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21)黄昏鳥の鳴く〈3〉

◇  放課後になると、和都は先日できなかったアンケート集計のために保健室へ行き、菅原はいつも通り部活へ向かった。  そして小坂と春日は、特別教科棟・南棟の二階にある、社会科準備室を訪れるため、階段を上っていた。 「春日、何か勝算でもあんの?」 「勝算というわけではないが、試してみたいことがあってな」 「ふーん?」  よく分からないが、あの妙な目つきをする教師の元に一人で行くより、誰かいた方が圧倒的に心強い。  二階にたどり着き『社会科準備室』とプレートの掲げられた扉の前に立つと、小坂は深呼吸してから、ノックして扉を開けた。 「失礼しまーす!」  扉を開けてすぐ目に飛び込んできたのは、黄変した紙束と背表紙の分厚い本が収まった本棚だった。そしてその棚の上部には大小いくつかの地球儀が並び、地図と思われる大きな紙を丸めたものなどが無造作に立て掛けられている。  資料のたくさん置かれた箇所を横目に奥に入ると、社会科目を担当している教職員用デスクの並んだ空間があり、その一番手前の席に川野が座っていた。  春日がぐるりと室内を見回した感じでは、今この部屋には川野しかいないらしい。 「おや、小坂くんと……春日くん。何か御用ですか?」  川野はこちらに顔を向け、穏やかそうに目を細めた。 「今日、五限の時に返してもらった、テストの件で来ました」 「……何か、問題でもありましたか?」  まるで休み時間に話したことなど、一切記憶になさそうな口ぶりである。  どうやら連れてきたのが和都ではなく、春日だったのがよほど気に入らないらしい。 「おれの書いた答え、勝手に書き換えましたよね?」 「さて、何のことでしょう?」 「なっ!」  とぼける川野に、今にも殴りかかりそうな小坂を制し、春日が解答用紙と問題用紙を持って前に出た。 「川野先生、これは小坂の書いた文字です。こっちは解答用紙の文字」  そう言って、問題の箇所を分かりやすく並べて見せる。 「解答用紙の文字は、明らかに筆跡が違います」 「……そうですか? 私には違いがよく分かりませんが」  二枚のプリントを受け取り、わざとらしく見比べながら、川野が片眉を下げた。 「俺はこの筆跡に見覚えがあります」 「ほう?」 「普段、川野先生が黒板に書かれている文字です。『あ』の書き方が同じです」 「うーん、チョークで書いた字と鉛筆で書いた字では、結構異なるものですけどねぇ」  春日の言葉に、面白い冗談でも聞いたような、笑いを含んだ声で答える。  あくまでも、シラを切るつもりらしい。 「……和都の時は、あちこちの回答を修正していたので判別が難しかったんですが、今回は一箇所だけなので、バレバレですよ」  いつもと変わらない表情でそう言った春日に、穏やかそうに笑っていた川野が、ふっと不快感を露わにして睨みつけた。 「こういった不正を他の先生に伝えた場合、川野先生の立場が……」  ガタン、と音を立て、淡々と語る春日の言葉を遮るように川野が立ち上がる。  身長は春日と同じくらいだが、細身のせいか春日より小さく見えた。 「……まったく。人間というのは面倒くさい生き物ですねぇ」  川野はガシガシと頭を掻きながら、大きくため息をつく。そしてジロリと、授業中には見せたことのない、ギョロついた目で小坂を睨みつけた。 「私は相模くんを連れてきなさいと、言ったはずなんですが」 「誰がのこのこ連れてくるかよ」  小坂が反論すると、川野は再び、はぁぁ、と大仰に息を吐き、ギリギリと歯軋りをし始める。 「ああ、まったくもって面倒です。人間は食ってしまうと後始末に困る。だからこそよりチカラの強い、美味い人間を上手にいただくには、人間社会に紛れ込んでおいたほうがいいと思って紛れてみたんですが、どうにも失敗でしたかね」  ぶつぶつと独り言に近い声で言う川野の身体が、ボコッ、ボコッと泡立つように、少しずつ大きくなっていく。  春日は川野の身長が自分より大きくなり始めたのに気付き、小坂を後ろに庇いながら数歩下がった。 「必要最低限にとどめておこうと思っていましたが、『狛犬の目』の取り巻きを片付けるには、少々チカラが足りなくなってしまいました。ただでさえ空腹で堪らないというのに。仕方がありません。子どもの二匹くらいなら、キレイに全部、食べてしまえば問題ありませんよねぇぇぇええ」  身長は三メートルを越えただろうか。天井に頭がつきそうなくらい高くなり、身体つきも隆々とした筋肉で膨れ上がって大きくなっている。肌の色も浅黒く変色し、額の右端、こめかみの少し上からは、まるで牛のようなツノが一本伸びていた。反対の左端には、よく見ると折られたのか短くなったツノが見える。 「……鬼?!」  まるで、おとぎ話に出てくる鬼そのものの姿。  こちらをギラリと睨む目の色は赤く、真ん中の瞳孔も縦に細長い。  川野の変貌ぶりに驚く二人めがけて、太い腕が勢いよく伸びてきた。 「うぉぉっ!」  春日と小坂は、慌てて後方まで下がって距離を取る。 「大人しく捕まってください。骨も血も残さず、キレイに食べてあげますよ」  そう笑う川野の大きく開いた口からは、巨大な牙が見えていて、赤くて長い舌がベロリと唇を舐めた。 「春日、逃げるぞ!」  小坂がそう言って、入ってきた社会科準備室のドアへ駆け寄る。 「え、あれ?!」  鍵をかけた覚えもなければ、かかってもいないドアは、ぴったり閉じたままビクともしない。ガタガタと何度も揺らしてみるが、開く気配がなかった。 「くそっ!」  社会科準備室の出入り口はもう一箇所あるが、立ちはだかる川野の後ろのほうにある。 「残念でしたねぇ」  これも鬼の持つ不思議なチカラによるものだろうか。  ゆっくりと、楽しげに。  獲物を追い詰めたとばかりに、川野が大きな身体を揺らしながら近付いてくる。  春日は小さく息をつくと、持ってきていた通学鞄から何かをつかみ出し、川野の顔めがけて思い切り投げつけた。 「お守り?」  投げつけられたものが何であるか、小坂が分かった次の瞬間。 「ギィヤアアアアアアア!」  凄まじい咆哮が、鬼の口から飛び出す。  川野の顔を見ると、お守りの当たったらしい顔の右半分がドロドロと焼け爛れ、小さな白煙が立ち上っている。大きく膨れ上がっていた鬼の身体はしゅるしゅると萎んでいき、普段の見慣れた人間の姿に戻っていた。 「おのれおのれおのれ……!」  しかし、顔面は焼けたままなのか、片手で押さえ、お守りを投げつけた春日を睨む。 「小僧! 貴様、なぜそんなものを!」 「──安曇神社の巫女さんから、たまたま貰いました」  春日がそう言いながら、床に落ちたお守りを拾おうと川野に近寄ると、よほど効いたのか、今度は川野の方が後退っていく。 「……忌々しい!」  吐き捨てるように言うと、更に後方へ下がり、もう一つの出入り口から出て行ってしまった。  しん、と一気に辺りが静まりかえる。 「あ、逃げた?!」  小坂が気付き、追いかけて出て行こうとするのを、落ちていたお守りとテスト用紙を拾い上げながら、春日が止めた。 「待て、誰か来る」  人気のない南棟の階段を、誰かが上がってくる足音。  固唾を飲んで見守っていると、社会科準備室のドアをガラッと開けて入ってきたのは、世界史担当の西原先生だった。 「あれ? どうした、お前たち」  人間の姿をした大人の登場に安堵しつつ、春日は改まって答える。 「すみません、川野先生に用事があって来たんですが」 「ああ、そうなの。あれ、川野先生いない?」 「……はい」 「おかしいな、結構前にこっちに来たはずだったけど」  西原はそう言いながら自席へ向かいつつ、室内を見回した。  確かにいた形跡はあるのになぁ、と頭を掻く。 「ああそれで、何の用事だったの?」 「この間の実力テストで、採点ミスがあったようなので」  春日は言われて、拾っておいたテストの問題用紙と解答用紙を西原に渡した。 「へー、川野先生が? 珍しいね」  西原が春日に指摘された箇所を確認する。小坂もチラリと改めてプリントを覗き込むと、書き換えられたと思っていた箇所が、自分の書いたものに戻っていた。 「あぁ、本当だね。この内容なら丸になるね」 「そ、そう、ですよね?」  小坂は若干混乱しつつも、そう声を上げる。  確かに書き換えられていたはずだが、川野がいなくなったことで元に戻ってしまったのだろうか。 「なるほどねー、ここが丸なら赤点回避だったのか。小坂はバスケ部だったっけ?」 「そ、そうなんです! 練習、したいんで!」 「あはは、そっかそっか。じゃあ俺から川野先生に言っておくから、部活行きな。この答案は、俺が預かっとくよ」 「やった! ありがとうございます!」  小坂は嬉しそうに万歳してお礼を言うと、さっさと社会科準備室を出ていってしまった。  西原は楽しそうな顔で「頑張れよー」と手を振って見送る。 「じゃあ、すみません、お願いします」 「うん、春日もご苦労さん」  春日は西原に頭を下げると、小坂を追いかけるようにして、社会科準備室を後にした。

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