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9)獅子身中の虫〈2〉

◇  空の端が少しオレンジ色を帯び始めた頃、和都と仁科は保健室に戻ってきた。 「あ、そうだ。手当てしないと」  和都が思い出したようにそう言って、仁科の顔を見上げる。 「たいしたことないよ?」 「でも、一応、さ」  切ったと言っても少し掠ったくらいで、血も軽く出た程度。痛みもなければ、すでに出血も止まっているのだが、和都があまりに心配そうな顔をするので、仁科が折れることにした。 「……じゃあ、してくれる?」 「うん」  彼は自分のせいでケガをさせた、迷惑をかけたということを酷く気にする。それを手当てさせることで少しでも解消できるなら、易いものだ。  軽く消毒して、一番小さい絆創膏を貼る。貼らなくても問題ない傷だが、そこも好きにさせた。  それにしても、と仁科は思う。  プールから戻って来る時からそうだったが、手当てをしている最中も、そして今も、和都の顔はどこか浮かない。 「なんか元気ないね。そんなに怖かった?」 「……声が。今朝の夢、思い出しちゃって」  絆創膏の剥離紙をゴミ箱に捨てながら、和都が沈んだ声で答える。  鏡の中から響いてきた、金属を引っ掻くようなあの声は、今朝の夢に出てきた女性の声によほどそっくりだったようだ。 「あぁ、なんか嫌な感じの夢だったもんな」  言われて仁科は早朝に届いた、夢のメモ書きを思い出す。  男女が言い争い、女性が甲高い声で叫んでいたという嫌な夢。  仁科はベッドで寝ぼけ半分のまま読んだが、あまりの不穏さとメモ書きの文字の雰囲気が少し心配になるような書き方になっていて、早朝にもかかわらず、思わず返信してしまった。 「……女の人の、怒ってる時の声が一番苦手なんだよね」  困ったように笑う和都の顔色は、まだ少しすぐれない。  時計を見ると、時間的に運動部はまだまだ練習に励んでいる最中だ。 「菅原たち終わるまで、横になってていいよ」  仁科はほぼ和都専用になりつつある、一番端のベッドの、専用カーテンを半分だけ引く。 「でも、まだ作業……」 「残りはたいした作業じゃないから、休んでなさい」  浮かない表情のまま、プールのチェック用に使ったバインダーを見つめる和都の肩を優しく叩く。実際問題、残りの作業は必要な備品や修繕品をまとめるくらいで、たいしたものではない。 「……何しにきてるか分かんないじゃん」  口を尖らせた和都が反論する。  今日はなんだかどうにも、往生際が悪い。 「大人しく横にならないと、また押し倒すよ?」 「……変態教師」 「なんだ? 押し倒されたかったのかお前」 「あーもー。……分かったよ」  威圧するように顔を近づけると、和都はようやく観念し、しぶしぶと言わんばかりにベッドへ上がる。  そのまま仰向けで横たわり、天井を見つめたまま息をついた。 「……なんか、続きをみたらさ」  やはり疲弊していたのか、横になった途端に和都の声が少しぼんやりとし始める。 「ん?」 「夢の続き」 「うん」 「怖いこと起きそうで、嫌なんだよね」  呟くように言った和都の顔を覗き込むと、すでに目を半分閉じていた。 「手でも握っててやろうか?」  仁科は和都の頭を撫でながら、冗談めかして言う。 「……うん」 「え?」  小さな返事と共に、くんっと白衣を下に引っ張られる感覚。  そちらを見ると、和都の手が仁科の着ている白衣を掴んでいる。 「……マジか」  呆れて和都の顔を再び覗くと、しっかり目を閉じて、寝息を立てていた。  夜。参道が暗い。  言い争う声が聞こえる。  胸がザワザワする。大丈夫かな?  ふっと急に声が消えた。  どうしたの? どうしたの?  やや遅れて叫び声。  気になって気になって、拝殿のほうへ向かう。  錆びたような、嫌なにおいがしてきた。  そして目の前に広がったのは、赤色。  赤。  赤。  おびただしい鮮やかな、赤。  血の色。  真っ赤に広がる水たまりの中に、人が倒れている。  その顔は──。 「……あああっ!」  ベッドカーテンを閉じた内側から、和都の悲鳴が聞こえた。 「大丈夫か?」  談話テーブルで作業の続きをしていた仁科は、急いでベッドに駆け寄り、カーテンを開ける。  ベッドの上では、上半身を起こした和都が青い顔で、呼吸荒く肩を上下させていた。見開いた目から、ボロボロと涙を溢している。そしてその目は、いつかの神社で見た時のような、綺麗な金色に光っていた。 「……あ、あ」  何か話そうと懸命に口を動かしているが、動揺のせいか震えて上手くできていない。 「嫌な夢だった? ……大丈夫だよ」  仁科はそっと近寄ると、止まらない涙を指で軽く拭い、和都の頭を肩に押し当てるように抱きしめた。 「……は、拝殿の前が、真っ赤、で」  震える声でようやく出てきたのは、そんな言葉。 「真っ赤?」 「たぶん、血」 「……そうか」 「あの人が、倒れてて……」  和都のいう『あの人』とは、名前の分からない、生前のバクが慕っていたらしい宮司のことだろうか。  優しく背中をさする。  けれど、小さな肩の震えも、涙も、止まる気配はない。 「どうしよう、助けないと」 「それは過去の記憶だ。今起きてることじゃない」 「でも、でも……」  あまりに鮮明な記憶だったのか、意識ごと当時に戻ってしまったようだ。混乱しているらしい。 「落ち着いて。ここは学校、お前は今は人間。そうだろう?」 「……あぁ、そう、そうだ。ボクは、人間、だ」 「大丈夫。今は誰も死んでないよ」 「うん、うん……」  ゆっくり背中をさすりながら現状を伝えて、和都としての意識を取り戻す。  しばらくして荒かった呼吸が少しずつ整ってきた。よく見ると、金色に光っていた目の色も、いつもの黒い瞳に戻っている。 「……落ち着いたか?」 「うん……」  仁科に言われてようやく、和都は自分で呼吸ができた気がした。  大きな腕に抱きしめられたまま、同じく大きな手が頭を撫でてきて、それから額に唇が触れる。  そうされることで、すっかり安心するようになってしまったのが、少しだけ悔しい。 「なんか、混乱しちゃって……」 「気にするな」  手の甲で頬に流れた涙を拭いていると、身体を離した仁科がタオルを持ってきてくれた。  それを受け取って顔を拭いていた和都は、仁科の姿に違和感を覚える。寝る前までは着ていたはずの白衣を着ていなかったからだ。 「……あれ、先生。白衣は?」 「ん? ああ、いや、ほら……」  そう言って仁科が自分を指差す。言われて自分の身体に視線を向けると、仁科の白衣が身体に掛かっていた。  寝落ちる直前、白衣を掴んだような気がしたが、本当に掴んでいたらしい。多分、掴んだまま離さなかったので、仁科はそのまま脱いで自分に掛けたのだろう。 「……すみません」 「どういたしまして」  和都が申し訳なさそうに白衣を手渡すと、仁科は小さく笑って受け取った。

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