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第71話 角ある蛇・稜巳の記憶
饒速日命が操る天磐舟は大勢の妖怪の仲間たちを乗せて、色々な場所を巡った。仲間たちが安心して暮らせる場所を探して転々とし、何人もの仲間を見送るうちに、数年が経っていた。
「あとはお前だけだよ、稜巳。頼んである場所があるから、送ろう」
そう話す饒速日命の腕に、稜巳は縋った。
「私は饒速日命様の元に残ります。使いとしてお役に立ちます」
饒速日命は悲しい顔で顔を横に振った。
「私のために多くの妖怪が悲しみ、尊い命を盾にした。私は神として責を全うしなければならない。稜巳は他の神に仕えなさい」
饒速日命が伊吹山の鬼や土蜘蛛や父のために、何かをしようとしているのだと思った。
「だったら猶更、私も共に」
「ダメだよ、稜巳」
饒速日命が稜巳の手を握った。
「あの人間たちの一番の狙いは私だった。お前も神格化した蛇だ。捕えられれば同じような扱いを受けるだろう。連れてはいけない」
神様を捕えようなどと、人間は何て恐ろしい発想をするのだろうと思った。
その後、稜巳は武御雷神の所へ預けられた。
武御雷神には饒速日命の名前を出さないように、きつく言い添えられた。
「武御雷神の所へは一人で行きなさい。使いの者に話は通してあるから、心配ない。私の名前を出してはいけないよ。きっと気を遣わせてしまうからね」
遠ざかっていく饒速日命の背中がどんどん小さくなって消えてくのが悲しかった。
武御雷神の所に落ち着いても、稜巳は伊吹山の仲間たちが気になっていた。
特に弥三郎と土蜘蛛のイト、父である角ある蛇の長・澱がどうしているのか、知りたかった。
「どうしても会いたいお方があるのです。どうか、旅立たせてください。危険な振舞は致しません」
伊吹山の一件は、話せない。 饒速日命と約束した。
だから詳細を武御雷神に伝えられない。自分から押しかけて、あまりに我儘な言い分だと思う。
それでも、武御雷神は笑って許してくれた。
「そこまで会いたければ、会いに行け。ただし、また行く所がなければ戻れよ。ここでまた使いをすればいい」
そう話して送り出してくれる武御雷神は優しい神様だと思った。
武力の神様だからもっと猛々しい神様を想像していた。とても強いが、同じくらいに優しい。
稜巳は一人、神許を降りて現世に向かった。
辿り着いた伊吹山はあまりにも静かだった。
人に紛れて聞いた噂では、伊吹山の討伐から既に十八年が経過しているらしい。神世と現世では体感する時間の流れが違うのだと知った。
さらに悪い話は続いた。伊吹弥三郎も土蜘蛛も角ある蛇も、討伐の折に命を落としたのだと。
それらの話を稜巳に教えてくれたのは、どこかの研究所の研究員だった。
「弥三郎になら、会わせてあげられるよ。死んでいても蘇らせる方法がある。君が協力してくれるなら、だけどね」
優しい笑みで男が語る。
男は稜巳に、久坂部真人と名乗った。
「弥三郎を助けてあげたいだろ。君ならそれができる。悪いようにはしないから、一緒においで」
消沈した稜巳には、真人がとても良い人に感じられた。
連れていかれた場所は、奈良県橿原にある理化学研究所だった。
研究棟の一角に、強い結界を敷いた部屋があった。
部屋の中には、何かの香が焚いてあった。酷く甘い匂いがして頭がくらくらした。
「稜巳、大丈夫?」
部屋の中の椅子に促されて腰掛ける。
「ちょっと、ぼんやりします」
「へぇ、そうなんだ」
真人が、ニタリと口端を上げて笑んだ。
その手が稜巳の股間に伸びる。
秘部を指でそっと撫でられて、体がビクリと震えた。
「ぁっ、やぁ……」
稜巳の反応を、真人が面白そうに眺める。
「淫鬼の吐く息って、妖怪にも効果あるんだ。人も妖怪も食うのかな」
真人が何かを呟いた。
言葉は頭に入ってくるのに、巧く理解できない。
顔を上向かされて無理やりに口付けられる。口内に舌が入り込んできて、やけに気持ちがいい。嫌なのに、抵抗できない。
「ぁ、ん、ぁぅ……ん」
「協力してくれたら、もっと気持ちよくなれるよ。できるね?」
真人の言葉に、稜巳は頷いた。
「自分の中の反魂香を解放して。それで弥三郎を助けてあげられる。稜巳も気持ちよくなれる。やってごらん」
促されるまま、稜巳は自分の中にある反魂香に妖気を巡らせた。
(父様にも饒速日命様にも、使ってはいけないと注意された。でも、これで弥三郎様を助けられるなら)
顔が上向いて、薄く開いた口から煙が漏れる。
反魂香の煙が、稜巳の真後ろに向かって流れた。
「素晴らしいね。神蝋を灯してくれ」
真人の言葉に合わせて、部屋の中に無数の蝋燭が灯った。
それが神を誘う灯であると、すぐにわかった。
(ダメ。これはきっと神降ろしの儀式だ。反魂香の煙が神を降ろしてしまう)
神降ろしは桜谷という集落以外の場所で行ってはいけないという、人間のルールがある。父親に厳しく何度も教え込まれた話だ。
妖怪の中でも、反魂香は植物のような妖怪だ。自我を持たないが故に悪用される場合が多い。反魂香が集まりやすい群生地などは、土地の者が管理している。
武蔵において角ある蛇は反魂香の管理者だった。
稜巳が体内に反魂香を宿すのは、幼い頃に小さな反魂香の芽を誤って飲み込んでしまった為だ。
反魂香は稜巳の中に根を伸ばし、共生している。
一際大きな轟音が鳴って、反魂香の煙が雲のように渦巻いた。
「神が、降りるぞ」
真人の興奮した声が聞こえた。
雲の合間より降りてきたのは、饒速日命だった。疲弊した様子で、神力が萎えている。稜巳を送り出してくれた時とはまるで別の神のように疲れ果てていた。
「逃げた神様が舞い戻ってきたか。少しも回復していれば良かったが、これでは使い物にならないな」
苛立った様子で真人が吐き捨てた。
「狙った神を降ろすのは、とても難しいの。枉津の家がどれだけ枉津日神の神降ろしに失敗していると思うの? 妖怪でもなく空振りでもなく神を引いたのだから、まだマシよ」
不機嫌そうに言い放った女は、きっと最初から部屋の奥にいたんだろう。
甘い香に呑まれて気が付かなかった。
「あやめ様ほどの巫子様でも難儀なのですね。失礼いたしました。御助力感謝いたします」
真人が大仰に頭を下げる。
「神力を戻すより、今までの天磐舟のやり方通り、瘴気でも何でも使って神力を穢して嵩増しすればいいわ。神そのものを穢して堕とせば穢れた神力なんて、作るのは簡単よ」
降りてきた饒速日命に向かい、あやめが両手を十字に斬って何かを投げつけた。
饒速日命が鎖で雁字搦めになった。
「封じの鎖で動きは封じた。この状態でも神力の抽出は可能よ。あとは好きに遊びなさい」
あやめと呼ばれた女が部屋の出口に向かう。
「遊びとは失礼ね。私たちにとっては本気の仕事よ」
部屋の扉の前で壁に凭れる女性がいる。きっとこの女も最初からいたのだろう。
「陰陽連と忠行さんへの義理は果たしたわ。晴子姉さんも満足でしょ。これ以上、反魂儀呪を使うのはよして。理研や天磐舟とは目的が違うの。素人のお遊びに手を貸す暇はないのよ」
あやめが晴子を鋭く睨む。
同じくらい鋭い眼で晴子も、あやめを睨んでいた。
「霊元も才能もあるアンタに私の気持ちがわかるもんか。もう失敗はできないの。久我山の家にも安倍家にも貢献できるって示さなければ、頭領様に切り離されるわ。そんな危機感、お前にはないんでしょう。優秀な跡取りが二人もいるんだものね。この阿婆擦れ!」
あやめが憎悪の籠った目を晴子に向けた。
だがすぐに目を逸らして小さく息を吐いた。
「晴子姉さんにも優秀な娘がいるでしょ。霊元を持たない母とカスな霊能しか持たない父から、言霊師が産まれたんだもの。久我山の隔世遺伝かしら? 私の子って偽った方が真実味があるわね」
あやめが下卑た笑みを晴子に向ける。
怒りを露にした晴子があやめの頬を思い切り叩いた。
「英里は私の子よ! 私が産んだの! あの子が理研を、安倍家を建て直してくれるわ。天磐舟はそのための足掛かりに過ぎないの。理研は今に、強力な組織に生まれ変わるわ」
張られた頬を指でなぞって、あやめが不敵に笑んだ。
「晴子姉さんの願いが叶うように祈ってるわ。精々、頑張って。張り切り過ぎて潰れても反魂儀呪は手を貸さないわよ」
部屋の扉を開けて出て行こうとするあやめを、真人が慌てて止めた。
「あやめ様、もう一つのお願いを忘れていらっしゃいます」
呼び止められたあやめが稜巳に目を向けた。
「蛇ね。今のように淫気でも吸わせて欲情に溺れさせればいいんじゃなくって? お前が相手をして善くしてやれば、言うことを聞くかもしれないわよ」
小馬鹿にした笑みに、真人が顔を轢くつかせた。
「より確実な方法をとりたいのです。私も霊能は強くありませんので」
あやめが、あからさまに鼻で笑った。
「魂を分ける呪術を使うお前の霊能が弱いって? 晴子姉さんへのアテツケかしら? こびへつらう振りをするなら言葉を選びなさいよ。思ったより頭が悪いのね」
真人の表情が、あからさまに強張った。
「まぁ、いいわ。ここに私がいたとバレても厄介だものね。強い呪詛を蛇に掛けてあげる。穢れた神力のストックがあるなら出しなさい。私の呪詛を付与して蛇の記憶ごと封じてあげるわ」
真人が、あやめに黒い玉を手渡した。
「薄い神力ね。穢れた神力なんて名ばかりの瘴気の塊じゃない」
嫌悪を隠さない目であやめが玉を眺める。
指で摘まんで口に近付けると、ふぅと息を吹き込んだ。
真人が稜巳の顎を掴んで上向かせると、無理やりに口を開ける。
口の中に黒い玉を突っ込まれた。
苦しくて吐き出したいのに、無理やりに口を閉じられて飲み込まされた。
あやめが稜巳の胸に手をあてると、耳元で囁いた。
「ここに来るまでの経緯は総て忘れるの。お前は反魂香を使うために、ここで飼われている蛇よ。記憶も妖力も全部、内側に仕舞って封じるの」
真人に口を抑え込まれ、あやめに体を抑え込まれて、動けない。
耳から頭の中に入ってくるあやめの声が体中に沁み込んでいく。
体に流れる妖力が記憶と絡まって胸の奥の方に沈んでいく。沈んだ記憶を仕舞い込んで蓋をした。
稜巳の体が縮んで、少女の姿になった。
それを眺めて、あやめが思い付いた顔をした。胸に当てた手から何かを送り込んできた。
「封が解ければ穢れた神力が溶け出して気持ちよくなれるわ。人を喰うか殺しなさい。もし惟神に、瀬田直桜に出会ったら、浄化を頼みなさい。お前が神を殺すのよ」
命じられた言葉は、とても恐ろしい。
心ではそう思うのに、稜巳は素直に頷いた。
あやめが満足そうに稜巳の頬に口付けた。
「何もかも忘れていい。覚えていていいのは稜巳という名前と、そうね。角ある蛇の生い立ちも適当に流し込んであげるわ。人を嫌い呪う、蛇の憎悪をね」
あやめの言葉に、稜巳は再度頷く。
「名前は記憶を呼び戻すトリガーになりやすいの。だから、あえて封じないわ。強い封印だから神様でもなければ解けないと思うわよ」
あやめが、部屋の扉に向かう。
「その程度の知識、私にもあるわ。また力を借りるわ。呼び出したら、すぐに来なさい」
苛立ちを隠さない晴子に、唾を吐きかける勢いであやめが舌打ちした。
「もう二度と会わないわ。霊能がない安倍家と理研は、早々に|怨魅寮《おんみりょう》から手を引くのね。じゃないと、本当に死ぬわよ」
あやめは今度こそ、部屋を出て行った。
その後のことは、よくわからない。
只々、あやめが恐ろしかった。体の中に入ってきた呪詛は気持ち悪いくらい気持ちが良くて、ずっと酔っていたい気分になった。
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