の中におかしな動きをする者が数名いることにユリティは気づいていた。それでもあえて詮索することはなく放置していた。そのほうがまとめて処分できると考えたからだ。 (さて、どうしようか)  あの王子が加わるのなら、ただ処分するだけではもったいない。背後で蠢く大国の影も少々鬱陶しい。 (しかもわたしのリシアに手を出そうとは)  ユリティの手が執務机の引き出しを開け、一通の封筒を取り出した。剥がされた封蝋はウィンガラード王国のもので、中には簡潔な文章が記された紙が一枚入っている。 “愚弟が何か問題を起こすようなら好きにしてもらってかまわない”  冷たい内容に似合う鋭い文字を指先でなぞる。「血を分けた兄弟だというのに情がないのか」と冷めた目で見ながら口元に笑みが浮かんだ。  第二王子ギンシルがリシアに懸想(けそう)していることは、神官団の一員としてウィンガラードを訪れたときにユリティも気づいていた。ねっとりした眼差しは到底弟を見るものではなく、八歳の子どもに向けるものでもない。全身からどす黒い欲を漂わせ腐臭を撒き散らす王子の様子に、思わず心臓を握り潰しそうになったことを思い出す。  だが、ユリティはそうしなかった。理由は王子もまた金竜の貴重な血を受け継いでいたからだ。いまや金竜の正当な血脈はリシアを含め三人の兄弟にしか受け継がれていない。一人は現在(いま)の神の手に堕ちた。一人は自らが囲っている。残り一人は血という意味では貴重なものの、それ以外に興味を引かれるところはなかった。 (しかしまぎれもない金竜の血脈……最大限利用しなくてはもったいないか)  それに、このまま放置していては古の神が手に入れようと動き出す可能性もある。その前に餌として与えるほうが都合がいい。口元をほころばせたユリティが、ふと「祝宴というのもおもしろいな」とつぶやいた。 (ついでにわたしの花嫁を披露することもできる)  古の神々の前ならばリシアも血を熱くし見事に開花するだろう。それにこの贄は自分の花嫁だと向こう側に示すこともできる。「わたしはますます神官王の道から外れていくな」と苦笑しながら執務室の外に出た。 「猊下、どちらに?」 「しばらく奥の間で祈りを捧げます。誰も近づけないように」 「承知いたしました」  ユリティが向かったのは大聖堂の地下だった。祭壇の裏側にある扉は代々神官王しか開けることが許されておらず、その先にある部屋は奥の間と呼ばれている。その場所をユリティは都合のよい作業部屋と考えていた。事実、これまでも神官王としてよりも古の神の一人として使うことのほうが多かった。  廊下を歩くユリティとすれ違う神官たちは波が割れるように道を空け、次々と(こうべ)を垂れる。中には熱いため息を漏らしながら後ろ姿を見送る者もいた。信者だけでなく神官たちからも絶大な人気を誇る神官王ユリティは、これから神官にあるまじき行為に及ぼうとしている。それに気づく者は誰もいない。  大聖堂の祭壇の奥には真っ白い扉がある。ユリティが近づくとひとりでに開いた。階段を下りると真っ直ぐに伸びる通路があり、床は漆黒の大理石でできている。通路の両側には澄んだ清らかな水が張られていた。巨大な人工池の中央を貫く漆黒の通路の先には正方形の床が見える。通路とは真逆の真っ白な床の中央には巨大な水晶が台座とともに鎮座している。  ユリティが正方形の床に足を踏み入れると四方に設置された水晶燈(すいしょうとう)に明かりが灯った。その青白い光が中央の巨大な水晶を照らす。人の手を加えていない水晶の表面はいびつに光り、周囲に虹のような光が反射した。ユリティはその水晶の表面に右手の指先だけで触れた。  ポウ、ポウッ。  触れたところが点滅し、あちこちで光が弾けて水晶が瞬くように輝き出す。パチパチと小さな水泡が弾けるような音の後にキーンと甲高い金属音が響いた。金属音が奏でるのは、すでにこの世界から失われて久しいもっとも古い神語の一節だ。  続けてビーン、ビーンと金属の弦を弾くような音が響き渡る。単音だった金属音に別の金属音が重なり、倍音のような音が薄暗い部屋にこだました。  ビィィィィィン。  一際大きな音が響き渡ると部屋に静寂が戻った。それを待っていたかのように「これは久しいの」という、男とも女とも言えない声が聞こえてくる。 「お久しぶりです」  振り返ったユリティの少し先に誰かいる。巨大な水晶が水晶燈の灯りを反射し、その人物を照らし出した。立っていたのは漆黒の肌に山羊(やぎ)のような、それよりも随分と立派な角を持つ美丈夫だった。 (これはまた宴を好みそうな御仁が現れたものだ)  ユリティの口元に笑みが広がる。 「こちらで顔を合わせるのは久方ぶりか。息災のようじゃの。あぁそうであった、花嫁を迎えたのであったか。であれば、そのように肌艶がよいのも頷ける」 「おかげ様で、毎夜精を吸い尽くされんばかりですよ」 「あれら(・・・)は貪欲な贄ではあるが、其方(そち)の精ならば十分に満足させることができるであろう?」 「そうであればいいのですが。少しでも空腹にしては、よそでつまみ食いしかねません」 「たしかにそういう性質ではあるが、其方の精力では花嫁が余所見(よそみ)をする暇などないであろうに」  おもしろいことをと言わんばかりに美丈夫の真紅の眼が細くなる。それに微笑み返しながら「古のようにはいきません。わたしも必死なのですよ」と答えると、真紅の瞳がますます細くなった。 「其方が必死とは、また面白きことを言う。こちら側にとどまればそのような戯言(ざれごと)も口にできるようになるか。これはなんとも愉快」  カッカッと笑うたびに漆黒の肌とは対照的な白銀の長い髪が床で蠢いた。それは白蛇の大群のようであり、揺れるたびに真っ白な床から立ち上る煙のようにも見える。 「もはや古のようにはいきません。それに、こうして肉体はすでに人のもの。古のように力を使ったのでは長くは持ちません」 「面白きことを言う。そんな柔い体で神語を奏でたと言うのか? 我らを呼び出すほどの力はあれら(・・・)にもないというのに」 「それでも時折、こちら側にやって来ようとするものもいますが」 「たしかにそういうものもいる。だが、それはこちら側に残っている同胞(はらから)に呼ばれてのこと。そういう(ことわり)だと、我らとあれら(・・・)で取り決めたであろう?」  古の時代、この世界はいまとは別の神々によって支配されていた。寛容で享楽的な古の神々は、この世界に多く存在する人間を愛玩具として愛でた。そんな中、一際寵愛を受けたのが現在(いま)の神の祖たる古の贄たちだ。彼女らは神々をも魅了する姿と香りを持ち、次々と神々を惑わせた。  極上の贄を手に入れるため、神々は争うようになった。それを憂えた一部の神はこの世界を手放すことにした。自分たちが住まうための穏やかな世界を創り、多くはそちらへと移っていった。その際、再び贄を巡り(いさか)いが起きないように古の神々と贄たちとの間で世界の(ことわり)が結ばれた。  それは神語で呼ばれない限り、古の神々はこちらの世界に踏み込まないこと。  これはこちら側を我が物にしたかった贄たちが考えた策だった。こちら側に多く存在する人間は寿命が短く物忘れがひどい。贄たちはそれをよく理解していた。「すぐに神語を理解する人間はいなくなる」と考えたとおり、こちら側から神語のほとんどは失われ古の神を呼べるものはいなくなった。 (それでも古の神々を畏れ続けている)  自らを神と称するようになった贄たちは、自分たちの狩り場を侵されることを何より嫌った。だからこそ古の神に対抗できる存在を手に入れようとした。そのために金竜の血脈を贄として用意した。 (そしてわたしにあてがった)  ユリティの顔に艶然とした笑みが広がる。あえて手のひらで踊ってみせた甲斐があったと美しい笑みを浮かべた。 「して、我を呼んだのは如何(いか)なることか?」 「花嫁を自慢したいだけではなかろう?」と白い唇が言葉を続ける。その目は期待に満ちた子どもように光っていた。 「わたしの花嫁をお披露目するために、小さいながら祝宴を開こうと思いまして」 「ほう。祝宴と言うからには、それなりの供物が捧げられるのであろうの」  真紅の眼が半月のようにニタリと笑う。 「金竜の血脈の一人ではいかがでしょう」 「なんと、よいのか?」 「上の兄は現在(いま)の神の手に堕ちました。末の子はわたしの花嫁になりました。間の子を供物として捧げましょう」 「ふむ、たしかに金竜の血脈となれば久方ぶりの供物としても十分。()きこと、佳きこと」 「満足いただけそうですか?」 「其方の花嫁には敵わぬが、失われた金竜の血となれば十分。しかし金竜を其方が手放すとはな。金竜のためにこちら側に残ったのであろう?」 「わたしの金竜は手の内にあります。まがい物に興味はありません」 「なるほど、其方らしい」  白銀の長い髪を蠢かせカッカと笑う。 「して、そのためにわざわざ我を呼んだのか? ほれ、こちら側にはまだ同胞(はらから)がいたであろう?」 「大砂漠のものたちですか? そういえばあなたの弟もいましたね」 「バフォルか。彼奴(あやつ)が砂漠の神殿に籠もってから随分と時間(とき)が経った。彼奴(あやつ)にも執着する贄がいるからの」  西のシンシラーガ帝国が治める大砂漠一帯には古の神々を祀る神殿がいくつか残っている。そこにはいまだこちら側に残る古の神がいるが、ユリティは彼らと距離を置いていた。彼らはかつてユリティが愛した金竜を奪った存在であり、その命を奪った相手でもあるからだ。そしてリシアに興味を示す太陽王を囲う存在でもあった。 「其方はいまだ砂漠の同胞を許せぬか」 「どうでしょうね」 「其方は昔から執念深かった。そうした姿も我の好みではあったが」  ニタリと笑う真紅の眼をユリティの碧眼が涼しい顔で見返す。 「して、宴はいつ開く?」  そう尋ねる古の神の白く長い髪が床をうねった。うねりながら指ほどの太さの束になったかと思えばユリティへと這い寄る。その動きはまるで白蛇のようだ。 「明日の夜には」 「我は陽の当たるときでもかまわぬぞ?」 「祝宴とあれば夜のほうが興が乗るというものですよ」  ユリティの返事に満足げに笑った古の神は、「では同胞を少し連れていくか」と白い唇を真っ赤な舌で舐めた。それに反応するかのように白蛇のような髪が足元まで覆う神官服の裾をめくる。そのまま神官服の中に潜り込むとすねを撫で、太ももを這い上がり、その奥へと毛先を伸ばした。 「やれ、花嫁にしか勃たぬのか」  表情を一切変えないユリティに古の神がため息をついた。 「申し訳ありません」 「心にもないことを」 「そんなことはありませんよ、ナキア」  感情のこもっていない言葉に再びナキアと呼ばれた古の神がカッカッと笑う。同時に神官服の中でいたずらに蠢いていた髪がはらりと床に落ちた。白銀の髪がゆらりと揺れると漆黒の体も同じように揺れ、そうしてユリティへと向かって動き出す。  ユリティの目前に立つ神の姿は、大神殿をはじめとする大陸中の神殿に保管される聖典に描かれた魔のものと酷似していた。頭の側面にある山羊のような角は緩やかに外側へと湾曲し、薄暗い部屋の中でも漆黒に光り輝いている。  その漆黒の角にユリティが指先を這わせた。触れた箇所に星屑のような光がパッと散り、指を動かせば指先を追いかけるように光が現れる。その光で線を描くように二度、ユリティの指が角の先端と根元を行き来した。 「やれやれ、其方の指先は相変わらず官能的すぎる。ほれ見よ」  漆黒の指が股間あたりをするりと撫でた。そこには蛇の頭のようなものが腹につくほど首をもたげている。 「それは申し訳ないことをしました」 「我の角に触れるは交淫と同じこと。忘れたわけではあるまい?」  古の神のため息に微笑みながら「明日の夜、存分に発散してください」とユリティが答える。 「さて、それでは金竜の子が可哀想に思えるがの」  カッカッと笑った古の神は、麗しい笑みを残しながら霧のように姿を消した。 「明日が楽しみですね」  祝宴の中でリシアがどこまで体を熱くするか、それを想像するだけでユリティの体が熱くなる。古の神の淫行にはまったく反応しなかったのが嘘のように猛々しい熱塊が神官服を持ち上げていた。それに苦笑しながら「明日に備えて今夜は一度だけにしますか」と独りごち、奥の間を後にした。

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