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◉1◉隼人と孝哉、ドアの向こう側_3_吹き上げる
◆
『新しいディレクションの件は、孝哉さんから聞いてください。今後のことは、全て彼に伝えておきましたので。お二人が一緒でしたら、休暇明けにはあなたの不調は全て消えているでしょう。そうですよね? ですから、私からは緊急時以外は連絡は致しません。来週また連絡させていただきますね。良い休暇をお過ごしください』
気がつくと、部屋の中はまた真っ暗になっていた。お互いに気を失うまで求め合い、ベッドに倒れ込んでしまったのが昼前。そして、孝哉が俺に服を着せてくれたのが昼過ぎだった。俺はかなり無理をしたので、またそのまま眠ってしまい、メッセージが届いた知らせを聞いて目を覚ました。
孝哉は隣で寝ていた。遠くの方で食洗機が稼働する音がする。俺が寝ている間に家事をしてくれたのだろう、すんと嗅いでみると、ほんの少しだけ汗の匂いがした。
安心し切った顔で眠るその顔は、以前と変わらず美しい。傷跡のある左手を俺にかけ、右手で俺に着せてくれたスエットを握りしめていた。
「ディレクションの話は口実じゃなかったのか……誰のこと言ってたんだろうな、あれ」
孝哉がいなくなった後の俺は、食べることも眠ることも出来なくなり、細かいディレクションをつけてもらわないとギターが弾けなくなってしまっていた。そうなると、サポートの仕事は出来ても、オリジナルの新曲を作る事や、ライブでのパフォーマンスが出来なくなってしまう。
このままでは自分のバンドでの仕事が出来なくなると踏んだ仁木さんが、ディレクターをつけてはどうかと提案してくれていた。
そのディレクターは、俺の音楽活動をよく知る人で、同時に孝哉のこともよく知る人だと仁木さんは言った。
俺たちの知人で共通するのは、バンドメンバーの耀と純と色田、プロデューサーの条野、マネージャーである仁木さん、そして事務所のスタッフの人たち、孝哉の父である和哉さんだけだった。それなのに、その中には該当する人物はいないのだという。
「まあでも、さっきの調子だと演奏も問題なくやれそうだけどな」
そう呟きながら、窓際に置いてあるタバコを手に取った。軽い金属音を鳴らして、ライターに火を灯す。オイルの燃える匂いと、タバコについた火の匂いが混じり、煙に乗ったそれが部屋の中へと広がっていった。
普段ほとんど意識していないとはいえ、部屋の中にはその部屋特有の匂いがある。この半年間、薄まりつつあった孝哉の香りが戻ってきたことで、なんの心配もなく幸せに暮らしていた頃の記憶と感覚が、急激に胸に舞い戻った。
ぽっかりと開いていた心の中の穴が、それによって満たされていく。じんと沁みるほどの幸せに浸ると、とくんと胸が鳴った。
「ん……、隼人さん起きた?」
ぼんやりとした視線を彷徨わせて俺を探しながら、孝哉が目を覚ます。俺を捉えた視線はそのままに、横になったまま気だるげにしている。それでも機嫌はいいらしく、とても幸せそうな笑みを浮かべて俺を見ていた。
さっきは真っ赤になっていた顔も、今は薄紅くらいに落ち着いていて、うっとりとした目つきだけに、あの激しかった情事の跡が見てとれた。
「おう、はよ。色々サンキューな。服着せるの大変だっただろう? 俺、覚えてねーもん。爆睡してたみてーだな。手は大丈夫だったのか?」
左手の握力は子供並みだと聞いている。それに、右手も今はしっかり握り込めないようになっているはずだ。俺は孝哉よりも数センチだけだが背も高い。そんな俺を抱えるのは至難の技だっただろう。
「大丈夫だよ。握るのは難しくても、抱えるのはなんとかなるから。後ろから抱き上げて体拭いて、服を着せただけだし。ずっと眠れてなかったんでしょう? ものすごく深く眠ってたよ」
そう言って、大きな目が半分になるくらいにふわりと笑った。
「でも、ごめん。俺もう起きれない。さっきは頑張って動いたけど、今更体がだるくなっちゃった。あの……あれ、見えたんだ。歌う時と同じやつ」
「歌う時って……あれか、金色の泡」
「そう」
孝哉はそう言うと、つい数時間前に見せたような真っ赤な顔をした。恥ずかしそうに目を伏せると、
「あの泡が見える時は、俺が生きてて一番幸せを感じる時なんだ」
と囁いて笑った。
孝哉が時折口にするこの金色の泡というものは、最初何かの比喩なのだろうと思っていた。元々表現が独特なところがあったので、これもその一部なのだろうと受け取っていたのだ。
それが、実は本当にそれが見えているのだということを知ったのは、俺も同じものを目にしたからだった。
『足の裏から頭の先まで、体の中に金色の泡が駆け抜けていくみたい』
これを俺も体験した。そして、今も変わらずにそれを感じることがある。だから俺はその意味を完全に理解している。
それが見えるということは、最高に幸せで最高に気持ちいい状態にあるということだ。外部からの刺激、受け取る体の状態、それを増幅する関係性……その全てが揃うことで、あの泡の中は極上の快楽を感じる場所となる。
歌っている時の孝哉の顔が扇情的に見えると言われる理由は、きっとそれなのだろう。本当に欲に濡れた時と同じ表情をするのだから、そう言われても仕方がない。
ただし、恐らくこれは孝哉と俺だけに限ったことでは無いはずだ。少なくとも、俺を異常に愛していた条野にもそれがあっただろう。あいつは俺のパフォーマンスにそれを感じていた。でも、その経験よりも先に、セックスでそれを経験していた。だから、俺に対しても性欲が湧いたと考えると腑に落ちる。
そして、クリエイティヴな仕事をする人たちの中で、同じようなものを感じる人は少なからずいるだろう。このスパークルを追いかける道を、正道で行けるかどうかが大切な分かれ道となる。
そういう意味で、俺と孝哉は恵まれていた。それを追いかける道が、性欲であっても音楽であっても、パートナーとして隣にいるのはいつもお互いになる。どの道を取ってスパークルを追いかけても、全ての道が正道になる。こんなに幸せなことはない。
「あれって、歌ってる時もいつも見えるわけじゃ無いんだよね。体が上手く鳴って、すごくいい響きを得られた時に、背中の肩甲骨の下あたりから、ブワーって前に向かって湧き上がるように出てくるんだ。それがね、さっきも見えたんだよ」
「さっきって、ヤってる時に?」
「ヤっ……そうだけど! なんか言い方がヤダ」
揶揄うように返した俺に、孝哉はむくれて見せた。でも、そう言いつつも、顔は全く嫌そうにしていない。
「んな可愛い顔して怒っても、ただ可愛いだけだぞ」
俺はそう言いながら、タバコを灰皿に押し付けて火を消した。白い煙がふわりと舞い上がる。酸素のなくなった火種は、熱を残しながらも燃え上がることはない。それは、恋心だけを残して恋人のそばを離れた時の苦しみに似ていた。
——この顔も、姿も、声も、魂も。二度と手放したりしない。
目の前の白い煙を見ながら、無くしていた時の思いに少しだけ胸の奥が痛んだ。それを、孝哉の嬉しそうな声が雲散させてくれる。
「さっきさ、抱かれてる時にね……。なんか今までに無いくらい強い気持ちよさが迫ってきて……ぎゅーって力が入った時に、吹き出すみたいに、すっごいたくさん出てきたよ。それがさ……」
俺は、無邪気にそう話す孝哉の隣に座った。身を屈めて、まだタバコの香が残る顔を寄せ、動き続ける唇に自分のそれを押し当てる。
「……もう一回見るか?」
そう言いながらかけてあった布団を捲り、隣へと潜り込んだ。
「え?」
戸惑う孝哉をよそに、その甘くて愛しい香りのする体を抱きしめる。消え入るような声で「うん」と答える恋人の唇を、柔らかく噛んだ。そのままそっと抱え込み、見つめ合いながら抱きしめる。
「ずっと一緒だからな、今度こそ」
「……うん、絶対だよ」
そう誓い合うと、静かに黄金色の嵐が舞いおきた。手を握り、口付けあう。暗くなった中で、俺たち二人だけは金色に光り輝く世界にいた。
(了)
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