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第4話
「……」
裕章のためらいが、言葉を見失う。それを口にすることは、なんだかいけないことのようで……。
「お父様とお母様……。特に今は、お母様がお元気になることかな」
哲臣が、裕章の心を慮って、その胸の内を敢えて言葉にしてみせた。
無言のままの裕章だったが、濡れたその頬が雄弁に彼の心を物語っている。
そんな裕章を見ているうちに、哲臣は疑問が浮かぶのを禁じ得ない。
裕章を出産し、夫・隆生 を失って以来、姉の志保子は心身共に弱っていった。その結果、息子の養育などはすっかり放棄していたし、弟である哲臣の目から見ても、裕章に対して母親らしいことをしているようには思えなかった。
それでもやはり、志保子は裕章にとってはたった1人の母親だったのだ。
そこまで思って、哲臣は苦々しく口元を歪めた。
志保子は、幼い頃から愛されることに慣れ過ぎて、自分以外の人間を愛するという情熱に欠けていた。たった1人の実子である裕章に対して淡々としていられるのも、そのせいだと思われる。そして、早世した夫に対しても、志保子はそれほどの深い愛情を示したことは無かった。
哲臣は、思う。
(それでも、みんな志保姉さんを愛している。姉さんでなくてはならないんだ。他の誰が代わりを務めることなんて出来ないんだ)
「お母様、すぐにお元気になられるんでしょう?」
すがるように裕章が、叔父を問い詰める。少年の純真な眼差しには、ただ一途にその思慕しか無かった。
「そんなに、お母様が恋しいのかい、裕章?」
哲臣の声は、心なしか冷やかだった。
「……叔父様の、仰りたいことは分かっているつもりです。お母様には、お体を大事にして頂かなくてはならないんだから、僕がわがまま言ったりしちゃ、いけないんですよね」
聞き分けの良すぎる裕章が、これほどまでに自制を強いられてきたとは、痛々しいことだった。
「でも! ……でも、毎年クリスマスにはお母様がいらしたのに……。このままじっとしていたら、僕の知らないうちに、お母様がどこかへ行ってしまわれるような気がして。お父様のように、お会い出来ないまま、僕にお母様がいるってことすら消えてしまいそうで……」
少年は、寂しいのだろう。両親の愛に、飢えているのだろう。幼い時に父を失い、今また母を失うことになるかもしれないという恐れが、彼の繊細な神経を切り裂いているに違いない。
そんな裕章の心を、哲臣も痛いほど分かる。けれど一方で、言いようのないもどかしさを覚えるのだ。
自分は、どれほどこの少年を慈しんでも、少年にとっての「絶対」にはなれない。誰よりも愛を捧げているのに、その享受者にとって必要としているのは自分ではないのだ。自分は、決して姉・志保子に取って代わることなど出来ないのだ。
今も、そうだ。
あの時も、そうだった……。あの時も、狂わんほどの想いを捧げたにもかかわらず、選ばれたのは哲臣ではなく、姉の志保子だったのだ。
命さえも惜しくないと思うほど愛していた。他には、何1つ欲しいものはなかった。ただ、あの人だけ……。心から真に欲したのは、あの人1人だった。
「裕章。ピアノを弾いてくれないか」
哲臣は、あの人の面影を残した裕章の涙の零れる頬に手を寄せた。
「曲は、そう……、シューマンの『トロイメライ』がいい」
哲臣は、夢を見ていた。愛しい少年は自分の傍らにいて、決して裏切ることなく、ただ自分だけを必要として、それだけで幸せで……。だが、それは夢だ。
いつも、誰かを愛することは、夢を見ることなのかもしれない。届くことを知らない、1人よがりな夢。そのことを、10数年前、この少年の父・隆生に愛を告げ、拒絶された時に哲臣は痛切に実感したのだ。
「きっと、お父さまも聴きたがっていらっしゃるはずだ……」
裕章は、応えなかった。ただ、遠い目をしていた。
「叔父様の手……、冷たい」
裕章の無邪気な温もりに、哲臣は切ない痛みさえ感じた。
雪はまだ、降り続いていた。
【了】
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