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第70話 伊吹弥三郎の記憶

 山の麓に集まる人間たちを頂きから眺めていた目を閉じて、弥三郎は息を吐いた。 「わんさと人間どもが集まってきたなぁ。こらぁ、本気で俺らを狩る気満々だねぇ」  呆れた声は気概に満ちた。  山にいた仲間たちは、何としても守らねばならない。 「西も北も東も、ここ数十年で多くの妖怪が住処を奪われ追いやられた。伊吹山を奪われれば行く場所はない。だからこそ、人には手を出さずに大人しく暮らしていたのにな」  土蜘蛛のイトが怒りを隠さない声を吐く。 「我等のせいやもしれぬな。角ある蛇は武蔵では神であった。我等があの地を去り人以外の生き物が嘆いたと聞く。奴らが人を襲えば、人間の怒りの矛先は我等に向かおう」  角ある蛇の長である|澱《おり》が、悲しそうに目を伏した。 「そもそも角ある蛇を追いやったのは人だろう。あまりに身勝手だ。これだから、人は好かぬ。皆殺しで構うまい」  イトが憤慨して吐き散らした。  宥めるように、弥三郎は笑った。 「まぁま、角ある蛇のせいって訳じゃぁねぇよ。最近じゃ、天磐舟とか名乗る術者が、世直しとか謳って妖怪やら神様やら狩りまくってるらしいじゃねぇの。饒速日が俺んとこに謝罪にくるくれぇだ。とち狂った野郎共がいるんだろうぜ」  天磐舟を名乗る術者は『饒速日命の意志を継ぐ者』と称して妖怪に不当な暴力を繰り返している。被害を被り行き場を失くした妖怪は、伊吹山に身を寄せていた。  饒速日命の謝罪はそのためだ。だが、饒速日命も名前を使われただけで全くの無関係だ。妖怪と同じで被害を受けた側と言える。 「それも結局、悪いのは饒速日命様ではなく身勝手な人間だろう。とことん解せぬ生き物だな」  苛立ちを飲み込んで、イトが大きく息を吐いた。 「他の者に協力は得られなんだか?」  澱の問いに、弥三郎は首を振った。 「知己の神は現世に不在でな。直日神も気吹戸主神も、惟神がいねぇと顕現できぬ神だ。今は現世に降りる神も少ない。なかなか難しくてなぁ」  申し訳なく、笑いを零す。 「同じ鬼では、ダメか?」  イトの問いかけにも、弥三郎は首を振った。 「伊吹山の鬼は人嫌いだが人を喰わぬ。変わり者扱いで誰も寄り付かぬ。唯一の友が産土の鬼に一人、あるがなぁ。惟神の里の許可なしに動けぬだろう。迷惑は掛けられぬよ」  イトと澱は同時に息を吐き、大きく飲み込んだ。 「我等は妖怪、徒党を組まず個々に生きるが摂理の生き物だ」 「元より勝つための戦ではない。守るための戦よ」  弥三郎も同じように大きく息を吸って、吐き出した。 「伊吹山に在った仲間は饒速日が避難してくれている。あとは我等伊吹山の鬼と角ある蛇、土蜘蛛で時を稼ごうぞ。逃げおおせる間まで命があれば、あとはくれてやるさ。冥府まで付き合わせて済まぬなぁ」  弥三郎はイトと澱を交互に見た。 「娘を逃してくれた、それだけで十分だ。あの子は変わった身故、人に捕縛されれば、どれほど酷い目に遭うか知れぬ。それだけでも、礼を言うよ」  澱が小さく頭を下げた。  澱の娘はその身に反魂香を取り込んでいる。饒速日命には預かってくれる神許を探してくれるように頼んであった。 「行き場のない我らに、ひと時でも安寧の居場所をくれた。伊吹山の鬼に報いねば天罰が下るというもの。恥晒しには。なりたくないからな」  イトが強気に笑って見せる。  二人の顔を見て取って、弥三郎は深く頷いた。 「いざ、逝こうか、|同朋《はらから》よ。妖怪の恐ろしさを今一度、現世の輩共に見せ付けてやろうぞ」  高らかに宣言して、弥三郎は山を駆け下りた。  それから数刻で、伊吹山を襲った陰陽師連合の大群は半分以下まで数を減らした。  伊吹山の鬼、角ある蛇、土蜘蛛、たったの三匹の妖怪に、陰陽連の術者五十人近くが殺された。  だが、時間が掛かればかかるほど、少数側が不利になる。  一対大勢の戦いに土蜘蛛が息絶え、角ある蛇が死んで、最後に残った弥三郎もまた、虫の息だった。  目の前に若い人間の女が立っている。  弥三郎を最後に追いつめた術者だ。 「殺さず生け捕りと命を受けている。蜘蛛と蛇は自ら命を絶った。お前にまで死なれるのは困る」  息も切らさず淡々と話す女の目は、弥三郎には既に死んで見えた。 「お前ぇ、妖怪なんか狩って楽しいかね?」  弥三郎の問いかけに、女が構えていた短刀を降ろした。 「妖怪を殺す時に、楽しいとか楽しくないとか、考えない。仕事だから、やる」  その答えを、弥三郎は鼻で笑った。 「そうかい。辛いんなら仕事なんか、やめちまえよ。人間は、そうもいかんのかね」  女が初めて表情を動かした。  とても不可解な顔をしている。 「辛いとか、考えもしなかった。けど、そうか。辛いって、どんな感情だったっけ」 「今のお前が感じている感覚じゃねぇのか?」  自分が泣いていると気が付いていない風の女を見上げる。  鬼より鬼のように強いのに、その剣は淡々として、浅い。  躊躇のない真っ直ぐな剣が、殺したくないと泣いているように感じた。 「俺を生け捕りにしてぇのは、どういった算段だ。場合によっては協力してやらなくもねぇよ」  敢えて提案を持ちかけてみた。  女が涙を拭って向き合った。その表情は、やはり死んで見えた。 「詳細は知らない。妖怪は基本、実験体か呪具だ。お前の力は人に取り込んで使うらしい。強い術者を作るのだそうだ。本当は神様が欲しかったが、逃げられたから、お前でいいそうだ」  呆れて話す気にもならなくなった。  人間の発想は、弥三郎にはくだらなすぎて欠伸も出ない。 「それで生け捕りねぇ。蜘蛛と蛇にも同じ話をしたかい?」  女が素直に頷いた。  弥三郎は口端を持ち上げて笑った。 「お前が死んだ目をしてて良かったぜ。生に執着の強い人間じゃ、こうはいかなかったなぁ」  女が怪訝な顔をして短刀を構えた。 「お前らが何故、伊吹山を狙ったのかも、わかったぜ。神力を持つ鬼は少ねぇからな。その中で人に保護されていねぇ鬼は俺らくらいなもんだ。神の力がほしいか?」  睨み据えても、女の態度は変わらない。  霊気が揺れさえもしない。 「そう指示された。だから取りに来た」  弥三郎は徐に腕を上げた。  ほぼ同時に動いた女が、弥三郎の上がった腕を斬り落とした。  突然に、視界が傾く。  腕を斬った後に、右目を抉り取られた。 「勝手に死なれても困るから回収しておく。できればそのまま持って帰りたいから、運び手が来るまで大人しく待っていろ」  息すら切らさない女の手には自分の右腕と右目がある。  弥三郎は細く長く、息を吸った。  女がその場に片膝を付いた。 「ようやっと効いてくれたかぁ。俺はなぁ、人は喰わねぇが人の霊力を喰らう。霊元まで食うと術者は死んじまうから、喰わねぇが。動けねぇ程度には喰わせてもらうよ」  女が、その場にぱたりと倒れ込んだ。 「そうか、なら仕方がない。霊元まで食ってもいいぞ。気力があるなら」  覇気のない声で女が言った。 「食われてぇのか?」 「いいや。だが、気付かなかった私が悪い。これは仕方がない」  女の返答は自分に言い聞かせているようだった。 「お前ぇ、全部忘れて生き直したらどうだ? この手の仕事は向いていねぇぞ」  虫の息の自分が人間に忠言するのもおかしな状況だが、言わずにはいられなかった。 「忘れるって、どうやるんだ? お前は記憶も食えるのか? だったら、喰っていいぞ。私は今、動けない」 「記憶は喰わねぇよ。けど、どっかには記憶を食ってくれる妖怪もいるかもしれねぇから、探してみろよ」  少しだけ上体を起こして、女の顔を覗き込んだ。  変わらずに死んだ目をした女は、どこか安心した顔をして見えた。 「もっと喰って、気力が戻ったら、歩け。どこかに歩いていく鬼がいても、私は動けないから、追えない」  そう言って、女が目を閉じた。  結構な量の霊力を吸い上げたから気を失ったのだろう。途中から女が自分で霊元を開いたせいで、思った以上に多く吸い上げてしまった。  弥三郎は女に向かって細く息を吐き出した。  喰らった霊力を戻して、息を止めた。 「例えば霊元まで食っても、今更逃げるほどの力は戻らねぇよ」  今頃、饒速日命が仲間たちを連れて遠くに逃げているだろう。  陰陽連の連中がすぐには追いつけない場所まで、行けているはずだ。  時間稼ぎには、もう充分だ。 「イトも澱も死んだんだ。俺だけ生きている訳にゃ、いかんだろ」  このまま生きて捕えられたら何に利用されるか知れたものではない。 「妖怪や神様の力なんか人の身に宿して、どうする気なのかねぇ。過ぎた力は身を亡ぼすだけなのになぁ」  つくづく、人間の考えは理解できないと思った。  女の短刀を、その手から奪い取る。  霊力を戻したのに、目を覚まさない。  生きるというそのものに執着がなさそうだから目を覚ますかわからないが、死にはしないだろう。  弥三郎は空を見上げた。 「この場所で死ねる自分に、感謝するよ。今生でもう一回くれぇ会いたかったなぁ」  随分と長く会っていない知己の顔を思い出しながら、弥三郎は自分の左胸に短刀を突き立てた。  目の前に暗い闇が広がる。  そこで弥三郎の記憶は潰えた。

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