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前編

 この気持ちに気づいたのがいつだったか……はっきりとは覚えていない。気づけば、女が男を、男が女を恋慕するような感情を、いつの間にかあいつに抱いていた。  相手は所謂幼馴染み。ただ、普通と呼ばれる恋愛と違って、互いが男という性別である、という片想いするには大層な障害がはだかっている。  どんなに理解ある社会になってきているとはいえ同じ男に対してこんな感情を持つことが普通とは違う事であることはわかっている。だがあいつのことを考えるだけで――まるで乙女のような表現だが――ドキドキと胸が高鳴り、時には頬を赤らめてしまう。  おはようと声を掛けられるだけで朝から気分が高揚し、何気なくポンポンと頭を撫でられるだけでジワリと涙が滲みそうになることもある。  感情が表に出にくい方だと本人も自覚しているが、傍に居る時は殊更態度に出ないよう気を張っている。  元から鉄火面と呼ばれるほど表情筋に乏しいらしい彼の顔は、思うほどあからさまな態度は出ていないのだが、そんなことにすら気付かないほど、彼――瀬戸虎太郎は、幼馴染みである倉掛麻人に恋をしていた……。  これが漫画や小説であれば長年片想いをし続けた少年は、ふとした事をきっかけに、同じように想い続けてくれていた幼馴染の気持ちを知りハッピーエンドを迎えるのであろう。しかしそれはやはり創作の中での出来事であって、現実に幼馴染みに恋をしたからといって、皆が皆、ハッピーエンドを迎えられるわけじゃない。  幼い頃からの互いを知っているからこそ、男女間ですら100%の確率とは言えないくらいには難しい事に思える。それなのに、男同士……普通に考えれば、友達だと思っていたのにそういう対象に見られていた、という点で嫌悪感を抱かれてもおかしくない。一般的に考えて、望みはないに等しいだろう。  しかしその性別に関しては、自分達の間では些細なことかも知れない。  じゃあ何故ハッピーエンドを迎えられるわけじゃないと断言できるのか。  性別の問題をクリアできればあとは自分の行動次第で想いを遂げることができそうなものだが、虎太郎の前には、それ以上に高い壁があった。   ◇ ◇ ◇  祖父譲りの胡桃色の髪が風に遊ばれ、サラサラと揺れる。黙っていれば可愛らしいと言われる顔も、十六ともなればその幼さに嫌気を覚えるが、焦ってもそう簡単に顔が変わることはない。  女子よりやや高めの身長は、男子としてはもの足りず、幼さを増す要素になってしまっている。いつかは伸びるだろうと願ってはみるが、背の低い父を見ると諦めるしかなかった。  黙っていればとあったが、別に虎太郎がお喋りというわけではない。どちらかと言えば物静かな方だろう。だが開く口から出る言葉は辛辣で、チクチクと棘を持ったものが多く、耐性のない人にとってはなかなか耐え難いところがあった。  それに対して、麻人は漆黒の髪で、コロコロとよく変わる表情と明るさを持ち、口調も柔らか。人当たりがいいのもあるが、まるで犬のように人懐っこい性格で気付けば自然と人を引き寄せている。  対照的で一見相容れる事すら難しそうに感じるが、そんな二人のバランスを上手く保ってくれたのが、例の壁となるものであった。 「誠司、今日もスゴかったよなぁ」 「そうだな」  黙々と本を読む虎太郎の前の席を陣取り、まるでそのときの光景を思い出すかのように遠くを見ながら麻人が話している。  虎太郎は大したリアクションを見せることなく、慣れた様子で淡々と相槌を打った。大して耳に入れているわけじゃない話にうつ相槌は当然適当なものだが、麻人は気にする様子もない。 「あんな難しい問題、スラスラ解くんだもんなぁ」 「そうだな」  それを分かっているからこそ、虎太郎は読んでいる本から目を逸らすことなく麻人が話し続ける誠司自慢をきいているのだが、知らず本を握る指先に力が入る。  相手が気にしてないのなら相槌をうつ必要もないように思うが、相槌をうっておかないと、後々面倒くさいのだ。話を聞いてないのではないかと麻人が話していた内容を復唱させられ――大体はその日誠司がしたことを適当に言えば当たるのだが――外れたときはまた一からその話を聞く嵌めになってしまう。  正直、好きな人の好きな人の話など、誰が聞きたいと思うか……。込み上げる嫉妬に何度涙を零しそうになったか…もう数える事すら面倒に思える。  そう――虎太郎の前にある性別よりも高い壁……それがもう一人の幼馴染みである新垣誠司の存在だった。 「頭が良くて優しくて……クラス委員長まで任される誠司って、やっぱりカッコいいよなぁ」  虎太郎と出会う前からの仲である誠司に対して、麻人は盲目的な好意を示していた。  小学四年生の時、それまで通っていた学校から転校することになったのだが、転校先は文武両道で有名な進学校・香桜学園の初等部。そこで初めて虎太郎は二人に出会ったのだ。  初めてあったときから高等部になった今でも、麻人の誠司自慢は変わっていない。初めて交わした言葉も今と変わらない誠司自慢だったのを虎太郎ははっきりと覚えている。 『俺、倉掛麻人!こっちは新垣誠司!カッコいいだろ!』  正直このとき虎太郎は麻人のこの発言に、どこかネジが飛んでんるんじゃないかと思った。  だがそんな麻人を誠司もまた甲斐甲斐しく世話し、甘やかしている。この二人はお互い様なのだ。今思えば、この時から既に麻人のベクトルは誠司へと向いていた。  それをわかっていながら、どうして麻人に惚れてしまったのか……不毛というか自虐的というか……。  懐かしさと拭いきれない哀れさに思わず自嘲の笑みが漏れた。 「…………タ………コタ……虎太郎!」  ハッと顔を上げる。眼前には眉根を寄せ、怒ったような顔の麻人。  ――しまった、つい物思い耽ってしまっていた。  読んでいた本も頭に入っていないどころか、一ページも進んでいない。何行目かまで目を通した記憶はあるが、それすら曖昧だ。  麻人の表情に焦りを覚え、慌てて麻人の話の断片だけでも思い出そうとするが、それは極めて困難なことだった。元より殆ど話を聞いていないのだ、思い出せるはずがない。 「あ、…えっと……何だっけ?」  虎太郎は早々に諦め、素直に訊ねた。  それで麻人があっさり流してくれるとは思わなかったが、ここはもう観念して、もう一度話を聞くしかない。  平素であれば適当に誠司の行動を口にして逃げるのに、今日に限って頭の回転が鈍く、何も思い浮かばないのだ。何だよもう!と怒る麻人が脳裏にありありと浮かぶ。 「……具合、悪いのか?」  だが返ってきた反応は、虎太郎の予想に反したものだった。反するというよりも、全く予想しておらず、脳が理解するのに時間を要した。 「コタ?」  首を傾げる麻人の手がチラチラと虎太郎の目の前を行き来する。 「おーい?」  呼んでいるのはわかっているが、麻人が大切な誠司の話より自分を気遣ってくれたことが信じられず……それでもそんな麻人の言葉を嬉しく感じる自分もいて、麻人にとっては何気ない一言だろうが、麻人がどれ程誠司を好きか知ってる虎太郎にとっては、喜ばずにいられなかった。  勿論、その全てが顔に出る訳じゃない……が、驚きは隠せない。大仰に驚いて見せることはないが、それでも珍しく見開いた目が驚きを表している。それが麻人を心配させている一因になっているのでは、とも思うが、それに気付くよりもやはり、麻人の言動に気がいってしまう。 「大丈夫?」  些細なことが嬉しくて、反面、心のどこかで必ずと言っていいほど誠司と比べてしまう自分が嫌だった。  どう足掻いても、誠司には勝てない。出会ったとき、既にそれは確定していた。  家が向かい同士の二人は、それこそ物心ついたときには一緒だったのだ。それに比べ、自分はたった六~七年。年月の差じゃないと思いたくても、埋めることのない差が確実にそこにはあった。  現にそれは麻人の誠司に対する感情にはっきりと表れていて、近くで過ごした年数の分だけ、それを感じ続けていたのだ。  麻人の気持ちは理解しているが、それでも自分の感情と折り合いをつけるのは難しく、日増しに苛つく感情が強くなっていく。もしかすると、そんな感情を抑えるために無関心を装っているのかもしれない…そう思ってしまうほどだった。 「……大丈夫」  なんとかそれだけ答えると、虎太郎は手にしていた本を閉じ、鞄へと仕舞い込んだ。 「ごめん、今日……早く帰るように言われてたんだった」  言いながら席を立つ。  本当はそんなこと言われていないが、このままこの場にいることがなんだか辛くて、鞄を肩に掛けると、足早に教室の出入り口へと向かった。  とてもじゃないが、真っ直ぐ麻人の顔を見ることが出来ない。  麻人はただ純粋に誠司を好きなだけだ。自分と同じ好きだという感情が、ただ自分じゃない違う人に向いているだけだ。それは何ら悪いことではないし、虎太郎が責める理由も権利もない。  わかっていても、胸の苦しみが取れることはなかった。胸が痛くて、痛くて…苦しい。向き合って笑う二人に何度胸を締め付けられたか、麻人の嬉しそうな笑顔に何度嫉妬を覚えたか…。  もう嫌というほど心臓が高鳴ったり、締め付けられたり、傷めたりを繰り返してきた。だから何度も何度も、自分に言い聞かせる。  麻人は誠司が好きなんだ、と。これ以上傷つくな、と――。  振り返ることなく教室を後にし、静かな廊下で蹲った。  グッと胸元を握り締めればクシャリと制服が皺を作る。掴めない筈のその奥が、同じようにクシャリと締め付けられたように痛みを訴えていた。   ◇ ◇ ◇  昨日のことなど特に気にしていないのか、麻人はいつもとわからない声音で「おはよう」と言ってきた。麻人なりに気を使っているのか、気にも留めていないか……恐らく後者だろう。  本当は、ほんの僅かでも気にしてくれているかも……なんて、思ったりもしたが、そんな期待をする方がおかしかった。どんなに同じ幼馴染でも、麻人が誠司以上に自分を見てくれることなんてない。心配してくれることなんてない――。  ただ、それを思い知らされただけだった。  わかっていたこととは言え、いつも以上にテンションが上がらない。元々そうお喋りな方ではないが、いつにも増して喋る気にもなれない。  だから正直、今日は誠司を待たず、一人先に帰ってしまおうかとも思っていた。今は麻人の口から誠司の話を聞きたくなかった。だが、麻人と二人っきりの時間を過ごしたいのも本音で……その口から語られるのが誠司のことだとしても、誠司の知らない麻人を知る時間を手放す強さは持てなかった。 「じゃあ、日誌出してくるから」 「いってらっしゃーい」  職員室へ向かう誠司を、ブンブンと手を振り麻人が見送っている。  そんな毎日行われる放課後の風景を、横目でチラリと見遣り、誠司が、戻ってくるまでの約十分間の時間を潰すため、鞄から本を取り出す。パラパラと捲ると、ふと影が射す。  ああ、麻人か。  思いながらも視線を上げることなく、読みかけのページを探した。昨日慌てて本を閉じた所為で、しおり挟むのを忘れてしまっていた。  ある程度目星をつけ、そこから少しずつページを捲っていく。この辺りか、と目で文字を追い始めるが、さっきから本に掛かる影が動いていない。それに違和感を覚え耳を澄ませたが、聞き慣れた声も聞こえてこなかった。そこに来てやっと虎太郎は視線を上げる。  平素であれば前の席を我が物顔で陣取り、聞いてもいない話をし始める麻人だったが、何故か立ったまま、ジッと虎太郎を見ていた。  一体どうしたというのか。  いつも愛想のいい笑みを浮かべている麻人が、小さく眉間に皺を寄せ、その口をムッと噤んでいる。  やはり、昨日のことを何かしらおかしいと感じていたのだろうか。  それとも、素っ気無い態度に腹を立てているのだろうか。  そんな奴じゃないとわかっていても、今まであまり感じたことのない雰囲気に要らぬ不安が増していく。 「――ねぇ、コタ」  思いの外真剣な声音に、一体自分が何をしたのか、その答えを模索する。朝は普通に接してくれていた。となると、その後に問題があったと考えるのが自然だろう…。  口数は少なかったかもしれないが、それ以外はいつもと大して変わらなかったはずだ。誠司の話を適当に聞いていたことなど、今更でしかない。  ――好きだ、とバレてしまったのだろうか?  いや、そんなことあり得ない。口に出すどころか、態度にも出していない……はず。  どうして麻人がこんな表情をするのか、虎太郎には全く見当がつかなかった。  小四からの付き合いだが、こんな表情をした麻人は見たことがない。いや――昔こんな表情を見たことが……だが、それがいつかは思い出せない。もしかしたら、自分の思い違いの可能性だってある。 「……何?」  暫くの逡巡後、虎太郎は窺うようにそう口にした。理由がわからないのだから仕方がない。 「……誠司が、好き?」  思わず思考が止まった。  “誠司”と“好き”。  どちらも聞き慣れた単語のはずなのに、その単語の繋がりと疑問符が違和感を覚えさせる。どう思うかであれば、すぐにでも答えられたかもしれない。だが――好き?  その問いに至った経緯が全く理解できず、虎太郎は考え込むように俯いた。今までだって一度たりとも誠司を好きだ、と口にしたことはないし、幼馴染みとしての感情以上に好きだと思ったこともない。一体どこでそんな勘違いをしてきたのか……。 「麻人、俺は…」  はっきり否定しようと上げた虎太郎の顔が瞬く間に赤く染まり、続く言葉を飲み込む。  驚いたのもあるし、その驚きの後で胸中にジワジワとしたものが広がっていくのを感じたからだ。  上げた顔の先――それこそ眼前に、見惚れる麻人の顔があった。  殊の外、近くにある麻人の顔。僅かに動いただけで、その鼻先へついてしまいそうなほどの距離に、息すら飲み込んでしまう。  言葉など継げるはずがなかった。  まじまじと見つめる麻人の目。いつも誠司ばかり見ている目が、今は自分に向けられている……。そう思うと、更に顔の熱が上がった。  眉根を寄せ、麻人の顔が引いていく。  身を起こした麻人をどうしたのかと窺い見るが、その面持ちは不機嫌そのもので、何を聞いていいのかさえわからなくなる。 「……には…渡さない」  僅かに麻人の唇が動き、小さな声で呟いた。だがあまりに小さな呟きは虎太郎の耳には全て届かず、途切れた単語だけが僅かに聞こえた。  同時に麻人は踵を返し、無言のまま教室を後にする。虎太郎は、その姿をただ呆然と見つめていた。 「渡さない、って……」  解するように麻人の言葉を口にする。だが口に出したところでその意味がわからない。  どうして麻人は、あんなにも思い詰めた顔をしていたのか。どうしてあんなことを聞いてきたのか……。  ふと思い出す。  そういえば麻人に、誠司が好きか訊かれていたのだ。それに対して虎太郎は答えを返しそびれていて――。  もしかすると…。  思い当たった考えにまさかと首を振るも、否定することもできない。 「俺には…渡さない?」  もし先刻のやりとりで、虎太郎は誠司が好き、と麻人が勘違いしてしまったのなら、渡さないと言われた意味も理解できる。でも、誠司を好きになるなんて、ありえない。  口が良いとも言えず、人付き合いも苦手で…そんな自分に何の隔たりもなく接してくれたことは嬉しかったし、好きじゃなきゃ今でも一緒にいたりしない。  けど……それでも……麻人に対するそれとは意味が違う。  私立の、ましてやお坊っちゃまばかりのこの学校に初等部の途中から編入しがためか、正直、親のコネで入ったのだと噂し、よく思わない輩も多かった。  転校初日、口下手で無愛想だった自分を良く思わなかったのだろう。クラスメートに呼び出され、それこそ古典的にも屋上で数人に囲まれていた時だった。ああだこうだと気に食わない言い分を次から次へと口にしてくる連中に、呆れ半分といった態度でバカバカしいと声にしてしまった瞬間、キレたクラスメートの一人に殴られそうになったところを助けてくれたのが麻人達だった。あの時麻人が声をかけてくれなかったら、確実に殴られていただろう。  それ以来、何だかんだと話しかけてくる麻人と仲良くなっていったのだが、仲良くなって親切で頼りがいのある存在だと思ったのは本当に最初だけで、距離が縮まってからは頼れる存在とはとても言い難く、何かしては誠司が世話を焼く始末。誠司の方が断然頼れる存在だった。  それでも、麻人を好きになった。  強気かと思えばすぐに甘え、泣いたかと思えば次の瞬間には笑っている。子どもっぽいのに急に大人びた表情を見せて……いつの間にか、目が離せなくなった。まるで弟みたいな感覚で、庇護欲を掻き立てられた。  第二次性徴を迎える頃にはそれが違う感情だと気づいたが、それと同時に麻人の感情にも気づいてしまった。麻人の目が追う先に必ずいる人物。麻人を好きだと気づいたときには、失恋してしまっていたのだ。麻人は昔から誠司のことを好きで、今でも変わらず誠司を……わかっていることなのに、ズキリと胸が痛い。  麻人の言葉一つ、態度一つでこんなに胸が痛くなるのに、誠司を好きになるなんて……。 「好きなわけ……ないだろ…」 「何が?」  急に声がかかり、ビクリと虎太郎の肩が揺れる。声がした方へと視線を動かせば、そこには先刻麻人との話で中心となっていた人物。  考えが口に出てしまっていたのだろう。誠司が首を傾げながら歩み寄ってくる。 「どうかした?」  その羨ましいほどの長身は麻人とあまり差がないように見えるが、二人が並ぶと若干誠司の方が高い。髪色も生まれたままの黒さだが、誠司の方が濡羽のような色をしている。  身長も髪色も似ている二人と一緒にいれば、必然と自分の小ささや髪色が目立ってしまう。  目立つことは何よりも嫌いだった。幼い頃からそう育てられたのだから仕方ないが、それでも一緒にいられるならいいと思った。もう思いを告げることができないのならば、せめて傍に……。 「虎太郎?」  近くまで来た誠司が再び首を傾げる。  名前を呼ばれ、虎太郎は目を瞬かせた。 「何でも、ない」  それだけ答えたが、誠司はどことなく納得がいかない表情をしている。 「ふーん……麻人は?」  納得いかなくても、根掘り葉掘り訊いてこないのが誠司らしいと思いながら、虎太郎はそんな誠司の寛容さを羨ましく思った。自分も誠司のように心が広かったなら、少しくらい麻人の気持ちを動かすことができただろうか?  また女々しいことを考えてしまった。  虎太郎は考えを打ち消すようにぶんぶんと首を振った。そして誠司に視線を返し、答えようと口を開く……が、何と答えればいいのか、言葉に詰まる。 「麻人は……」 「麻人は?」 「多分……帰った」  そんな曖昧な答えしか返せなかった。実際、いつも机の脇に掛けてある麻人の鞄がない。話の途中で取ったのか教室を出る直前に取ったのかはわからないが、ない、ということは、戻ってくるつもりはないという意思表示だろう。 「ふーん……」  またしても先刻と同じような表情を見せる誠司に、やっぱりこんな説明じゃ納得できないか、と虎太郎は嘆息をついた。だが他に説明のしようもないことも確かで、あと言えるとすれば、麻人が教室を出ていくに至った経緯くらいだ。  しかし内容が内容なだけに、それを当人に話すのは流石に憚れる。 「……帰るか」  どう説明すればいいものかと思索していると、誠司が眼前まで鞄を上げ、帰ろう、と促してきた。きっと言いづらいことがあるのだと察してくれたのだろう。  こうやって無理矢理聞き出そうとしない誠司の態度には、本当に感謝したくなる。これが麻人なら一から十…それこそ根掘り葉掘り聞いてきただろう。 「どうかしたのか?」 「いや…何でもない」  本当に、どうして麻人に惚れてしまったのか……思わず苦笑が漏れていた。   ◇ ◇ ◇  校舎を出る際、靴箱を覗いてみたが、麻人の靴はすでになかった。やっぱり先に帰ってしまったようだ。 「全くあいつは……先に帰るなら一言言って帰るべきだろ」  誠司がブツブツと文句を言い始める。いつもなら虎太郎も、全くだ、と同意するが、何となく理由がわかるせいで、あまり強く言えずにいた。  誠司の愚痴を聞きつつ、門へと足を進めていく。  校舎から正門までの数百メートル。麻人と一緒に帰ることができる、このたった数百メートルが、虎太郎にとっては楽しくて、それと同時に寂しかった。たったそれだけの距離しか共有することができないのだ。  友達なら、遊んだりして一緒に過ごす時間はいくらでもできそうなものだが、虎太郎には、そんな子どもとしての時間さえ満足に持つことができなかった。  虎太郎の家は江戸時代には家老として武家に仕え、今でも地元では有名な旧家。昔から格式を重んじ、世間体を気にする両親に育てられ、勉学だけでなく日常生活でも模範的でなくてはいけなかったのだ。  門のところに着くと、いつものように、じゃあな、と誠司が手を振り、虎太郎も軽く手を上げながらそれに答える。  虎太郎はいつもここで、反対方向へと帰っていく二人を見送っていた。少しずつ遠くなる後ろ姿に、どうして自分だけ…なんてことは今更思わないが、やっぱりこの瞬間は物悲しい気持ちになる。  もっと麻人と同じ時間を過ごしたい――。  そう思ってしまうのだ。  だから今日は、誠司だけでよかった、と内心安堵の息を吐く。毎日のこととはいえ、やっぱり、仲良く話す二人の後ろ姿を見送るのは辛かった。  誠司と別れ、一人歩く帰り道。慣れた帰路も、何だか今日は気鬱なままで、視線は自然と下を向いてしまう。一人だから余計にいろんなことを考えてしまうのかもしれない。  意図せず、好きな人からライバル視されてしまったら一体どうすればいいのか……。  一人で考えても答えが出ないのに、相談するにも、一人はその好きな相手で、もう一人はライバル視される元凶となった相手。今になって交遊関係の狭さを恨みたくなる。せめてクラスメートくらい普通に話せるようになっていれば……今までどれだけ二人に依存していたか思い知らされた気分だった。 「グスッ……どうしても、ダメかな?」  ふと耳に届いた、啜り泣きながらも、すがるような声。視線を上げれば、そこはもう自宅まで程近い公園だった。  公園では先程の声の主だろうと思われる女の子。彼女が着ている紺のブレザーに赤いチェック柄のフレアスカートは虎太郎が通う高校のもので、胸元に校章入りのマークが縫い付けてある。  肩下程の長さがある髪が俯く彼女の顔を隠し、その表情を伺い知ることはできない。  向かい合うように立つ男の方も紺のブレザーに青みを帯びたチェックのズボンを着用していて、同じ高校だと知れる。しかし、背を向けているせいで顔を見ることはできないが、恐らく自分の知る人間ではないだろうと虎太郎は思った。  背は自分より少し高いくらいだろうか。髪は染めているようで、日に照らされ、ココアブラウンのような色をしている。  虎太郎が通う普通科には、決していない風体だ。ここまで自由な身なりをできるとすれば、香桜学園内でも校則に放漫な先生が多いスポーツ科くらいだろう。 「ごめん…好きなひとがいるんだ」  男が申し訳なさそうな声で謝っている。 「そっか……こっちこそ、ごめんね……ありがと」  人気の少ない公園に複雑な雰囲気を醸し出す二人。二人の台詞からも、今まさに目の前の情景が、告白し、そしてフラれたのだと知ることができる。  女の子は俯いたまま小さく頭を下げると、公園の奥へと走っていった。  確かこの公園には、虎太郎が佇んでいる所と反対側にもう一つ出入り口があった気がする。きっとそこへ行ったのだろう。親しい友人が待ってくれているのか、それとも一人肩を落とし、腫らした目を隠しながら帰るのか…まぁ、女子であれば前者の可能性が高いだろうか。  そんなことを思いながら虎太郎は、残された男をジッと見ていた。  腰より下で履かれたズボン。ブレザーの裾からはみ出して見えるシャツに無造作に捲し上げられた袖。教科書が入っているのか疑わしい程ペチャンコな鞄。一見軽薄そうにしか見えないのに、先刻のやり取りを見ている限りではそうではないらしい。  別に自分に関係のない事なのだからさっさと帰ればいいものを、意外にも真摯な態度につい見入ってしまった。  一人公園に取り残された男は、ポリポリと頭を掻きながら振り返った。  しまった、と思ったときにはすでに遅く、公園の出入り口という目立つ場所に、無防備な程呆然と立ち尽くしていた虎太郎は、予期せず合ってしまった視線に焦りを覚える。しかし、振り向いた男の顔はどこか見覚えがあり、僅かな狼狽の後、その大きな瞳を更に大きく見開いた。その驚きは相手も同じだったようで、同じように目を見開いている。  派手な外見に劣らない顔の作り。カッコいいというよりは、可愛いという表現が合うかも知れないが、だからといって女の子っぽいわけでは決してない。昔に比べ、やはり幾分か大人びた顔立ちになっている。 「りょ、う…?」  思わず懐かしい名前が口から零れた。  告白されていた男は、虎太郎が幼少の頃親しくしていた登川亮だった。 「虎太郎……?本当に、虎太郎!?」  亮もはっきり虎太郎のことを覚えていたようで、嬉しそうに名前を呼ぶ。 「亮…久しぶり!何年振りだっけ?」 「虎太郎が転校する前だから、七年くらい?」  懐かしさのあまり、虎太郎は高揚を抑えることも忘れ、笑みを零した。  虎太郎が亮と初めて会ったのは、何歳だっただろうか。思い出すことも困難なほど幼い頃で、その頃の虎太郎は、毎日のように病院と家の往復だった。  入院、若しくは通院を繰り返す毎日。そして、病弱な自分に愛想を尽かした両親……。それは病気以上に、虎太郎の気持ちを弱らせた。そんな中でも挫けず治療を続けられたのは、亮の存在があったからだろう。 「亮も香桜だよな?スポーツ科?」 「ああ!中学入る前から医者の薦めで走り始めてさ、中学で本格的に陸上始めたんだ!今じゃ健康そのもの」 「そっか…よかったな!」  嬉しそうに笑う亮の顔が昔と何一つ変わらず、虎太郎もつられるようにニッコリと笑った。  虎太郎と同じように入退院を繰り返し、病院に行けば必ずと言っていいほど亮がいた。  孤独で辛い治療の日々も、似た境遇の亮がいたから乗り越えられたのだと思う。弱音を吐き、励まし合い…この笑顔が、いつも虎太郎の救いだった。  そんな笑顔にまたこうして出会えたことを、嬉しく思わないはずがない。また昔のように、笑い合い励まし合うことができると思うと、素直に嬉しかった。 「そういえば、さっきの女の子…」 「あー……うん」  先刻のことを口にすれば、亮は気まずそうに眉を下げ、歯切れ悪く答える。 「顔が良くて運動できたら、モテないはずないよな」  感心するように虎太郎が言うと、亮は複雑そうな表情でポリポリと頭を掻いた。 「まぁ、嬉しいけどね。やっぱ男として生まれたからにはモテた方がいいよな」  虎太郎は軽く首を傾げた。現在進行形でモテているのに、歯切れの悪い物言いはどこか引っかかってしまう。何か触れられたくない事でもあるのだろうか。そう考えると先刻の自分とどこか重なり、疑問を安易に口にすることは憚れる。 「ふーん…モテるコツは?」  敢えて興味薄く反応を返しつつも、何気ない、けれど急に逸れない程度の話題へと転換した。男子高校生であれば、こんな会話は日常茶飯事的にあっているだろう。 「ふっ…野暮なことを……男ならテクニックで勝負だ!」  チッチッチッ…と小さく指を振った後、自信満々に亮は言い放った。先刻とは違い生き生きとした反応を見せている。 「ふっ…何だそれ」  変わらない亮の言動に思わず笑みが漏れ、そういえば昔も、無意味なほど大袈裟な動作を繰り返しては笑わせてくれた、と懐かしくなる。 「虎太郎は…好きな人、いる?」 「……まぁ…うん」  唐突な亮の問いに戸惑いつつも、虎太郎は小さく頷いた。  ずっと……初めて会った日からずっと一緒にいた麻人の顔が脳裏に浮かび、頬が熱くなるが、今日のやり取りを思い出すと、一気に気分が沈んでいく。  確かに麻人を好きだが、それが叶わない想いだと知っているから余計に虚しくなる。 「マジ!?誰?誰?同じ学校?」  一瞬驚きの色を見せた亮だったが、すぐさま興味津々とばかりに矢継ぎ早に訊いてきたため、虎太郎は苦笑を漏らすしかなかった。  確かに同じ学校だが、相手は男だ。声を大にして言えることではない。 「亮はどうなんだよ」  何とか質問攻めから逃れようと同じ質問を亮に返す。すると、何故か亮の顔は真っ赤に染まり、先刻まで楽しそうに問い質そうとしていた表情とは一変した。 「な、いや、俺は……」  しどろもどろになり、全く話が進まない。  亮の顔を見れば好きな人がいることくらい一目瞭然で、さっき女の子をふっていたのだから、訊かずともわかっていたが、虎太郎は何とか話を逸らせたかった。まさかこんな反応が返ってくるとは思っていなかったが……。 「俺は、ずっと…」  亮は言葉を飲み込み、真摯な眼差しでジッと見つめてくる。それが何を意味するのか虎太郎には解りかねたが、きっと軽い気持ちで揶揄されたくないほど真剣な想いなんだろう。 「虎太郎、っ!?」  亮の言葉を遮るように、突然辺りに聞き慣れたメロディが聴こえた。ふと公園内にある大柱の時計に目をやれば、針が五時を指しており、そこからそれを知らせるメロディが流れていた。いつも帰宅すると聴こえてくる曲だ。  瞬間虎太郎は、しまった、と焦りを覚える。  いつも家に帰っている時間に帰り着いていないのだから、あの両親が黙っているはずがない。急いで帰らなければ――。 「ごめん、亮!俺急いで帰らなきゃ!」  こんな年になっても寄り道すら儘ならない。良い子の仮面を被って、ただひたすら両親が望むままに……。あんな家でなければもっと普通に、学生らしく下校時間を過ごしたり、寄り道したり、麻人達とも、もっともっと一緒に過ごす時間が出来たのに…。  共に過ごす事の出来なかった、過ぎた時間が悲しくなる。 「虎太郎?」 「ごめん!また学校で!」  訝しむ亮をそのままに、虎太郎は帰路を急いだ。と言っても、自宅まで五分もかからないのだが。  自宅に着くと、その重厚で厳格な作りの大きな門の前で大きく息を吐く。  数百年生きた桜の大木で作られているという門扉は、虎太郎が生まれるずっと昔からこの家を守っている。この門を見る度に、虎太郎は瀬戸家の重み――というものを感じていた。別に好きでこの家に生まれたわけじゃない…幼少の頃から、羨ましいと言われる度にずっとそう思っていた。  大きな門扉の隣に設けられた小さな門扉。家政婦の弥恵がよく使っているが、大きな門扉が閉じているときは虎太郎も使っていた。自分のために態々開けてくれる人もいないし、一人で開けるのもこれだけ大きければ結構な力がいる。  今日も閉ざされている門扉を見て、その小さな門扉から中へと入った。  長い石畳を辿れば、玄関へと続いている。引き戸を開けばガラッと音が立ち、目につくのは広々とした土間と一本木で作られた框。本家だからだろうとは思うが、無駄に広い。その無駄に広い玄関で靴を脱ぎ、上がろうとしたところで奥から弥恵が顔を出した。 「お帰りなさいませ、虎太郎坊っちゃま。今日はいつもより遅うございましたね」  床に膝をつき、姿勢よく出迎えてくれる。だがその言葉は、いつもより帰りが遅くなったことを気にしているようで、言外に咎めているのだ。 「だだいま。公園で友達に会って……兄さんは?」 「総太郎様はもうお戻りになり、家庭教師の先生とお勉強なさっています」  益々、しまった、という思いに駆られる。両親に知られれば間違いなく出来の違いを比較されるだろう。 「わかった」  遅くなってしまった自分が悪いのはわかっているが、気が重くなるのはどうしようもなかった。  虎太郎の家族は両親と兄の他、父方の祖父母がいる。そして数人の家政婦。瀬戸家の次男として生まれたのだが、すでに跡継ぎとして長男がおり、生まれた頃から病弱だった虎太郎は、すぐに跡取りとしては見放されてしまった。  とくに父方の祖母は身体の弱い虎太郎を疎ましく感じていたようで、同じ家に住んでいるのに、幼い頃はほとんど会った記憶がない。  勉強も運動も出来、健康的にスクスクと育った兄。そんな兄に追い付けば、少しは家族の見る目が変わるかと努力した頃もあった。ひたすら勉強して、学年一位を取って……両親が褒めてくれると期待して帰った日、そんな努力は無駄でしかないと知った。  淡い……というよりも、僅かでも期待を持つこと自体が間違いだった。 「勉強でこんな成績を取るなんて……総太郎さんから跡取りの座を奪おうとでも思ってるの?そこまでして、当主になりたいの?」 「お母さん…?」 「何があっても、認めるわけにはいきませんから!」  どんなに努力しても認められることはない。  褒めてもらえることも愛されることもない。  ただ目立たないよう、それでも世間的に恥じぬよう、ただ模範的であり続けることが自分に望まれる全てだった――。

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