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エピローグ

「二年三組でーす。観察簿持ってきましたぁ」  和都はいつものようにノックしながら、保健室のドアを開ける。 「お、ごくろーさん」  そう返す仁科は、愛用のマグカップにコーヒーを入れているところだった。 「今日は寝坊してないみたいですね」 「してないよ」  そう言いながら仁科は差し出された観察簿を受け取る。  在籍していた教師の失踪に、学校の裏門近くでの交通事故。さらには屋上の金網が壊れて落下するという災難続きの狛杜高校は、二日ほどの臨時休校を経て再開したものの、しばらくは自習も多く、どこか落ち着かない雰囲気が続いていた。  それから制服も冬季指定の学ランへ替わり、ここ最近になってようやく、これまでの学校生活に戻りつつある。  いなくなった川野や入院している堂島の代わりに、新しい教師がやってきたり、柵の改修工事が終わるまで屋上は立ち入り禁止となるなど、変わった部分も多い。  だが、これもそのうち普通になっていくのだろう。 「そうだ。昨日、堂島のお見舞いに行ってきたんだけどさ」 「あ、どうでした?」  和都の願いであった『鬼だけを食べる』ため、堂島はハクの引き起こした交通事故に遭い、現在もまだ入院している。 「意識もハッキリしてたから、どうなんだろうなと思って話してみたんだけど。どうやら、お前に執着していた部分の記憶だけゴッソリないらしい」 「その部分だけ?」 「ああ」  堂島は春に就任してからずっと『鬼』として和都を執拗に狙っていたのだが、その時だけは意識を乗っ取られたような状態だったのかもしれない。 「俺を襲った時のことも、やっぱり覚えてないみたいだったよ。お前に噛みつかれたんだって傷見せて話したけど、普通にドン引きしてたわ」 「そりゃあ、ね」  笑いながら言う仁科に、和都は少しばかり呆れる。  仁科は堂島に、一緒に飲んだ時に酔っ払ってやったことなので、きっと覚えていないんだろう、と念の為言っておいたらしい。  鬼として行動していた部分以外は、本人の意識で動いていたようなので、復帰してから大きな齟齬(そご)が起きる、ということはなさそうだ。  また仁科は、どのタイミングで鬼に憑かれたのか気になり、狛杜高校での勤務が決まった前後のことも話を聞いたらしい。 「こっちに赴任が決まって来る途中、神社跡地の、あの駐車場のところで休憩をとったらしくてな。その時に憑かれたんじゃねーかな」  狛杜高校へ車で向かう途中、山を超えた辺りで急激な眠気に襲われ、見えてきた駐車場のような場所に一時的に駐めて、仮眠をとった覚えがあるという。  その時にはすでに祠が壊れており、鬼はその辺りで『狛犬の目』に近づきやすい人間を待っていたのかもしれない。 「足を骨折してるから、もうしばらくは入院だろうな」 「……そう、ですか」  堂島を『鬼』から助け出すためとはいえ、和都はなんだか申し訳ない気持ちになった。  それを見た仁科が、そっと頭を撫でる。 「そんな顔しないの。骨折程度で済んで、よかったほうだよ」 「……うん」  下手をすれば、ハクに食べられて死んでしまっていた可能性もあると思えば、結果としてはいい方だ。  ふと時計を見ると、そろそろ一限目が始まる時間になっている。 「そろそろ、いかなきゃ」 「ああ、待て」  仁科に腕を掴まれそちらを見ると、少し屈んだ顔が近づいて、和都の小さな額に唇が触れた。 「……今日の分ね」 「はぁい」  バクが和都から離れる際、悪霊達の影響を受けないよう、少しずつ溜めていた霊力(チカラ)を使いきってしまったので、仁科から分けてもらう日課はまだしばらく続く。  ちょっとだけ照れながら笑って仁科のほうを見ると、ふいに顎を掴まれ、親指が唇をなぞった。 「こっちは今度、うちに来た時にね」 「……うん」  少しだけ顔を赤くして和都が答えると、仁科は眼鏡の奥の目を優しく細めて笑い、もう一度頭を撫でる。 「そうそう。放課後はポスターの貼り替えだからな」  相変わらず、保健委員としての仕事は多い。  卒業するまでの残り一年半ほどは、この先生の横でこき使われる日々になりそうだ。 「わかってまーす」  コーヒーに口をつけた仁科にそう返すと、保健室のドアを開ける。 「じゃあまた放課後にね、先生」  和都はそう言って保健室を出ると、教室に向かって足早に階段を駆け上がった。 〈了〉

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