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◉1◉隼人と孝哉、ドアの向こう側_1_孝哉の肌に
「ん、はやと、さ……ん」
少し見ないうちに逞しくなった体から、優しくて甘いキスが降ってくる。
「ベッド、つれてっていい? 歌いたかったけど、その前に……」
「おー、頼んだ。ちょっと今は本当にダメだわ」
半年間ろくに食事を摂っていなかった俺は、孝哉が作ってくれたあのコンソメスープを飲んではいるものの、もう体力的に限界を迎えていた。到底立っていられる状態ではなくなってしまい、大人しく孝哉に甘えることにした。
正面から抱き合ったまま抱えられ、移動しながら交わすキスは、ほんの少しだけ濡れていた。夢中になって行き来している割に悲しげで、その唇が頬や首筋に触れるたびに、肌は冷えた空気に熱を奪われていく。触れ合うところは熱いのに、離れているところは冷たくなる。その熱の移ろいが、お互いの頭の芯を痺れさせていった。
「んっ、……なあ」
気が急いているのに、壊れ物を扱うように大事に俺を運ぶ孝哉は、何度かすんと鼻を鳴らしていた。ぽろぽろと転がり落ちる透明な雫は、とめどなく溢れている。
「孝哉、泣くなよ。な?」
そっと横たえてもらった体を、少しだけ起こし、その顔を見上げる。涙がぽたりと落ちて来た。
これまでずっと長い前髪に隠されていた孝哉の目は、今はシルバーブロンドの巻き毛に囲まれてきらきらと輝いている様を隠すことなく見せている。そこに宿る強い視線は、俺をこのシーツに縫い止めようとしているのかと思えるほどに、力強い。
時折再会を喜ぶ光を纏わせ、ふわりと表情が緩む。そうかと思うと、すぐに眉根を寄せて悲しみの色を滲ませる。それを何度も繰り返しては、その度に涙を溢れさせるという状態が続いていた。
「だって、やっとだよ。やっと会えた。ずっとこの腕の中にいたかったんだよ、俺。それなのに半年も離れてたんだから。やっと触れられる、声が聴ける……。自分で決めたことだったけど、そばにいられなかったことが、本当に苦しくて……。この日をずっと待ってたんだ」
孝哉は、狂気的に俺を狙っている男から俺を守るために、ある作戦を実行することになった。それは、俺が生きがいを失って行くことで魅力を失い、ストーカーの恋を醒めさせるという狂気じみた作戦だった。
この奇策は功を奏して俺はその男から解放されたのだけれど、その間に人間の三大欲求の全て失うほどに、活力も失ってしまっていた。ただ生きているだけという怠惰な生活は、身だしなみも最低限のものになり、髪は伸び放題になっていた。
その俺の伸び切った襟足の髪を手に絡め、空いた場所に涙で濡れた唇を当てた。少しだけ開いてあてがわれたそれは、肌に触れた瞬間に、まるで意志を持った生きもののように、音を立てて吸い付いた。肌はその中へと僅かに引き寄せられ、そこから生まれた刺激は、肌の奥のもっと先の方へ、波のように広がる痺れを起こしていった。
「んっ、あ……。た、孝哉。わかった、わかったから。お前、俺のこと抱こうとしてるわけじゃ無いよな? ちょっと怖えよ」
恐る恐るそう問いかける俺に、孝哉は小さく息を吐いて微笑んだ。そして、首筋に支配欲の象徴のような小さなアザを残しながら、小さな破裂音と共に唇を離す。端からたらりと垂れた糸を拭うと、表情を一変して、いつものように花が咲くような笑顔を見せてくれた。
「しないよ、そんなこと。するわけないでしょ。俺は抱かれたいもん。でも……」
ギッとフレームの軋む音がする。孝哉は俺に跨ると、自分のTシャツの裾に手をかけた。クロスした腕の先に、ちらりと見える右手のひらの瘢痕。きちんと治療したらしく、薄くはなっているけれど、そこに痛みがあった事実は消えない。
「いつも通りってわけにはいかないだろうから、俺が上に乗ってするけど……いい?」
愛している俺を、孤独の闇に突き落とさなくてはならないことが、なんの代償も無しに行えるわけがなかったという。その苦しみの分だけ自分を痛めつけようとして、孝哉は俺の手から火のついたタバコを奪い、それを握りしめた。あれは、その時に出来た火傷の痕だ。
「おー、ちょっと癪だけど仕方ねーだろ」
俺がそう答えると、不服そうに頬を膨らませる。むくれた顔はとても可愛らしくて、そのあたりは変わっていなかった。
「ちょっと、そこはありがとうでも良くない? そんな風になったのは俺のせいだけどさ……」
そう言いながらシャツを捲り上げ、引き上げて脱ごうとする。その肌に、昇り切った朝日が反射した。その体を見て、俺は息を呑んだ。まるで彫刻のように美しい肉体美がそこにあったのだ。
「綺麗だな……」
その光が露わにしたのは、見覚えのある白くて瑞々しい肌だった。ただ、その下にはまるで分厚い鎧が仕込まれているように、体の厚みが変わっていた。
「本当? ほら、歌えないけど死ぬわけにはいかなかったからさ。絶対そのうち隼人さんとまた一緒に暮らすんだと思って、生きる努力したんだよ、俺。警備してくれた人に相談してさ、それなら筋トレしたらどうかって言われて。頑張ったから、綺麗って言われたのすごく嬉しい!」
ベッド下に服を投げながら大きな笑顔を見せた孝哉は、その視線をうっとりと変えてまた俺へ落とした。心臓がドクンと跳ね上がる。
「俺の体つきを見ると、隼人さんが自分の姿が変わったことに気がついて恥ずかしがるかもしれないって思ったんだけどね。でも、俺が襲われる心配がなくなれば不安要素が減るわけだし、やったほうがいいと思って。それに、俺がちゃんとお世話して、隼人さんの体も元に戻してあげるからね。今はこのままで抱き合いたい」
その瞳がこちらを向くだけで、思わず欲が滾りそうになる。帰ってきた恋人は、これまで以上に俺を魅了する人へと変わっていた。
「確かにそんな体見せられたら、自分の体なんか見たくもなくなるけどな。お前が襲われる心配が減るなら、俺もそのほうがいいよ」
孝哉は、そのよく鳴る体と世界で活躍するギタリストの息子という環境を最大限に活かして、弾き語りを生き甲斐にして生きていた。何より歌うことに喜びを感じるタイプで、体との対話をしつつどんどんその力をつけていった。その評判が広まるにつれ、色々なところから声が掛かるようになり、ロックバンドのボーカルをしていた時期があった。
楽しく過ごしていた数年を過ごし、心から幸せを感じていたある日、ライブ後にバンドのメンバーに襲われるという憂き目に遭っている。その左手の傷は、肘から手首にかけて走る白い筋のように、今でもうっすらと残っている。
抵抗した孝哉に相手はナイフを突きつけ、刺した挙句にその刃を力任せに引いた。そうやってあいつの腕を裂き、筋肉と神経を傷つけてしまった。そのせいで孝哉左手の握力が子供並みにまで落ちてしまい、ギターが弾けなくなってしまった。
そして、「歌っている時の顔が扇情的だからお前が悪い」と言われたらしく、それがトラウマとなってしまった。結果的に歌うこと自体が出来なくなり、生きがいを奪われてしまう。
あの時自分が襲われたのは、抵抗する力が無かったからだと思っているのだろう。ただ逃げ回るだけの生活は疲れてしまう。自分なりに戦う姿勢を示し、抵抗の意思を表明したことで楽になれたのかもしれない。
「本当にすごいよな、綺麗な筋肉だ。もうこの姿だと、そう簡単に組み敷かれたりしねーだろうし。安心だな」
「でしょ? 護身術とかもちょっと習ったよ。だから、前よりは自信持ってステージに立てると思う」
そう言って肘をつき、顔を近づけてきた。
「気に入った?」
悪戯っぽい笑みを浮かべてそう訊くと、吐息を漏らしながらもう一度唇を合わせる。俺はそれに答えず、目の前でキラキラと輝いている白い肌に、すっと人差し指を走らせる。その刺激で孝哉は小さく体を震わせた。
「んっ」
その反応を見ていると、ぞくりと背中に刺激が走った。
食べることも眠ることも放棄していた体に、獰猛な雄のスイッチが、カチリと音を立てて入るのがわかった。
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