91 / 103

21)黄昏鳥の鳴く〈4〉

◇ 「え、それで川野先生、いなくなったの?」  社会科準備室を出た後、小坂はそのまま部活に参加するため第二体育館へ向かい、春日は報告も兼ねて、アンケート集計のために和都が居残っている保健室に来ていた。 「ああ。顔の右半分がヤケドみたいになったまま出ていってな。その後すぐ西原先生がきたんだが、誰にも会っていないようなんだ」  特別教科棟は、西棟も南棟も、外に出るには一箇所しかない階段を使う必要がある。川野がもし社会科準備室を出たあと階段を降りていったなら、西原と会っているはずだが、そんな様子はなかった。 「じゃあどうやって……」 「違う空間に逃げ込んだんじゃない?」  和都と一緒に談話テーブルでアンケートの集計作業をしながら、春日の話を聞いていた仁科が言う。 「違う空間?」 「うん。堂島が俺んとこに来た時も、いなくなる時はスーッて空中に消えていったからさ」 「……こわぁ」 「なるほど、鬼はそういうことも出来るんですね」  春日は川野がいなくなった時の様子を思い返すような顔で頷いた。  鬼は空間を捻じ曲げたり、身体を変化させたりなど、人間では成し得ないことができてしまう、全く違う未知のものなどだと、改めて実感する。 「それにしても、凛子さんのくれたお守り、すごいんだね」 「ああ、確かに」  春日は通学鞄に仕舞ったお守りを、再び取り出して眺めた。  花の地紋が入った濃い紫色の生地で、表に『御守』、裏に『安曇神社』と金糸で刺繍された、どこにでもありそうなシンプルなお守り。  先日、白狛神社跡地に祝詞をあげに来た際、凛子が「倒せるほどじゃないけど、怯ませるくらいならできるから」と和都と春日にくれたものである。 「安曇神社のお守りは、効果がすごいって評判いいんだよね」 「へー、そうなんだ」 「噂は聞いたことありますね」  仁科の言葉に感心しながら、和都も自分の鞄からもらったお守りを取り出して見つめた。そこまで強力なチカラは感じないが、すごいものなのだろう。  そんなことを考えながら、和都はハッと思い至って。 「あ、ねぇ。もしかしてだけど。ユースケ、このお守り試すために小坂についていったとか、ないよね?」 「……一応、確認はしといたほうがいいかと思ってな」 「危ないんだからやめろよ!」  和都は驚愕と怒りの混じった顔で春日を睨んだ。  春日は昔から、危ないことでも平然と突っ込んでいくタイプではある。しかしいくら喧嘩が強くて、強力な守護霊がついていると言っても、今回の相手は人ではなく『鬼』なのだ。 「──俺は『鬼』に関してはまだ、全然実感がなかったからな。対策を考えるためにも、実際にどんな感じなのか見ておきたかったんだ。……悪かったよ」  和都が涙目になっているのに気付き、春日が視線を逸らして言う。しかし、ムッと口を結んだ和都の機嫌は直らない。 「まぁ、お守りの効力も分かったし、春日クンも無事だったんだから、よかったじゃん」 「……そう、だけど」  隣で集計作業を続けていた仁科が、宥めるように和都の頭を撫でた。  春日は今回、自分の代わりに社会科準備室に行ったので、その辺りもあるのだろう。  自分ではなく、自分以外の誰かが傷つくことが、一番嫌なのだ。 「しかし、そんな強力な奴なら、俺も貰っとけばよかったなぁ」  仁科は和都の握りしめていたお守りを、横からするりと取り上げてまじまじと眺める。 「……先生も、貰えてたらよかったのにね」  先日、堂島が保健室にやってきた件を思い出し、和都がそう言った。  もし仁科がこのお守りを持っていれば、ケガをせずに済んだかもしれない。 「おれのお守り、先生持っとく?」 「いやいいよ、お前が持ってなさい」  仁科はそう言って和都にお守りを返すと、遠い目をして呟く。 「てか、なんで俺の分はなかったんだろ……」 「嫌われてるんじゃないですか?」  春日が仁科にそう毒づいてすぐ、室内に声が響いた。 〔そのお守り、なんかすごいねぇ〕  一番手前のベッドの上で、しゅるしゅると白い渦が巻き、大きな白い犬が姿を現す。首には赤白の捻り紐を首輪のように結び、尖った耳をピンと立て、金色の瞳がこちらを見ていた。 「ハク!」  出会った頃は首までしかなかったが、今は前足から胴体、後ろ足まで綺麗な実体を現しており、残るはお尻の先の尻尾だけという状態。すっかりかつての狛犬だった頃のような姿になっている。 「ハクはすごいお守りって分かるの?」 〔もちろん! 普通のお守りとはちょーっと違う感じするね!〕 「へー、やっぱりそうなんだ」  ハクの言葉に、和都は感心したようにお守りを見つめた。  二人が笑い合って話すのを、仁科と春日は正直、内心穏やかに見ていられる気分ではないのだが、その理由を和都に知られるわけにはいかない。 〔でも、今度はコサカとユースケかぁ。なかなかカズトを食べられないから、焦ってるんだろうね〕 「……そうみたいだな。お前のチカラがだいぶ強くなったせいだ、というのを川野も言っていた」 「たしかに。あと、尻尾だけ?」 〔そうみたい!〕  ハクがそう言ってお尻を振ってみせる。  四肢も爪先まできっちり揃い、胴体の流れるような白い毛並みがキラキラしていた。 「まぁ先週末も、先生の家に泊まり込んでたみたいだしな?」  そう言って春日は腕を組み、トゲを含んだ言葉で和都をジロリと睨む。 「……べつに、解読の手伝いしてただけだし」  言われて和都は、視線をふいっと横に逸らす。 「泊まる必要はあったのか?」 「うっかり寝ちゃったの!」 「へー?」  春日は視線を口を尖らせる和都から、今度は仁科に向けた。 「普通は、起こして家まで送るもんですけどね?」 「……いやー、全然起きなかったし、家に誰もいないって言うからさ」 「だからって生徒を自宅にほいほい泊めるのも、どうかと思いますけど」 「親戚のおじさんの家に泊めてあげただけだって」  仁科が相変わらず飄々と答えるので、春日は深くため息をつく。  親戚関係といえど、限度はあるだろう。ただでさえ、夏休みになにかしらあったらしい二人なのだ。 「──ちゃんと、節度は守ってくださいよ」 「分かってまーす」  ジロリと睨む春日に、仁科はそう答えながら、談話テーブルの上に広げたアンケート用紙をまとめ始める。話ながらも進めていた集計作業が終わったようだ。 「……ユースケ、学校外のことは口出さないって言ったくせに」 「内容による」 「何だよそれぇ!」  和都も仁科と同様にアンケート用紙をまとめながら、声を荒らげる。担当していた分が終わったらしい。 「それに、家に一人でいるより、誰かといたほうが安全だと思わない?」 「まぁ、一理あるがな」 「でしょ?!」  怒ったように言う和都を置いておき、春日はハクのほうを真面目な顔で見つめる。 「……おい、ハク」 〔なぁに? ユースケ〕 「実体化したら、鬼じゃない人間でも食えるのか?」 「だれ食べさせるつもり?!」  春日のハクへの問いかけに、さすがの和都も慌てて悲鳴のような声を上げた。 〔あはは、食えるよ! というか『鬼』も食べる時はまるごと食べちゃうつもりだしね〕 「え、まるごとって……」 〔うん! 身体ぜーんぶ丸ごと!〕  今度はハクの回答に、和都の顔が青ざめる。 「え、待って、ハク。それじゃ困っちゃう……」 〔なんでー?〕 「堂島先生は、今はたしかに『鬼』だけど、鬼が憑いてるだけなんでしょ? 鬼だけ食べるって出来ないの? 堂島先生は、先生の友達なんだよ」 「できれば、俺からもお願いしたい。あぁなっても、友人は友人だからな」  黙って聞いていた仁科も、これについては口を開いた。確かに被害には遭ったが、悪いのは彼ではなく、彼に憑いた『鬼』である。 〔うーん、出来るとは思うけどぉ〕 「本当?」  ハクはピンと立てた耳を下げ、うーん、と困った顔をした。 〔でもね、ちょっと難しいんだぁ。鬼や悪霊がニンゲンに憑いてる状態ってね、ニンゲンの魂に掴まってる状態なの。それを手離してもらうには、一度ニンゲンの身体から魂だけを放り出す必要があるんだ〕 「魂だけを、放り出す?」 〔そう! 魂だけにされると、掴まってるだけの憑物は必ず手を離しちゃうんだ。そうやって離れたタイミングなら、鬼だけを食えると思うよ!〕  ハクの説明で理屈については理解したが、実際にやるとなると、そう簡単な話ではない。 「魂だけにするって……どうやって?」 〔ほら、ニンゲンって事故とかに遭うと、リンシタイケンっていうのするでしょ? あんな感じのが出来ればいいんだよ〕 「でも、事故だとケガしちゃわない?」 「……下手したら、事故で死ぬ可能性もあるからな」  仁科が腕を組んで息をついた。憑いている『鬼』を引き剥がすために事故を起こしたとしても、肉体が負ったケガが原因で死んでしまったら意味がない。 〔まぁ、ユータイリダツってのが出来れば、一番早いんだけどね〕 「幽体離脱……」  言われて三人は揃って頭を捻る。 「先生、方法しらないの?」 「いやー、そっち系の勉強は途中で辞めちゃったから……」  オカルト的な知識があまりないので、なんとなくのイメージでしか話せない。 「確か、気絶してるとなりやすいんじゃなかったかな。堂島(アイツ)なら、殴って気絶させればなんとか……」 「先生、力では敵わなかったんじゃないの?」 「あー……うん」  先日堂島に襲われた際は、全くもって腕力では歯が立たず、結局ケガをする羽目になった。  どうしたらいいか、と悩んでいると、ハクが前足を上げて招き猫のように上下に振る。 〔まぁまぁ、カズトのお願いだからね! ドージマに憑いてる鬼を食べる時は、ちょっとだけ殴ったりしてなんとかしてみるよぉ〕 「うっかり殺しちゃったりとか、しないでね?」 〔大丈夫、大丈夫!〕  ハクがケタケタと楽しそうに笑った。  和都は若干の不安を感じつつも、これまでもちゃんと自分を守ってきてくれたのだから、大丈夫だろうと胸を撫で下ろす。  孝四郎の件については、まだ納得の出来ない部分もあるけれど、とりあえずの脅威である『鬼』をなんとかすることは出来そうだ。  もうすぐ今まで以上に平穏な日々がやってくるのかと思うと、つい顔が綻んでしまう。  そんなことを考える和都の横で、仁科が学年別にまとめたアンケート用紙を整えていた。 「さ、任意のアンケート集計は、ひとまずコレで終わりだね」 「お疲れ様でしたぁ」  疲れ切った和都は、談話テーブルに突っ伏する。  一学期のものより項目も枚数も少ないとはいえ、集計作業はどうしたって疲弊するものだ。 「今日の作業はそれで終わりか?」 「うん、明日グラフとか作るつもり」 「さぁさ、暗くなる前に帰りなさい」  言われて和都が窓の外を見ると、空はすっかりオレンジ色に染まり、紺色の気配が近付いている。 「うわ、もう夕焼けしてる」 「日が短くなってきたな」  和都が帰り支度を始めたので、それを待つ間、春日は窓に近づいて空を見上げた。深い青と橙のグラデーションの間に、キラリと一番星が輝いている。 「春日」  空を眺める春日に、仁科が近づいてきて声を掛けた。 「なんですか?」 「お前も帰り道、気をつけなさいよ。居なくなった川野が、どこに潜んでるか分からんし」 「はい、大丈夫です。襲われたら、またコレ投げるんで」  そう言って春日は仁科に紫色のお守りを見せる。 「……凛子に、お礼言っとかないとだねぇ」 「そうですね。俺からの分も、伝えといてもらえますか」 「分かったよ」  そんな話をしている間に、和都の支度が終わったようで。 「よし、帰ろ!」 「じゃあ気をつけてな」 「うん、先生もね!」  そう言って手を振って保健室を出ていく和都と春日を、仁科は目を細めて見送った。

ともだちにシェアしよう!