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第18話 岐多温泉 天狗の湯

 室内を歩いているのだが、迷路のように行ったり来たりしている気がする。家屋が古いせいか、階段も大きくて急なので、ちょっとした怖さがあった。  しばらく歩いて、赤い廊下を過ぎると、ようやく温泉の入り口らしい場所に辿り着いた。 「那智が一緒に来てくれて良かった。俺たちだけじゃ、温泉に辿り着けなかったかも」  那智が不思議そうな顔で振り返った。 「室内ですし、覚えれば迷いませぬよ。今日は悪天候故、露天に入れぬのが残念ですが、明日以降、晴れたら楽しみましょうぞ」  脱衣所で服を脱ぎ、浴室の扉を開けて、驚いた。 「うわー! 大きな天狗の面がある!」  壁二面に巨大な天狗の面が掛けられていた。 「ネット検索すると、まずこの画面が出てきますね。映画のロケ地や漫画のネタにもなっている温泉なので、有名ですよ」 「そうだったんだ、知らなかった」  護の丁寧な説明に只々感心する。  体を流してゆっくりと湯に浸かる。  熱めの湯が体に沁みて、気持ちがいい。 「ふわぁ、溶けそう。円くんと保輔も起きたら連れてこようね」 「湯量が多いですね。ザブザブ流れてきます」  智颯が流れてくるお湯を手で受ける。見るからに勢いが強い。 「平安には湧いていた湯ですが、その頃から湯量は変わらぬそうで。今は那須岳と呼ばれておりまするが、その昔は月山と呼ばれ、この辺りの山は修験者が多くありましたから、温泉も重宝されたのでしょうな」  那智が至福の表情で湯に浸っている。 「那智も、やっぱり温泉好き?」  天狗と修験者は切っても切れない関係だ。  那智がニコリと笑んだ。 「好きですなぁ。故郷にも湯が沸いておりまするが、行く先々で浸るのが好きでございますよ」 「良かった。那智もやっとリラックスできたね。運転とか、俺たちの面倒見たりとかで、大変だったよね」 「忍様からの命での同行でござりますれば、何なりとお申し付けくださいませ」  ぺこりと軽く会釈した那智の顔は、ちょっとだけ照れていた。 「んん? もしやそこな天狗は、前鬼坊か?」  どこからともなく声がした。  気が付けば、天狗の面が三つに増えている。三つめは小さく、湯の上に浮いていた。 「その声は、喜多野坊か?」  那智の声を聴いて、天狗の面が動いた。那智に近付くにつれ、面が大きくなり筋骨隆々な体躯が顕わになった。 「久しいな! 此度は何用だ? 来るなら報せよ。水臭いぞ!」  喜多野坊と呼ばれた天狗が那智の背中をバシバシ叩く。  那智が大変迷惑そうな顔で恨めしい目を向けている。 「着いたのは今日だが、悪天候でな。明日にでも顔を出すつもりでおったが」  那智が直桜に顔を向けた。 「直桜様、この暑苦しい筋肉馬鹿が喜多野坊、鬼面山の天狗の頭にござりまする」  容赦ない言いっ振りの紹介からして、仲が良いのだろうなと思った。  御山に会いに行く前からこんなところで会えてしまうとは、驚きだ。 「此度は惟神とその神に眷族をお連れした。一先ず、座れ」  那智に促され、喜多野坊が隣に座った。  温泉の湯が大きく揺れて溢れ、流れ出た。 「惟神とは懐かしい。以前に会ぅたのはいつだったか。此度はどの神が会いに来てくれたのか」  目の前の直桜たちを値踏みするように眺める。  その目が、護で止まった。 「これは鬼神か。今の惟神は鬼を眷族としておるのか。何とも懐かしく、良い匂いがするのぅ。其方、直日神の惟神じゃな?」  喜多野坊の顔が直桜に向く。  天狗の面の長い鼻が勢いよく直桜の左頬にぶち当たった。 「瀬田直桜、です。直日神の惟神、です」 「直桜! 大丈夫ですか」  あまりの痛さに涙目になった。挨拶もカクカクした。  喜多野坊の後ろから、那智が天狗の面を外した。  露になった顔は、白髪の元気そうなお爺さんだった。 「これは済まぬ。驚かせぬよう面を付けているのだが、仇になったな」  豪快に笑う喜多野坊を智颯が怯えた顔で見詰めている。  何というか、空気を読まない豪快な爺さんだなと思った。 「私が鬼神の化野護です。直日神の惟神の眷族です」  護が控えめに自己紹介しながら、直桜の頬を撫でている。 「ほぅほぅ、化野の鬼か。鬼にしては優しく可愛らしいのぅ」  喜多野坊の目が智颯に向く。智颯がビクリと肩を震わせた。 「気吹戸主神の惟神の、峪口智颯で、すっ!」  言い終えぬうちに、喜多野坊が智颯の肩を掴んでガクガク揺らした。 「気吹戸主神とな! ようやっと来たか! 待っておったぞ! 其方には眷族はおるのか? 花笑の弓取りか?」  目を白黒していた智颯が、喜多野坊の腕を掴んだ。 「花笑? 気吹戸主神の惟神が花笑の草を眷族にしていた時が、あったんですか?」  智颯の問いかけに、喜多野坊が、がっくりと肩を落とした。 「やはり違うのか。仕方がないのぅ。もう何年も昔の話じゃて」  さっきまでの勢いはどこに行ったのか。  喜多野坊はしょんもりと小さくなって湯船の端っこで項垂れた。  その頭を那智がポカリと殴った。 「わかるように説明せぃ。我々は、この地で起こっている騒動を抑えにきたのだ」  那智に睨まれ、喜多野坊が、くりっと顔を上げた。 「そうであったか、それは助かる。だがなぁ」  喜多野坊が、じっとりとした目を智颯に向けている。  何かが気に入らないらしい。 「気吹戸主神の惟神が花笑を眷族にした話は、とんと聞かぬ。お前は何を知っている?」  那智の問いに、喜多野坊は面倒そうに答えた。 「そうじゃ。気吹戸主神は妖怪贔屓。故に妖怪や、妖怪を式に使う術師を眷族とせぬ。儂は常に勧めておるのに、のらりくらり躱しおるのじゃ。可愛くないのぅ」  もはや只の拗ねた爺さんにしか見えない喜多野坊に、智颯が恐る恐る寄った。 「あの、喜多野坊さんは、気吹戸と仲が良いのですか? 僕はそんな話、全然聞いていないのですが」  喜多野坊が智颯をちらりと窺った。 「仲が良かったのは、かなーり昔じゃて。酒の席で喧嘩してから何年も会ぅておらぬわ」 「私も知らぬ話故、かなーり大昔であると存じまする」  那智が付け加えた。何となく、わかる気がした。  あの気吹戸主神とこの喜多野坊の喧嘩はきっと子供みたいだろうなと思った。 「喜多野坊さんが知っている花笑の弓取りって、どんな人なの?」  直桜の声を聞いて、背を向けていた喜多野坊がこちらを向いた。 「花笑調という男じゃぁ。妖怪を家族のように可愛がる男でなぁ。その子孫も弓取りであったが、武蔵に移り住んで草になった。それ以降、折伏の種は芽吹きずらくなってのぅ。だから気吹戸主神に眷族を勧めたのに、あれは直日神に気を遣い過ぎじゃてなぁ」  喜多野坊が直桜をじっとりとした目で眺める。  そんな目をされても困るなと思う。 「何となく、状況が見えてきましたね」  護の言う通りだなと思った。  同時に、マヤの忠告は正解だとも思った。 「南月山に住んでる人狼について、知ってる? 花笑と関係があるのかな?」  直桜の問いに、喜多野坊がぽかんとした表情をした。 「関係も何も、花笑が置いて行った人狼じゃ、元式神よ。何年か前に、折伏の種を封じる契りをして、あの場所に里を作ったんじゃ」  喜多野坊が小さく俯いて、表情を落とした。  会ってから一番、真面目な顔だなと思った。 「花笑の折伏師が自身の術である種まで封じてあの場所を守ったのに、あの場所を壊す輩が入り込んでおる。天狗も加勢に行っとるが一進一退でなぁ」  那智の目が直桜に向いた。 「この地で起きている騒動は、人狼の里で間違いなさそうですな」 「そうだね。円くんが会いたいって口走った理由も、わかっちゃったね」  先代の花笑の折伏師は、何らかの理由で自身の式神である人狼を南月山に捨て、守るために里を作った。その時に種を封じる契りをしたのだろう。 「問題は、種を封じる契りを誰と交わしたかという話ですが」 「それ、儂じゃよ」  護の疑問に喜多野坊があっさり答えた。 「え? うそ、何で?」  智颯が驚きのあまり、単語で話している。  直桜と護も、思わず絶句した。 「人狼の里を、我等天狗が守る代償として、力を封じた。花笑の折伏師が望んだのじゃ。もう、家族を呪術の道具として使いたくはないとな」  智颯が絶句している気配がした。 「しかしな、折伏は道具ではないと、儂は思うのだ。あの人狼たちは、花笑と共に在りたかった。何故、その気持ちをわかってやらぬ。いくら安全な里を作ったとて、愛する者のない暮らしは辛かろうて」  喜多野坊が至極真面目な話をしている。  終止、ふざけているのか真面目なのかわかりずらいから、驚いてしまう。  喜多野坊が智颯の肩をがっしりと掴んだ。 「主従とは、折伏とは、道具ではないのじゃ。同じ釜の飯を喰えば仲間! 友じゃ。何故、花笑も気吹戸主神も、それがわからぬのか!」 「ひっ……」  智颯が悲鳴を飲み込んだ。ぐったりして脱力している。  気が付けば、顔が真っ赤になっている。どうやら湯あたりしたらしい。 「智颯! 大丈夫? すぐにお湯から上げないと」  護と那智が智颯を掴まえて、湯から引き上げた。  洗い場にバスタオルを敷いて、一先ずそこに寝かせる。 「智颯君、わかりますか? お水です」  護が口元から、持参したペットボトルの水を流し込む。 「すみません……」  力ない様子で智颯が返事をした。 「仕方ないよ。ここのお湯、熱めだし、普段はこんなに長く入らないもんね」  直桜も普段はシャワーで済ませてしまうから、湯船に浸かるのは久しぶりだ。 「風呂で話し始めたのが失敗でござりました。申し訳もございませぬ」 「那智のせいじゃないよ」  頭を下げる那智の隣で、喜多野坊がしれっとした顔をしている。 「儂のせいでもないぞ」  話を振ったのは直桜の方だし、確かに喜多野坊のせいではないのだが、どこか釈然としない。 「喜多野坊さんは、眷族も、主従ではないと、思いますか?」  智颯が腕で顔を隠しながら、弱々しく聞いた。  喜多野坊が、やけに神妙にその姿を眺めている。 「眷族とは、基本は主従だろうなぁ。しかし、主従とは信頼であろう。同じ釜の飯を食い、共に暮らし、互いをしっかと解せねば主従になれぬ。時に従者は主を叱る。尊敬するから従う。折伏も然り。それは仲間と、同じではないかの」  喜多野坊の言葉を聞いていた智颯の口元が、笑んだ。 「僕は、喜多野坊さんが嫌いじゃないと思う。だから、気吹戸と仲直りしてくれませんか。これから僕と、気吹戸と仲間になって、ください」  腕を外して智颯が喜多野坊に向き合った。 「僕は貴方の考え方が好きだ」  そういって微笑んだ智颯の顔は、湯あたりして真っ赤なのにすっきりして見えた。  喜多野坊が智颯に近付き、わしゃわしゃと頭を撫でた。 「なんじゃ、この可愛い生き物は! 前の気吹戸主神の惟神とは、だいぶ違うぞ!」  興奮した様子で喜多野坊が智颯の顔だの頭だのを撫で回している。 「ついに天狗まで誑し込んじゃったかぁ」  円や保輔だけでなく、ターゲットが妖怪にまで及んだなと思った。 「直桜は智颯君と、同じですからね」  護の小さな呟きを聞いて、隣の那智が吹き出していた。

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