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第29話 朱華の鬼力

 結界が自然と溶けた。  保輔が清人に頼んで本に閉じ込め、持って来た結界だ。術者本人がいない分、使用時間は短いのだろう。 「直桜! 那智さん!」  ぐったりしている那智に駆け寄る。 「油断いたしました。申し訳もござりませぬ」  直桜の浄化を受けて、体内に沁み込んだ妖気は消えたはずだが、かなり辛そうだ。 「無理しないで、今のうちに撤退しよう」  直桜が保輔を振り返った。 「おい、連! しっかりせい!」 「ふふ、保輔ってぇ、鬼なんでしょ。俺を食べてよ。お前は今までだって、他の奴の居場所を食って奪って生きてきたんだ。血肉を食うのと一緒だよ。ほら、早く。保輔なら出来るよ」  連を抱き上げていた保輔が、俯いた。 「そんな風に思っとったから、連は逃げたのやな。行基んとこでも俺んとこでもない場所に、行ってもうたのやな」  普段の保輔からは想像もできない程、暗く落ち込んだ声だ。  直桜が連の頭に手を翳して浄化を始めた。 「浄化しながら移動する。嫌がってもこの子は連行する。いいよね?」  直桜の問いかけに、保輔が目を拭いながら頷いた。 「行きましょう、保輔君。私が連君と那智さんを抱えますから……」  護と直桜の間を突風がすり抜けた。  一瞬、何が起きたのか、わからなかった。 「素晴らしい一撃だった。連打出来たらもっと良かったなぁ。楽しいぞ、化野の鬼」  弾き飛ばしたはずの阿久良王が、連を抱えて立っていた。 「かなり遠くまで吹っ飛んだはずなのに」  直桜が驚いた顔で零した。  阿久良王の体は木々を薙ぎ倒しても衰えないスピードで吹っ飛んで行った。妖気を追えばどこまで飛んだかわかる。有に数キロは遠くに飛ばしたはずだ。  その距離をこの一瞬で戻ってきたことになる。 「奴は霧を使って移動ができまする。霧に紛れて消え、現れる」  移動系の空間術のような妖術だ。  肉を抉ったはずの腹もすっかり治ってしまっている。 「お前は鬼の本能を解放すべきだ。惟神の眷族などというお遊びでは、その程度の強さしか身につかぬ。俺が本当の強さを教えてやる」  抱えた連の首を掴んで持ち挙げる。  肩口の服を破って、素肌を舐め挙げた。 「目の前で人を喰う鬼の姿を見れば、本能が目覚めるだろう。欲しくなったら血肉を分けてやる」    阿久良王が大きく口を開いた。  連が恍惚の表情で顔を上げた。 「やっと食べてもらえるぅ。良かったぁ」 「そうだろう。術に狂って、喰われる悦びに酔ったまま死ねるのは幸せだなぁ」  言葉にならない表情で前に出ようとする保輔を押し退けて、護は走った。 「やめろ!」  護を追い越して、直桜の蛇腹剣が飛んだ。阿久良の顔に向かって飛んだ剣を避けて、大きく開いた口が連の肩口にかぶり付いた。 「!」 「風の輪!」  半円を描いた風の刃が阿久良王の肩から背を大きく切り裂いた。   「直桜様! 護さん!」  喜多野坊に背負われた智颯が鉄扇を向けている。攻撃したのは智颯だとわかった。  連の肩に歯を突き立てた阿久良王が、そのまま動かなくなった。 「ふっ、くくく……」  不気味な笑い声が響く。  連の肩の肉をごっそりと食い破って、阿久良王が顔を上げた。  恍惚の笑みを湛えたまま、連の目から生気が消えた。 「連……、連!」  保輔の悲痛の叫びを掻き消して、阿久良王が肉を咀嚼する音が響く。 「やはり不味いな。食うなら性格の良い優しい人間に限る。捻くれた頭の悪い男が一番、不味い。肉が柔らかい女ならまだマシだったが」  阿久良王が骨を吐き出す。  削がれた鎖骨が顕わになって、連の抉れた肩から大量に血が噴き出した。  その血を阿久良が啜り舐める。 「血は悪くないな。場合によっては肉より血の方が人間は美味い」  何の感慨もなく語りながら連を食らう阿久良王の姿に、全員が言葉を失くした。 「さっきの攻撃は悪くなかった。当たりどころが悪ければ、回復にもう少し時間が掛かったと思うぞ」  阿久良王が智颯に向かい、言い放った。  智颯の風の輪でバックリと割れていたはずの背中は既に皮膚が繋がっていた。 「あー! ちょっと何で食べてるのさぁ! 食べちゃダメって言ったのにぃ!」  突然声が聞こえて、猫のような妖怪が阿久良王に寄った。 「天磐舟の人間は食べちゃダメって言ったでしょ。蓮華様に叱られるの、私なんだよ。やめてよ、そういうの。温羅様に言付けるからね」 「人を喰わない猫鬼には理解できんだろう。俺はあの鬼に、人を喰らう姿を見せたかっただけだ」  阿久良王の目が護に向いた。 「どうだ、欲しくなったか? 一先ず、血を啜ってみろ。本能が目覚めれば、美味さがわかる。肉の方はもっと美味いのを用意してやる。これは不味い」  阿久良王が連の首を持ってずぃと体を差し出した。  怒りが芯から込み上げて、拳が震えた。 「それ以上、その人に無体を働くな。俺は人だ、鬼だけど、人なんだ。人間を喰わない。喰いたいとも思わない」  阿久良王が小さく息を吐いた。 「見せ付けるだけでは、やはり弱いか。目覚めかけているから、いけるかと思ったが。やはりこじ開けるしかないな」  護は両手に鬼力を集中した。  さっきとは比べ物にならないくらいに大きな朱華の炎が拳を包んだ。  拳から膨らんだ炎が大きさを増して上腕までをも覆いつくす。  迸った炎の欠片が頭の上に流れる。両の手に展開した朱華の鬼力は、まるで全身から溢れるように燃え盛った。  猫鬼と阿久良王が、顔色を変えた。 「この場で祓う。お前たち全員、生かしては帰さない」  地を這うような低い声が、喉から搾り出た。  右手に手甲鉤を霊現化する。長く伸ばした刃まで炎で満たして、走り出した。 「ヤバイ、あれはヤバいって。逃げるよ、阿久良!」 「面白いが、これ以上は分が悪い。逃げるに賛成だ」 「逃がさない!」  左手の炎を阿久良王に向かって投げつける。  避けた先まで炎が軌道を変えて追いかけた。  ぶつかった炎が阿久良王の右半分の顔を焼いた。  阿久良王の妖術でも消せない炎が、顔の半分を黒く焦がして目玉を焼く。 「はっ、ははっ! この炎は、素晴らしいな! 化野の鬼、次はきっと鬼の本能を目覚めさせ、鬼ノ城に迎えるぞ!」  霧に体を溶かして、阿久良王と猫鬼の姿が消えていく。  消えかかる阿久良王に向かって飛び込み、手甲鉤を振りかざした。  刃の先が、猫鬼の尻尾を斬った。 「ぎゃっ!」という悲鳴と共に、二人の姿が消えた。  その場には、猫鬼の尻尾だけが残った。 「は、はぁ、はぁ……くそっ」  息を切らして、護は只々、立ち尽くした。  その胸には、確かな殺意が燻ぶっていた。

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