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9)獅子身中の虫〈1〉

 夜になると、境内の中が少しザワザワする。  参道から見ているしかできないので、よくわからない。  時折、男女で言い争う声が聞こえてくる。  女性が甲高い声で何か叫んでる。  ■■■様、大丈夫ですか?  静かになったから、その後こっそり聞きにいったんだけど、  ■■■様は大丈夫だよ、としか言ってくれない。  朝が来る。  いつもは気持ちがいいはずなのに、なんだか神社の空気が重い。  お参りにくる人たちも何かヒソヒソと話している。  どうしたんだろう?  でも、誰も教えてはくれない。  不安なまま一日が終わって、夜になる。  また、言い争う声。昨日よりひどい。  ハク、どうしよう?  どうしようね、バク。  二匹で相談して、こっそり見に行くことにした。  ぶっつりと記憶が途切れるように、目が覚めた。 「……夢」  目から涙が溢れていて、以前のように止まる気配がない。手の甲で拭いながら身体を起こし、近くに放っておいた鞄を取る。神社のことをメモしていた大学ノートを取り出して、見た内容を思い出せる範囲で書き出した。  気が重くなる夢だった。読み返しているだけで、胸の中を不安がぐるぐると渦巻いて、気持ち悪い。  狛犬だった頃の、そして破り捨てられてしまった、バクの記憶のひとかけら。確かにこんな記憶を持ち続けるのは、嫌かもしれない。 「そうだ、送んなきゃ」  バクの記憶が見えたら、仁科に共有するように言われている。  充電器に挿したままのスマートフォンを手に取り、書き文字の並ぶノートを撮影すると、その画像をチャットアプリで仁科宛に送った。  早朝なのでやはりすぐ既読にはならない。だが、ついアプリの画面を見てしまう。  しばらく見つめて、ずっと見ていても仕方ない、と和都はスマホの画面を消して枕元に投げた。 「……起きちゃおうかなぁ」  そう言いながら、再びベッドの上に寝転ぶ。外はすでに明るくなっているようで、朝焼けの薄いピンク色がカーテンの隙間から見えた。  早く起きたところで、急ぐ理由も、特に何かしたいこともない。あるとすれば、学校に行くことくらいだ。  顔を洗って着替えて、読みかけの本でも読んでいようか。  そんなことを考えていると、不意にスマホが短く振動した。こんな時間に通知のくるものなどあっただろうか、とスマホを取った和都は小さく声を上げる。 「……あ」  画面には『仁科先生』と書かれた、チャットアプリからの通知。 《やな夢だね。大丈夫?》  メッセージを開くと、普段話す時のような文体で文字が並んでいて、声が聞こえたような気さえする。  ベッドにくっ付けていた背中をお腹に変えると、和都はすぐに返信した。 《うん。へーき》 《神社で何か、事件でも起きたのかね?》 《やっぱり、そうなのかなぁ》  普段から寝坊するくらい朝が苦手のはずなのに。  仁科が欠伸をしながら入力している様子を想像して、少し笑ってしまった。 《じゃあ、二度寝するわ》 《遅刻しないでね》  念を押したメッセージがちゃんと『既読』になったのを確認して、和都はスマホの画面を消す。 「……先生、大丈夫かなぁ?」  嫌な記憶を見たはずなのに、なんだか少し気が紛れたような気がする。  和都はベッドを降りるとうーんと伸びをして、顔を洗うために部屋を出た。 ◇ 「じゃあこっちの部活終わったら、昇降口な!」 「うん、わかった」  放課後。和都は部活に向かう菅原・小坂と一緒に保健室まで来ると、第二体育館のほうへ向かう二人に手を振って、それから保健室の引き戸をノックして開ける。 「失礼しまーす」 「おう、お疲れ」  すでに今日の作業の準備を始めている仁科が出迎えた。 「なーんか最近、春日クン以外もお前の護衛してない? 気のせい?」  ちょうど保健室の前で話していたので、仁科にも二人との会話が聞こえていたらしい。 「……実は体育祭の時、堂島先生に腕掴まれたの、見られててさ」 「ああ、それで警戒してくれてんだ。いい奴らじゃん」  体育祭が終わってすぐ、春日・菅原・小坂の三人から、なるべく一人にならないように、特に川野と堂島に注意するよう、改めて言われてしまったのだ。  春日が言うのはまだ分かる。しかし去年はそんなことを言わなかった菅原と小坂がそう言い出したのは、少しだけ驚いた。どうやら体育祭の時のことが、よほど衝撃的だったらしい。  普段はこれまで通り春日と一緒に帰ることになるが、委員会で遅くなった時は、菅原や小坂が必ず一緒に帰ってくれることになった。  これまでのような普通の人間とは違う手強い相手なので、理由は話せないにしても、正直ありがたい。 「今日はプールの点検、ですよね?」 「そ。もう少ししたらプール授業始まるから、そのための準備をやっとかないとね」  体育祭が終わると、制服も半袖のシャツにグレーチェックのズボンという夏服に変わり、暫くしたらプールの授業も始まる。  プールの設備そのものの点検や、貯めた水の水質管理は専任の先生がやることになっているが、付随するトイレや更衣室などの点検や備品チェックは養護教諭が担当するものらしい。 「さて、行こうか」  狛杜高校のプールは、第一体育館のさらに奥のほうにある。  コンクリートの壁で囲まれた階段を上がると、更衣室やトイレのドアが右側に並び、その反対側に消毒槽やシャワーなどの設備があって、その向こうには巨大な二十五メートルのプールが広がっていた。  一から七まで番号の振られた飛び込み台はシーズンオフの間に風雨で汚れていたが、満水まで張られたプールの水は比較的綺麗に見える。 「水って入れっぱなしなんですよね? すごい綺麗なままですけど」 「ああ、使わない間は汚れすぎないように、藻とかが生えないようにする薬を入れてるんだって」 「へぇ〜」  まずはプール周辺をぐるりと囲む金網の状態を、歩いて確認した。大きな問題もなかったので、そのままシャワーや更衣室のチェックへ向かう。その後トイレの確認をしたら完了だ。  更衣室内は電灯を点けなくても、開け放したドアや窓から入る日差しで十分に明るい。  備え付けの棚やスノコを和都が奥から順に一つずつ見ていると、足が割れて外れているスノコがあった。 「わ、ここ割れてる」 「あら、経年劣化かねぇ」  そう言いながら、仁科が持ってきていたバインダーにチェックしていく。もう一つ割れているスノコを見つけたあと、最後の確認場所であるトイレに移動した。 「清掃のあとにペーパー類とか入れるんですっけ?」 「そうそう、来週やるからね」 「はーい」  個室が並ぶその反対に設けられた、手洗い場の一番奥まで和都が進む。手洗い場自体に問題はなさそうだが、壁にいくつか並んで貼ってある鏡のうち、一番奥の一つが大きく割れていた。 「あ、先生。ここの鏡、割れてるよ」 「えー、マジか。いつ割れたんだ?」  そう言いながら仁科は近づいてヒビがあるのを確認すると、チェックシートに書き込む。  ヒビは鏡面全体に大きく斜めに入っていて、どうして割れたのだろうか、と覗き込む和都の顔が真ん中から斜めにズレている。まじまじと見つめていると、不意にズレているほうの自分の顔が目を細め、口角を上げてニヤリと笑った。 「えっ」  突然、鏡のくっついている背面から黒いモヤがもくもくと吹き出す。ゆっくり鏡全体が包み込まれると、その中央から突如、爪の長い大きな手が和都の顔を掴むように飛び出してきた。 「相模!」  驚いたまま動けない和都を、仁科がすんでのところで抱えて避ける。が、長い爪は躱しきれなかったようで、仁科の頬が短く切れていた。 「先生、血がっ」 「たいしたことないよ」  動揺する和都に構わず、仁科はジッと鏡を睨みつける。  青白い手の突き出た、黒いモヤに包まれた鏡から、何か声が聞こえてきた。 〔めだま、めだま……。綺麗なめだま〕  声に合わせるように、手首まで出ていた青白い巨大な手がぐんぐん伸びてくる。徐々に肘、二の腕と見えてきたのだが、その手首から肘の前腕と肘から肩までの二の腕の長さが異様に長い。まるで青白い蛇かなにかのようだ。 〔よこせ、よこせ。美味そうだ!〕  叫ぶような声に続いて、金属を引っ掻くような、女の甲高い悲鳴が室内に響く。 「お前の『狛犬の目』に釣られて出てきたみたいだな」 「う、うん……」  和都のほうを見ると、青い顔で耳を押さえ、異様なまでに震えていた。仁科はそちらも気になったが、ともあれ鏡から出てきたアレをなんとかするのが先だ。 「おいハク! その辺にいるんだろ?」 〔もっちろーん!〕  仁科が空中に問いかけると、飛び抜けて明るい少年のような声が響いて、何もない空間が不意に白い渦を巻き、白くて半透明な頭部だけの犬・ハクが姿を現す。普段は全く視えないが、呼びかけるとこうして視えるカタチで出てきてくれるのだ。 「あれ、食えたりしない?」  仁科が指差した鏡の中から生えた手を見て、ハクが困ったように眉を下げる。 〔なにこれ、不味そう!〕 「そう言うなよ」 〔ま、ぜーんぜん食えるけどね!〕  ハクは得意げにそう言うと、もこもこといつもの何倍にも膨れ上がったように大きくなった。 「……でっけぇなぁ」  頭が天井につくようなサイズになると、ハクはその巨大な牙を剥き出しにして口を開ける。 〔不味そうだけど、カズトを狙うヤツは許さないよ!〕  大口を開けたハクはそのまま、腕の生えた鏡に向かって突進した。壁にめり込むのもお構いなしに食らいついたが、ハクも、鏡から生えた腕も、お化けの類だ。衝撃による風や振動は起きても、物理的に何かが壊れるわけではない。 〔はい、おーしまい!〕  ハクが元のサイズに戻りながら壁から離れると、そこにはただの割れた鏡があるだけだった。 「ありがとう、ハク」 〔カズトのためだからね!〕  ホッとした顔の和都に、ハクが自慢げに鼻を鳴らす。そっとハクに手を伸ばすと、いつもなら空中をきるだけの指先が、ふかふかした鼻先に触れた。 「あ、(さわ)れる」  大きな動物に触れているような、ほんのりと熱を感じる感触。和都はそのまま黒い鼻とその周辺を指先で優しく掻いてやった。 〔うふふ、くすぐったぁい〕  ハクがふにゃふにゃと嬉しそうに笑う。 「ほー。そこそこチカラがついてきたみたいだな」  和都の隣に立つ仁科も一緒にハクの鼻先を撫でた。実体化しているわけではないので普通の人には視えるはずもないが、霊力(チカラ)のある者ならば触れるらしい。 「……先生のおかげだね」 「たいしたことしてないけどね」  仁科はそう言って、今度は和都の頭を撫でると、それからじぃっと見つめて言った。 「とりあえず、キスでもしとく?」 「学校でするなって言ったよね?」  和都が睨みながら手を払い除けたので、仁科は笑って落ちていたバインダーを拾い上げる。 「ひとまずチェックは終わったし、戻ろうか」  二人は薄暗くひっそりと静かになったトイレから出ると、そのままプールを後にした。

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