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第45話
城に戻るまでに、やる事は色々ある。
仮の身分で手掛けている、化粧品関連の事業拡大で増設した工場の視察。
事業の主体は信頼の置ける人間に譲ったとはいえ、引継ぎや工場からの経過報告。次々と机に積まれる書類の山を片付け終わった頃には、窓から西日が射し込んでいた。
──頑張ったご褒美に下町に行きたい。
ダメ元でライノアに嘆願すると、意外にもあっさりと許可がでた。
「え、いいの!?本当に??頭打った??」
「行きたくないなら別に構いませんけど」
「ごめん嘘嘘行く行く!!」
落ち着きのない子供みたいなアルフォルトに苦笑いし、ライノアはお忍び用の衣類を準備し始めた。
「アラン様が『ここで飴を与えとかなければアルフォルトはあとで暴走する』と仰ってたので」
アルフォルトを手際よく着替えさせ、髪をセットしながらライノアはぼやいた。
(お爺様、よくわかっていらっしゃる······)
全くもってその通りなので、アルフォルトは頬をかいた。
ダメ、と言われたらこっそり抜け出そうかと考えていたのは、どうやらお見通しらしい。
昔から一人でこっそり城下を散策しては宰相にバレて大目玉をくらい、謹慎。そして脱走、というのを繰り返し過ぎて、いつからかライノアが同行するようになった。
(正直、城下の方が身の危険がないんだよね)
城下にいる間は、野暮ったい髪型にこれまた野暮ったい眼鏡をかけてモブに徹しているので、誰もアルフォルトが王子だと気づかない。
王族特有の金髪ではなく地毛の黒髪だと、せいぜい身なりの良い商家の子息と思われているのだろう。たまに絡まれたり不躾に見られたりするが、城で受ける悪意に比べれば、気にもならない。
危ない裏通りには近づかないし、治安の良い所だけ散策する分には、城の中よりも居心地が良かった。
普段は丁寧にセットされている前髪をあえて目を覆うように前に垂らし、レンズの分厚い眼鏡をかければ、地味などこにでもいる青年、という出で立ちになる。
「さぁ、準備もできましたし行きましょうか」
同じく着替え終えたライノアに手を引かれ、アルフォルトは立ち上がる。
「いつものパブに行こうよ。きっとマリクがいるはずだし、何より肉が食べたい」
軽い足取りで廊下を歩くアルフォルトに、ライノアは肩を竦めた。
「野菜もちゃんと食べて下さいね」
「わかってるよ」
普段より少しテンションが高いアルフォルトに、ライノアは「はしゃぎすぎないように」と呆れる。しかし、わかりづらいがライノアもどことなく楽しそうで、アルフォルトはホッとした。
(だって、浮かれたフリでもしないと気まずくてライノアを直視できない······)
空元気、とでも言おうか。
朝のアレコレがあって。
おまけに以前にもライノアにして貰った事まで芋づる式に思い出して。都合よく忘れていた事を咎めもせずにまた手伝ってくれて。
アルフォルトは憤死してしまいそうなくらい恥ずかしくて堪らないのに、シャワーを浴び終えて恐る恐るライノアと対面したら、澄ました顔の、いつも通りのライノアだった。
(大人の余裕ってやつですか。一応僕も大人なんだけどな)
そもそも、性的な物を避けてきたアルフォルトからしたら、全てが未知の体験で心が上手く追いつかない。
(ライノアはなんか手馴れてるし)
そこまで思って、ふと胸がチクリと傷んだ。
もしかしたら、今までにもこうやって誰かに触れたのかと考える。自分以外に優しく触れるライノアを見たくない、と心の奥にドロドロとした感情が溢れる。
前にも同じような感情を覚えた事を思い出した。確かあれは、ライノアに結婚したい人はいないか、と聞いた時だったか。
「ルト?どうしましたか?」
考え込んで急に大人しくなったアルフォルトを不思議に思ったのか、ライノアが顔を覗き込んでくる。
蒼い双眸と視線がかち合い、アルフォルトの心臓はどうしようも無く早鐘を打つ。
「な、なんでもない。早く行こう」
いたたまれなさに視線を逸らしたのは今日何度目か。
アルフォルトは足速に廊下を進んだ。
♢♢♢
「元気にしてたか?お二人さん」
久しぶりにパブに顔を出すと、やはりマリクはいつものテーブルでゴシップ誌──マリク曰く新聞──を読んでいた。
王子という身分上、いつでも城下に来れる訳では無いが、久しぶりに会う友人は相変わらずで、アルフォルトは顔を綻ばせた。
「久しぶり、マリク」
アルフォルトとライノアが向かいの席に座ると、すかさず料理を注文してくれる。
毎日ではないが、マリクは夕方以降は大体パブにいると聞いてからは、都合が合えば城下に来る時はパブに顔を出すようにしていた。
同年代の友達が殆どいないアルフォルトにとって、マリクは身分関係なく親しくしている貴重な存在だった。
たわいも無い話に花を咲かせていると、程なくして料理が運ばれてくる。
程よく焦げ目の付いたグリルチキンに手を伸ばそうとすると、すかさずライノアがサラダを押し付けて来た。
無言で睨んでは見るものの、根負けしてアルフォルトが渋々サラダを咀嚼し始めるのを、マリクは「相変わらずだ」とケラケラ笑った。
普段無表情なライノアも、マリクと話す時は少しだけ表情がわかりやすい。ライノアにとってもマリクは身分が関係無い友人なのだと思うと、なんとなくこそばゆいような、不思議な気持ちになる。
できれば、これからもずっと三人で仲良くご飯を食べたいと、心の底から思った。
料理を殆ど食べ終えた頃、パブの外が何やら騒がしくなった。
どうやら酔っ払いが店の外で喧嘩しているらしい。
パブではよくある光景だが、普段よりも酷く暴れているようで怒号や何かがぶつかる音はどんどん酷くなる。
日常茶飯事とはいえ、店を壊されたらたまったもんじゃない、と店主が助けを求めてこちらに視線を寄越した。
ライノアはため息を吐くと、アルフォルトの頭を撫でて立ち上がる。
パブに出入りし始めた頃、アルフォルトに被害が及ぶといけないと、喧嘩の仲裁をした事がキッカケで、手に負えない時はライノアに協力を求めるようになってしまった。
素人の喧嘩の仲裁など、戦闘に慣れたライノアには朝飯前だ。前にアルフォルトも参戦しようとしたら、物凄い剣幕で怒られたので今は見るだけにしている。
「ルトはここで待っていて下さい。絶対に外に出ないように」
「わかってるよ」
手をヒラヒラ降ると、ライノアは喧嘩の仲裁をしに店の外へと向かった。
ライノアがいなくなったのを好機とみなし、アルフォルトは意を決して口を開いた。
「ねぇ、聞きたい事があるんだけど」
「なんだ、改まって」
エールを飲みながら、マリクはアルフォルトを見つめた。
「······マリクって、その、自慰をした事ある?」
途端、マリクは飲みかけのエールを盛大に口から吹き出し、アルフォルトは思わず悲鳴をあげた。
「びっくりしたー······大丈夫?」
すかさずアルフォルトは布巾を手渡す。
「ごほっ······『大丈夫?』じゃねーわ!!こっちがびっくりだわ!!」
マリクは受け取った布巾でエール塗 れの口元を拭い「てかこれ、さっきテーブル拭いたやつじゃねーか!!」と布巾をテーブルに叩き付けた。
「ご、ごめん。そこまで動揺すると思わなくて」
オロオロと狼狽えるアルフォルトに、マリクは頭をかいて視線をさ迷わせた。
「いや······なんつーか、まさかルトの口からそんな卑猥な単語が出ると思わなくて」
苦笑いするマリクに、アルフォルトは頬を染めて俯いた。
「卑猥って······。僕、こういう話を聞ける同世代の友達がマリクしかいないから······不快にさせたならごめんなさい」
頭を下げたアルフォルトに、今度はマリクが狼狽えた。
「不快とかじゃなくて。なんていうか······ルトでもそうゆーの気になるんだって、ちょっと意外だった。ホラ、お前ってこのパブでは天使扱いだから」
「天使······」
周りから自分はどう思われているのだろう、とアルフォルトはなんともいたたまれなくなる。
「ルトがいる時は極力下ネタ禁止ってのが店の常連の不文律なんだぜ。知らなかったろ」
苦笑いするマリクに、アルフォルトは頬を膨らませた。
「僕、ここではいくつだと思われてるの······ちゃんと成人してるからエールも飲めるし、なんならお酒強いよ?」
「多分十三、四歳ぐらいだと思ってるよ、ここの連中は」
道理で子供扱いされる訳だ。聞かなきゃ良かった、と項垂れるアルフォルトに、マリクは顔を寄せて小声で答えた。
「さっきの質問だけどな、俺も健全な男子だから普通にするぜ?花屋のリリィちゃん可愛いな、とか煙草屋のお姉さん胸でかいな、とかまぁ、ムラムラする訳よ」
「あ、リリィちゃんには内緒な?」とマリクは悪戯に笑った。思ったよりも人物が具合的で、アルフォルトは苦笑いして頷いた。
「じゃあ、手伝って貰った事はある?」
アルフォルトの質問に、マリクは目を丸くした。
「え、それは女?男?」
思ってもみない質問に、アルフォルトはたどたどしく答えた。
「お、男······?」
「あー······俺は女の子が好きだから女の子なら嬉しいけど、ヤローはちょっと勘弁だな。つーかもうソレ、ほぼセックスじゃん」
明け透けな単語に、アルフォルトは気まずくてマリクから視線を逸らした。
俯いたアルフォルトにハッとして、マリクはアルフォルトの肩を掴んだ。
「なぁ、それはちゃんと同意の上だよな?無理矢理された、とかじゃないよな?」
心配そうに問いかけかれ、アルフォルトが頷くと、マリクはホッとしたように手を離した。
「それならいい。お前ぼんやりしてるというか······隙だらけだから、ライノアがいないとすぐ食われそうだし」
ライノア、と言われてドキリとした。
その相手がライノアです、とは言えずにアルフォルトは曖昧に微笑む。
「今まで、そういった欲求が全く無かったんだ、僕」
「嘘だろ」
目を見開いたマリクは「あ、悪い。人それぞれだよな」と頭をかいた。アルフォルトは、自分の意見だけを押し付けない友人の、こういう所が好きだと改めて思う。
「色々戸惑ってたら······その、手伝ってくれて······自慰を手伝うって嫌じゃないのかな、と思って」
恥ずかしくて俯いたままのアルフォルトに、マリクは手を振った。
「いやー、そもそも嫌なら手伝わねーと思うけど?寧ろ下心丸出しじゃん?」
「し、下心?」
先ほど吹き出して半分に減ったエールを飲み、マリクは答えた。
「そう。好きだから触りたいし、あわよくば抱きたいって事なんじゃないか?」
アルフォルトは、思わず顔を抑えた。
ライノアはアルフォルトを「好き」だと言った。自分も好きだと伝えたら、ライノアの「好き」とアルフォルトの「好き」は多分違うのだとも言われた。
(つまり、ライノアの好きは、僕を抱きたいって事······?)
自分とライノアは王子と従者で。家族で親友で。確かにスキンシップは多いけど、いつも誰よりも側にいる、一番親しい人間だと思っていた。
まさか自分を抱きたいだなんて、考えてもみなかった。
赤面したまま考え込んだアルフォルトに、マリクは頬杖を付いて笑った。
「その様子なら、お前は手伝って貰って嫌じゃなかった、って事だろ?」
素直に頷く。
今までは性的な物に恐怖し、吐き気を覚える事すらあった。
そんなアルフォルトに、快感を得る事は罪じゃない、と優しく触れるライノアの手は、嫌じゃなかった。
(寧ろ──)
「戻りました」
「ぅわあっ!?」
急に背後からライノアの声がして、アルフォルトはビクリと跳ねた。
「すいません、驚かせるつもりはなかったんですが」
申し訳なさそうにアルフォルトの瞳を覗き込む。思わず目を逸らしてしまったが、今はまともに顔を見れる気がしない。
「おーお疲れさん」
マリクは戻ってきたライノアが手にしている肉料理の皿を目ざとく見つける。視線に気づいたライノアは「仲裁の御礼だそうです」とテーブルに置いた。
「お前大人しそうなのに喧嘩できるの意外だよな」
早速肉を貪りはじめたマリクに、アルフォルトは苦笑いして、自分も皿に取り分ける。
「喧嘩ではなく、護身術みたいなものですけどね」
しれっと答えているが、護身術なんて生易しいものでは無い事をアルフォルトは知っている。
「ところで、何話してたんです?」
ライノアの問に、ドキリ、として狼狽えるアルフォルトを察して、マリクは軽口を叩いた。
「俺が最近、花屋のリリィちゃんが気になって仕方がないって話。あ、勿論リリィちゃんには内緒な」
「はぁ。この間はパン屋のお嬢さんが気になってませんでした?」
「パン屋の子は彼氏いたんだよー俺だっていい男なのにー」
机をバシバシ叩くマリクに、ライノアは表情を緩めた。
「そうですね、マリクさんは良い人です」
「お前、自分がモテるからって馬鹿にしてるな?」
「とんでもない、本心です」
他人には必要最低限しか話さないライノアがこれだけ饒舌なのは珍しい。
それだけマリクに気を許してる証拠だ。こういう相手がもっと増えたらいい、とアルフォルトは思う。
マリクに視線を戻すと、ライノアに見えないように、マリクはウインクして見せた。
「ルト、またソースが口についてますよ」
すっと伸ばされたライノアの指先で唇を拭われる。
「あ、ごめん」
「ルト、子供かよ」
ケラケラ笑うマリクを他所に、アルフォルトは頬が熱くて堪らない。
でもそれは、笑われたからではなく。
朝のライノアの手の温もりを思い出したから、とは口が裂けても言えない。
その手に触れられるのは、嫌じゃなかった。寧ろ、もっと触れて欲しいとさえ思った。
アルフォルトは思わずピンク色になりかけた思考を必死に頭の隅へと追いやる。
ライノアの隣にいると、心臓がうるさい。
見つめられると頬が熱く、胸が苦しい。
今までどんな風に接してきたのか、思い出せない。
(──ああ、そうか)
アルフォルトは、気づいてしまった。
──僕は、ライノアが好きなんだ。
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